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書評「渦 妹背山婦女庭訓 魂結び」 大島真寿実

この小説は面白かった。少なくとも、副題にもなっているこの妹背山婦女庭訓が大当たりになったところまでは、かなり面白く読めたような気がする。やっぱり、こういう立身出世もの、レベルアップものは、スラムダンクとかもそうだと思うけど普通に面白いよね。

自分の好みとしては時代劇ものだとか、それから関西弁が出てくるものというのはとっつきにくいという印象を持っていて、だからこの本なんかは普通に書店に並んでいるだとか、Amazonの書籍紹介だとか、サンプルだとかと言ったような普通のアプローチをしていれば絶対に手に取らないタイプの本である。そういう本を手に取らせることができるという意味でも、文学賞というのは存在意義があるのかもしれない。実際に、宮本輝の「青が散る」を読んだ時も最初は違和感があったが結局は割とすいすい読んでしまったという記憶があるので、関西弁のごときは本質的な障害ではないはずなのである。しかし、これだけたくさん選択肢があると、敢えて関西弁を使っている小説を選ぶ必要はないかなと思ってしまう。

何か強いて指摘することがあるとすれば、何というか少し間延びしているような。個人的には妹背山婦女庭訓が前代未聞のヒットになったところで終わってなんでいけないのかよくわからなかったし、半二と獏とが京でその浄瑠璃を書いている間の表現も長かったような気もする。作品の生みの苦しみみたいなものを敢えて読者にも味合わせようとする工夫なのかもしれないけれども、なんか読者の側としてそれを経験する必要があるのか?と思わないこともない。それでも、確かにそのプロセスが奏功したのか浄瑠璃がヒットしたという箇所ではやっぱり興奮した。それが来るっていうのはもちろんわかっているんだけれども、いや、だからこそなのかな。

他の方の読み方とは違うのかもしれないけれども、私が小説を読むときには、実を言うと必ずしも一字一句全てを拾っているわけではなく、結構文章を見落としてしまっていることがあるということは昔から気づいていた。特にページをめくった時に何行かをまとめて飛ばしてしまうことが多くて、これは、例えば縦書きだと新しいページの右上と前のページの左下をつなげるわけだけれども、このとき、新しいページに例えばセリフの短い行がまとまって入っていたりすると、そこから読みたくなってしまって結果的にそのページの初めからそのセリフの行までの文章を読み飛ばしてしまう。要するに、せっかちなのである。その結果としてそこを読み飛ばしても筋が大きく予想を外していない場合には問題ないのだが、何かその先の筋が自分の予想とまったく違っている場合には戻って読み直す、ということが必要になってくる。さらにはその筋違いにすぐに気づけばいいが、大分行ってから気がつくと、かなり戻って再確認しないといけないし、その時にはそもそも一体どこを見落としていたのかわからなくなってしまっているので、結構なロスである。この結果として、自分自身が正確に文章を読み込めているのか、やや自信が持てないまま読みを進めてゆくことになる。

したがって、例えばある種の実験的・前衛的な小説で、展開の意外性を特徴とするような文章を読もうとすると、どこを読み漏らしたのだろうかと常に振り返りながら読み進めて行かなければならず、大きな苦痛を伴う読書体験になってしまう。その点、こういう立身出世ものは、どこか筋を飛ばしてしまったとしても大まかにどこに着地することを目指しているのかということについて紛れがなく、安心して読めるというのはある。立身出世ものというか、ハッピーエンドで終わる類のものもそうだよね。小説の書評なのにマンガの話ばかりで恐縮だが、自分が初めて筋書きで「えっ、こうなるの?」と驚いたのは原秀則作のマンガ「冬物語」で主人公の森川光が二浪の末、最後に結ばれたのが大本命のしおりさん(東大生)でなく、奈緒子(慶應)だったときである。しかし、これもマンガだからこそ筋の読み違いとかはなさそうでいいのであるが、小説だと私の場合はちょっときつい。そういう意味では、本作は結構安心して読み進めることができて、満足しています。登場人物の名前に数字が入っていて、誰が誰であるのかについてあまり疑義無く読み進められたのも良かった。プレジャーリーディングとしてはいいと思う。お勧めしておきます。


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