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【通信講座】 小説「ありは、人形」 講評


『【通信講座】 小説「サミダレ町スケッチ」 講評』で

わずかな枚数で作者独自の世界観を描破したモダニズム風の佳品。
稲垣足穂、内田百閒に比肩する奔放な個性が創造した
無時間、無国籍の小宇宙に魅了される。
ものうげな緊張感、しずかな焦燥、瞑想のような
祈りのような退屈さ。
一貫する奇妙な味の空気が見事。
趣向そのものは
あたらしいわけではないが
厳格な構成、抑制された文体、無駄のない描写に
ひさしく経験しなかった読書のよろこびを感じる。

と書いた。
これに加えて
SF的設定のなかで、土着的なにおい、ノスタルジーを表現したところに独創性がある。

(作者より)
特にアドバイスいただきたい点は、

・主人公の心情は理解可能か。
・登場人物の描写が陳腐ではないか。
・作中に用いた「ありは」という言葉は、有効な道具になっているか。

の三つです。

今回、わたしは、いわゆる「百合」に分類される小説を書こうと思い立ち、筆を取りました。しかし、どうも、「普通の」友情であるとか、「普通の」愛情であるとか、そういったものを描くことに苦手意識があります(普通の友情も愛情も、本当の意味で存在しないことは分かっていますが、大まかな分類として)。書きはじめた頃は「普通」で爽やかな物語を予期していたにもかかわらず、結局、異常性のある結末に至ったのでした。このような経緯があるために、本作の、「物語としての一貫性」に対して不安を覚えています。作中のさまざまな要素が、不協和音を奏でているのではないだろうかと。また、(特に終盤の、恐喝する場面における)人物描写が妥当かも、気になるところです。自分で推敲した時には合格点を出したのですが、他者からどう写っているのかを知るためにも、ぜひアドバイスをいただきたいと思います。

・主人公の心情は理解可能か。

理解不能。
作者の着想とその成果が一致しているとは言えない。
マキャモン『少年時代』、クロウリー『エンジン・サマー』、コニイ『ハローサマー、グッドバイ』のような幻想的ジュブナイルであり
はじめから「百合」を書こうともしていないし、まして、この作品に「百合」らしいところはまったくない。
作者自身の最初の意図にむりやり妥協するかのようなラストがきわめて不適切。


・登場人物の描写が陳腐ではないか。

一般的で退屈である、という意味の「陳腐」さはない。
絶妙な違和感を計算して書いているならすばらしい。

・作中に用いた「ありは」という言葉は、有効な道具になっているか。

アイディアはおもしろいが、まったく有効ではない。

「君たちは、この土地の文化をどう思う?」
 白板に、赤いペンで流れるような文字を書いた。
「分かり易く言語にのみ着目しても良いだろう。我々の先祖がこの地に流れ着いたとき、残した資料が公立博物館で閲覧可能だ。それによれば、現在用

いられている『ARIHA』という接続詞、副詞は……」
 キュッと白板が小さく鳴る。
「元来『ARUIHA』と表記されていたんだよ」
 「U」にバツ印をつけながら、分かるか? と教諭は続けた。
「植民地化に成功してから、たった四代。四代だ! それだけで、既に言語が目に見えて変化を始めている。こと環境に大きく影響される文化一般では
、もっと大きな何かが起こっていてもおかしくはない。……要するに」
 ――君らが信じ、私も信じ、教育の場で提供されているこの知識……地球……そして日本に由来すると考えられている事柄全てに、十分懐疑的な態度
が要求されるということだ。何せ、教育制度が十分に整備されたのは、我々の親の代のことなんだからね。
「時間がない。以上、授業に戻る」

完全に叙述トリックの伏線であり
このようなささいな言語の変化があったことを示して
ラストの意外な、大胆な、驚愕のどんでん返しを用意したとしか思えなかった。
『猿の惑星』的な趣向だと期待した。
なんの意味もないとは想像だにしなかった。

「におい」「ノスタルジー」を感じさせはするが
「におい」「ノスタルジー」そのものは書けない、主題ではない。
漠然とそのことを理解しているからこその
とってつけたようなラストなのだろうが
作者が書きたかったのがこれであるとしても
作品が求めている構成ではない。

着想(書きたいこと)、作風(書けること)、また
書いている過程で
なにが着想を越えてなしとげられつつあるのか
客観的に把握し
それらを作者のなかでコントロールしながら合致させれば
非常に個性的な作品が完成すると思う。

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