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書評「むらさきのスカートの女」 今村夏子

正直なところ、この作品を読んで何の感慨もなかった。これは、面白いのか?これを読んで賞を与えた人というのは、いったい他の読者に対して何をここから読み取ってほしいと思って賞を与えたのか?確かに力の入らない小説で、前の作品ほどは暗くはない。しかし、何が言いたいのかよくわからなかった。

こういう読み物って、何か特別な読み方があって、それに沿わなければ楽しめないものなのだろうか。読んでいるこちら側が、この奥には実はこういうメッセージがありそうだ、みたいなことを当てっこするようなゲームなのか?例えば、実は貧困女子、あるいは独身女子の生きづらさの問題を隠喩的に扱っている、だとか。あるいは書き方の技術論のための材料なのか。例えば、この小説は「黄色いカーディガンの女」の一人称的な表現を採用しているにも関わらず、この女が「むらさきのスカートの女」のストーカーであるような設定になっており、つまり殆ど三人称的な表現に近い技法を用いている。こういうのの是非論をぶつための材料として提供されているのか。

端的に言って、そういうのは文壇の中だけでやってほしい。賞を与えているということは、自分たちの外側にいるような、つまり私のような、普段はあまり手に取って本を読まないような人が本を読むチャンスでもあると思うし、もっとちゃんと一般受けするような本にしてほしかった、というのは本を読み切った後の感想である。正直、この内容だと知っていれば、この本は読まなかったと思う。しかし、小説や映画の難しいところは、あらかじめ内容を知っているということがないことであり、また読み始める(あるいは観始める)と違和感を覚えても、一応どうしても最後まで読んで(観て)しまいたくなるし、要するに機会損失が大きいのである。私の2時間を返せと言いたい。まあ、休暇中にだらだらするためだけに読んでいるのであるから、今回に関しては別にいいのかもしれないが。しかし、日常生活で、仕事も普通にあってという中でこの内容だったら、頭に来ていたと思う。そういう意味では、休暇というのは新しい小説を読むために存在するのかもしれない。

もう一点、人が本を読む様々な目的の中には、「自分がこの本を読んだ」と他の人に言うということ、さらにはその本を批評するということ、こういう類の目的が無視できないほど含まれているんだな、と改めて思った。「人が」とか、一般化しようとしているが、少なくとも自分は、と言い換えるべきなのかもしれないし、他の人はもっと純粋な目的で本を読んでいるのかもしれないのだが、自分にそういう欲求があることを素直に認めておきたい。それがあるからこそ、こういう少なくとも自分には合わない本であっても一応最後まで読もうと思ってしまうのだ。つまり、人に読んだというためには、そして批評するためには、その本を最後まで読まなければならないということなのだと思う。やっぱり「つまんなくて途中でやめたよ」というのでは、他の人に言うまでには至らない。映画もそうだろう。「一応最後まで見たけど…」とならなければ、「いや実はあの先が面白いんだよ」という主張に対して争えない。これが例えば料理だったら、一口食べて「今日のは口に合わない」だとか「下拵えの技術が水準に達していない」だとか言って、後は残してもよく、そして「あの店は味が落ちた」だとか言って批判してもかまわないわけで、この違いは何なのだろうとは、少し思う。

しかしだな、純粋に自分が読み物を楽しみたいだけなら、料理と同じように、別に途中でやめてもいいはずである。それがそうならないということは、小説や映画というのはやっぱり他の人とそれについて話すための、もう少し端的に言うと「俺はあの本読んだぜ(映画見たぜ)」というのを自慢するために存在しているのかもしれない(そのためのみに、とまではさすがに言わないでおこう)。フラグを立てにいっているのである。まあ、動機はそんなものでもいいのかもしれないけれど。だいたいバンドとかだって基本は女にモテるためにみんな始めるわけだろうからね。

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