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なぜ駿府が静岡に改名されたのか?                     ~ 地名由来と織物地名遡源考~

 
■機(はた)織り
 静岡市には、麻機、賎機山など、麻布織の地名が残る。古代史では、秦河勝(はたのかわかつ)が有名である。

 秦河勝が討伐した常世神信仰は、養蚕の絹の機織りの一族がもたらしたものとも考えられ、秦氏によって常世神信仰が討伐されたという歴史は、当時の先進技術の機織りの技術を持った渡来集団の覇権争いであった可能性がある。
 
■倭文機(しずはた)と秦氏と静岡浅間神社
 大和朝廷の家臣であった秦氏と、地方の豪族の間の権力闘争であった可能性も高い。

 神部(かんべ)神社:崇神天皇七年(紀元前90年)の鎮座と伝え、倭文機(しずはた)神社・美和明神とも別称され、この地最古の社である。
 浅間神社:醍醐天皇の勅願により延喜元年(901年)富士山本宮浅間大社の分霊を勧請したと伝え、全国千三百余社の分霊のうち最大最古に神社である。
 大歳御祖(おおとしみおや)神社:応神天皇四年(273年)の鎮座と伝え、奈古屋社・大歳天神とも別称された。社名は大年神・倉稲魂神(稲荷大神)の母(御祖)神の意を表している。

 この三社は静岡市街の北北西の方位、「静岡」の地名の由来となる、「賤機山(しずはたやま)」の最南端に神部・浅間両社は東面して、大歳御祖神社は南面して祀られる。

 三社の中で神部神社が一番の古株であるが、「倭文機神社」と別称されている。

 秦氏を意味する機を除くと「倭文神社」となるが、これに関してはWikipediaを引用する。
 ☞「倭文神社(しとり、しずり、しどり)という名前の神社は日本全国にある。いずれも機織の神である建葉槌命(タケハツチ。天羽雷命・天羽槌雄・武羽槌雄などとも)を祀る神社で、建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られたものであり、その本源は奈良県葛城市の葛木倭文坐天羽雷命神社とされている。しかし、絹織物の技術は仁徳天皇により導入振興されたと言われる一方で、崇神天皇期(10代)にその創始を唱える倭文神社もある。
 
■倭文について
 シズリ、シドリ、シズオリと読ませ、倭文織、即ちシズハタであり「賎機」を充てる
 
■「倭文の由来」
 ここで、何故に「しずはた」に「賎」の文字を充てたかに疑問が残るが、その答えは、「しづのおだまき」倭文(しづ)(=日本固有の織物の一種)を織るのに用いる「苧環(をだまき)(=紡いだ麻糸を、中がうつろになるように球状に巻いたもの)」であり、次のような歌に詠まれている。

 「いにしへのしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」(出典:伊勢物語)

 この「倭文の苧環」から、糸を繰り出す意から「繰(く)る」の序詞(じよことば)を、また、「しづ」を「賤(しづ)」の意にかけて「いやし」の序詞を構成する。(weblio古語辞典より」

(参考)倭文とは、「カジノキや麻などを赤や青の色に染め、縞や乱れ模様を織り出した日本古代 の織物。綾布(あやぬの)。倭文布(しずぬの)。倭文織(しずお)り。しずり。しどり。「ちはやぶる神の社(やしろ)に照る鏡―に取り添へ」〈・四〇一一〉」◆異国文様に対する意で、「倭文」の字を当てたという。(出典:コトバンク)
 
■「倭文」は「つまらない、賤しいもの」
 万葉集で、古来の倭文が古くさいもの、つまらないものに用いられるのは、仏教思想に対応する形で用いられ、時代の気分があらわれている。その気分は以降仏教が浸透するにつれ、大きな潮流になった。

 新しい仏教思想からすると、かつて神聖なものだった「倭文」は「つまらないもの」、「賤しいもの」に思われるのようになった。

 新しい国作り、新しい思想に接して、古来の原始的呪術的な民俗信仰を忌避する感情の芽生えが見られる。万葉集歌中、倭文(しつ、しづ、しず)が、古くさいもの、つまらないものとして用いられている。
 
■服織について
 服部(ハトリベ、ハトリ、ハットリ)は、服織部に通じ、「服織」は現在の静岡市葵区羽鳥のこと(旧安倍郡服織村)である。これは言うまでもなく、ハトリベの郷であり、近郊に「富厚里(ふこおり、ふごおり)」という地名もあるが、これは「ふくおり(服織)」が「ふこおり」となり、「富厚里」はその当て字と推察できる。

 安倍川を挟み、賎機山を中心に「倭文」の旧産業地域に対し、新しい技術を有する集団を率いる秦氏と対峙し、新旧の産業技術がせめぎ合ったたことが推測される
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/90-100/hattori.html
 
■静岡に改名の根拠
 静岡はもと駿府(駿河府中)と云ったが、明治維新後静岡と改名された。これは賎機山に因んでいる。「しず」は人名などでは倭文とも書く。静岡には「麻機」(あさはた)という地名もある。

 これに対して、上述の通り「服織」(はとり)(今は羽鳥と書く。ただし小中学校は服織)という地名もある。

 「はた=機」は織物の事であるが、もともと秦氏の持って来た織物を指す。多分絹織物で、京都の秦氏の中心地の広隆寺のそばには「蚕の社」がある。これに対して在来の織物を賎機=倭文機、麻機と呼んだのであろう。
(出典:「日本史をみなおす」

■静岡の命名の由来
 明治二年(1869)廃藩置県を前にして駿府または府中といわれていた地名の改称が藩庁で協議された。

 重臣の間では賤機山にちなみ賤ヶ丘といったんは決まったが藩学校頭取の向山(むこうやま)黄村(こうそん)先生は時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決同年六月二十日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた。
 以来百有余年富士を仰ぐふるさと静岡の名は内外に親しまれ県都として今日の発展を見るに至った。
 ここに市制施行九十周年を迎え黄村先生の遺徳を敬仰しゆかりの地藩庁跡に市名の由来をしるす。
                   昭和五十四年四月一日  静岡市

 以上、「今の静岡市が、歴史上のエピソードに事欠かない地でありながら、かつて今川氏の歴史と文化に彩られた史実や家康幼少の頃から大御所時代を築いた徳川の時代について、あまりにも市民に関心のないのはなぜか」というのが永年の疑問であった。

 その理由のひとつとして、明治新政府が、賎機に因んだ地名ということで、「賎ヶ丘」即ち静岡に改名したと言われるが、それでは、甲州府中の甲府や長門府中の長府ように、駿河府中の駿府の名を残さなかった理由は何故だろうか?

 それはやはり、徳川を「抹殺」せんがための新政府の意向によるものではないか、といった勘繰りの気持ちが湧いてくるのも否めない。
 今川時代も同様に後代の政権に抹殺され、今では「今川館」がどこにあったかも不明のまま、みごとに市民の脳裏からかつての今川時代の記憶は消されてしまったのである。

 まさに歴史とは、一面に「勝者の歴史」と言われるが、それでは、駿府は「敗者の歴史」なのか?

 一片の歴史だけでは窺い知れない史実があり、その断片の連なりを学ぶということが歴史を学ぶということだと思う。

 私たちは、日頃故郷の歴史や文化を深く知ることもなく、「誇り」を持てないまま過ごして来てしまった。       

 このようなことを学ぶことで伝統文化や歴史を再認識し、故郷に誇りと自信を得て、そこから新たなまちの振興に繋がるなら、それは大いに意義あることだと思う。

                        2014/02/10 初稿
                        2023/06/21 加筆/修正
                              桜井俊秀

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