101回目の瞑想の話(【WHOLE BRAIN】の要約にもなってます。)
お疲れ様です。としぞーです。
僕は10年超の発信において「個人で生きるという選択肢」を主張し続けてきたつもりです。そして、個人で生きるとなった際に重要な行為として「スマホと適度に距離を取る」「寝る前に読書する」「早起きする」「瞑想する」などを挙げ、これをしつこいぐらいに言い続けています。
長くお付き合いいただいている読者様は、もうそろそろ「いい加減にしてくれ」と呆れていることと思いますが、とても重要(だと個人的には思っている)な話ですので、このような発信は永続的に行なっていく所存であります。
ということで、本日はもう何回目かもわからない「瞑想」の話。
とはいえ、内容自体は面白いはず。
毎回切り口を変えて「瞑想」を勧めているわけですが、今回の切り口は脳科学および神経解剖学です。しかも今年邦訳された新書の内容をベースにしていますので、情報収集にはなると思います。
また、今回提示されるロジック自体、日々生きていく上での重要な気づきになります。きっと読んで損はないです。
「瞑想」に全く興味がなくても、ぜひ最後まで読んでみてください。
それでは本編にまいります!
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みなさんは「Jill Bolte Taylor」をご存知でしょうか。
2008年に出版(邦訳は2012年)された【奇跡の脳(My Stroke of Insight)】という書籍はそれなりに売れましたので、この本を通して彼女を知っている方もいるかもしれません。
また、2008年に彼女が出演したTEDの講演動画も非常に有名で(史上二番目の試聴数らしいです)それで認知している人もいるでしょう。
(動画、めっちゃ面白いので、是非見てください)
そんなTaylor博士の新刊が今年やっと邦訳されました。
タイトルは【WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方】です。
今回の記事では、本書のロジックを下敷きに、最終的に瞑想の話につなげたいと思っています。
ということで、瞑想の話は置いておいて、まずは簡単に本書の要約をします。
みなさんが感じている「私」はどこに存在しているのでしょうか。
脳か、体のどこかか、あるいは魂的なものか、いずれにせよこの世のどこかに「私」的なものがあって、「私」はそれを「私」だと思っている。これが感覚的に通常のものだと思います。
しかし、最新の脳科学において、どうやら「私」という確固たる存在が物理的に存在しているわけではないのでは?ということが主張されています。
人間の脳には様々な部位が存在します。その部位それぞれが多様な働きをしていて、その働きが総合して僕たちの体は動いています。そして、それぞれの部位の多様な働きが総合したもの、それが「私」という質感を構築している。そんなことが言われているわけですね。
まぁ、これについてはここで深く突っ込む話ではありません。
とりあえず「私」というものは確固たる何かではなくて、いろいろな要素が総合した結果である、ぐらいに認識しておいてください。
で、みなさんは「左脳と右脳の働きは違う」ということを耳にしたことがありますよね。非常にインパクトがあり、わかりやすく、使いやすいので、ビジネス書や自己啓発本などでもよく取り上げられるトピックです。
一般的には
左脳→言語・論理・計算を司る、真面目で几帳面で努力家な性質を持つ(文字による記憶を行う、記憶容量は少なめ)
右脳→感覚・直感・判断を司る、楽天家でマイペースで自己肯定感が強い性質を持つ(イメージによる記憶を行う、記憶容量は大きい)
という感じで説明されます。
「真面目で几帳面」とか「楽天化でマイペース」とか、あたかも脳の機能を擬人化したような表現に思えるのですが、これは比喩でもなんでもありません。実際に、左脳と右脳にはそれぞれ人格のようなものがあるのです。
てんかんの治療の一つに脳梁離断術というものがあります。
左脳と右脳を繋いでいる脳梁という部位を切断することにより、てんかんが脳全体に広がるのを抑制し、結果的にてんかんの症状を抑えられるのが脳梁離断術の特徴です。
脳梁離断術が施されたてんかん患者は、左脳と右脳の連絡が断たれている状態にあります。このことから神経解剖学の実験にはてんかん患者が大きく貢献しているのです。
そして、てんかん患者に対する実験にて、左脳と右脳が別々の人格を持つことが証明できるような結果が数多く現れています。
例えば、右脳の管轄である左目にシャベルの絵を見せて、試験管が「シャベルの絵が見えたら左手に持っているボタンを押してください」と言う。すると右脳の管轄である左手はボタンを押しているのにもかかわらず、試験者は「何も見えません」と言うといった具合に。(言語は左脳の管轄なので、同じく左脳の管轄である右目はシャベルの絵を見ていない)
こういう実験や研究の連続によって、どうやら「私」というものを形作っている確固たる部位は存在せず、それぞれの脳機能の総合が「私」みたいなものを構築しているという結論が導き出されるのです。
という感じで、左脳と右脳の能力・人格はそれぞれ違うというのは、もはや一般的にさえなった定説です。
しかし【WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方】では、その分類は少し雑すぎると主張されます。
本書では「左脳と右脳」という変数とは別に「大脳皮質と大脳辺縁系」という変数が追加されます。
大脳皮質とは、簡単にいえば「脳みそを覆うシワシワ」の部分です。大脳皮質では、知覚や思考や随意運動や記憶といった高次脳機能が司られています。
大脳辺縁系は大脳皮質の内部にある一部組織の総称です。感情の形成などに関わる帯状回や、情動反応に強い相関がある扁桃体や、記憶や学習能力に関わる海馬などが大脳辺縁系に属しています。
「左脳と右脳」「大脳皮質と大脳辺縁系」の四つの変数を用いると、以下のようなマトリクスを作ることができます。
Taylor博士は、このそれぞれの領域に独自のキャラがいるとします。
つまり「私」という存在は、4つのキャラによって形作られていると解釈できるわけです。(これはあくまでも「そういう解釈」です。先ほどから述べているロジックでいうと、脳の機能ごとにキャラが設定できるはずですから、キャラの数は4つどころか無数に存在します。Taylor博士が言いたいのは「4つぐらいに分けるのが妥当である」ということかと。)
その上で、それぞれのキャラには以下のような性質があると言います。
Taylor博士は2008年に重度の脳出血を経験しました。左脳において発生した出血はゴルフボール大の血栓となり、彼女の左脳を圧迫しました。
その結果、彼女の左脳における機能、すなわちキャラ1と2が沈黙してしまい、キャラ3と4だけが動いている状態を経験したのです。(TEDの動画でも語っていますが、その瞬間は言語や理性的判断が一切できず、しかし代わりに異常な幸福感を味わったとのことです)
Taylor博士はこの経験から「キャラ3と4を重視する生き方こそ大事なのではないか?」という天啓を受け、後にそれを理論によって提示したのが【奇跡の脳(My Stroke of Insight)】であり、【WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方】です。
人間は誰しも、生まれた瞬間にはほとんど左脳が機能していません。赤ちゃんは右脳の自由さに支配されており、行動の全てが直感で行われます。
しかし3歳ごろになるとだんだん左脳が発達し、論理的な思考が可能になります。そして社会性を獲得する(=大人になる)ごとに、左脳の力は強くなっていき、僕たちはそのほとんどを左脳の人格に覆われているのです。(一説には、歳をとると頭が硬くなるのは、さらに左脳の機能が強くなるからではないかと言われています。嫌ですねぇ。本当に。)
また、社会においては左脳的な立ち居振る舞いが求められます。
時間には正確であるべきだし、整理整頓をするべきだし、論理的な判断と理性的な行動をするべきなんです。普通。
だからより僕たちには左脳的振る舞いが求められているわけですね。それによって当然左脳の影響も大きくなる。
でも、今を全力で楽しめるような機能はキャラ3にあるし、自分を肯定してあげるような機能はキャラ4にあるわけです。
ある意味、社会や環境が左脳的立ち居振る舞いを矯正することにより、右脳的自分が抑圧されているとも考えられますね。そして、この抑圧が昨今の世の中における生きづらさを作っているのかもしれません。
【WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方】では、自分の中の4つのキャラをメタ認知し、それぞれに活動の場を与えてあげる(それぞれのキャラが相談をする、というようなイメージで説明されています)ことによって、今までとは違った生き方ができるのではないか?ということが主張されています。
また、そうしたアプローチを心がけることによって、生きていく中で感じる過度なストレスや、それによる各種依存症にも改善の可能性があるのではないかとするのです。
まぁ確かに酒に酔った時のことを想像するとわかりやすいかもしれませんね。個人的に「酒に酔う」とは「アルコールによって左脳的機能(キャラ1と2)が麻痺し、右脳的機能(キャラ3と4)が優位になる状態」だと思っています。そりゃ、高揚感を感じるんだろうし、理性的じゃない判断をするわけだ。(戒め)
もし、それぞれのキャラのメタ認知やアプローチによって、キャラ3と4が優位になる時間を意図的に作れるのだとしたら、確かにアルコールによって無理やりキャラ1と2を退場させる必要がなくなり、アルコール依存症は少なくなるのかもしれません。
どうでしょうか?
この捉え方自体、とても面白くないですか。
そして、少しずらせばビジネスにおいても使えるヒントになるような気もします。
さて。本題です。
『瞑想』とはなんでしょうか。
瞑想にはさまざまな目的とメリットがありますが、そのうちの一つに今回の話と密接に関わり合うものがあるのではないかと思っています。
あなたが今、瞑想をしているとします。
あなたは座って目を瞑っています。
すると色々なことが思い浮かびます。あの仕事をしなければ、あれをやり忘れていた、昔にこんな失敗しちゃったな、今こんな不安があるな・・・
そうした雑念は「言語」として浮かんできます。
まずはこの言語を排除しましょう。
こうした言語は「左脳からの司令」です。真面目で几帳面なキャラ1ちゃんが「のんびりしてんじゃねーぞ」と発破をかけてきますから、これを無視しましょう。こうしてキャラ1を放棄します。
するとそれまでよりも深い集中状態に入ります。
しかし、まだまだ雑念は続きます。今度は言語というよりはイメージに近い形でネガティブな気持ちが浮かんできます。これはキャラ2ちゃんの叫びです。「絶対に良くない状態だよね。どうしようもないよね。不安だよね。」と共感を求めてきます。これを無視しましょう。こうしてキャラ2を放棄します。
すると(瞑想が上手になると本当にそうなります)脳内がだんだんとポジティブな気配になってきて、なんとなく「いい感じ」になります。これはまさにキャラ3の感覚であり、キャラ4の認知なのかもしれません。
ガチの瞑想は、ここからさらにキャラ3と4を放棄します。そうして空っぽになった状態で梵我一如の体感を目指すわけですが、そんな瞑想は常人にはできないし、個人的に必要もないと思うので、ここでは触れません。
つまり、瞑想をするということは、【WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方】でいうキャラ3と4を認知して、より身近なものとして体感する方法論だと言えるのです。
それを繰り返すことによって、日常においてもキャラ3と4が身近になり、さまざまな場面においてキャラ3と4が優位に働いてくれるようになる可能性があります。
キャラ3と4が優位になるということは、物事にポジティブに向き合うことができ、柔軟な判断ができるようになり、自分が本当に求めるものを心から望めるようになることです。
一般的に、瞑想には心をポジティブにしたり、判断力を高めるなどの効果があるとされています。
そういう意味で、あながちこの解釈は間違っていないのではないでしょうか。
僕たちが「私」だと思っているものは、果たして本当の「私」なのでしょうか。それとも、社会や環境に形作られた『仮面』としての「私」なのでしょうか。
その自己問答をしないという選択肢は(少なくとも自分には)ないし、しないという選択をする合理的な理由が思い浮かばないし、しないという選択をするのは正気の沙汰とは思えません。
まとめます。
人生を生きていく上で本当の自分と向き合うことは必須である。
本当の自分と向き合おうとしないのは正気の沙汰ではない。
本当の自分はキャラ1〜4の総合である。
社会はキャラ1と2を求めるから、必然キャラ1と2が優位になる。
本当の自分と向き合うためにはキャラ3と4に向き合う必要がある。
瞑想はキャラ3と4に向き合う方法論である。
よって、瞑想をしないのは正気の沙汰ではない。
QED(雑)
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