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「築山殿」生誕の地を訪ねて

 現在、NHK大河ドラマ「どうする家康」では、「築山殿」と「信康」が、今まさにその終焉の時を迎えようとしている。

 そのドラマ前半のクライマックスの中心人物である築山殿の幼名「瀬名姫」が生誕した、静岡市葵区のその名も「瀬名」という地名を今に残す土地を今年の1月末に訪れた時のことを書いておこうと思う。
 
 今川宗家である駿河の今川義忠が討ち死にし、幼くして家督を継いだ龍王丸(今川氏親)の補佐役となった今川一秀が、駿河国瀬名村(静岡市葵区瀬名)に移り、瀬名館や瀬名砦を築いて「瀬名一秀」と呼ばれ瀬名氏の祖となった。

 その後、瀬名氏三代目氏俊の弟義広は、今川氏の重臣関口氏の養子となって関口刑部親永と名乗り、一時「瀬名館」に住んでいた。

 その頃に義広は今川義元の妹の間に女児をもうけた。その女児は、瀬名館に因んで「瀬名姫」と呼ばれ、後に徳川家康の正妻となった。駿府から岡崎に移ってからは「築山殿」と呼ばれ、39歳の時殺害されて生涯を終えている。

 「瀬名館」は、今の葵区瀬名2丁目の「西奈生涯学習センター」(「西奈(にしな)」は、古くは「せな」と呼んだと言われている)を中心に、梶原山と長尾川(瀬名川)に挟まれた広大な敷地に堀を周らせていたと言われ、今も「瀬名館本曲輪跡」や「瀬名館跡」を見ることができる。

 瀬名氏菩提寺として瀬名館の東側、梶原山の西麓に光鏡院を建立し、今川一秀やその北側の龍泉院には今川(瀬名)氏俊夫人が祀られている。光鏡院の背後の山(今の「梶原山」)に瀬名砦があったと言われる。

 また、瀬名4丁目、3丁目と2丁目の間を流れる長尾川(瀬名川)を跨いで「水梨橋」が架けられている。これは鷹狩の好きな徳川家康がこの地に鷹狩に訪れたとき、喉の渇きを覚えて水を求め、近くにいた源右衛門の女房がもぎたての梨を差し出したところ、そのおいしさに喜んだ家康が「以後この土地を『水梨』と呼ぶが良い」と言ったというエピソードが残っていて、橋の名もその名にちなんで名づけられたものと推測する。

 また、家康はその褒美として、源右衛門にその周囲を歩けるだけ歩いた広さの土地を与えた。そのお陰で源右衛門は大地主となり、渡邉の苗字も与えられたという。

 その他にも、駿府城の石垣に使うために、梶原山の中腹の「大谷津」の大沢から切り出した石を運ぶ途中で落としてしまい、縁起が悪いと長尾川(瀬名川)の底に「残念石」として埋められたものが昭和51年に改修工事で発見され、水梨橋の上流500mほどにある長尾川水防団の防災倉庫前に案内板と共に据えられている。(出典:大御所四百年祭記念「家康公に学ぶ」より)


【出典】「瀬名館想像図」(作図:水野 茂 氏)


「瀬名」の位置(静岡市葵区瀬名)

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