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【通信講座】 小説「つめたいおふとん」 質疑応答①



「マリ」の恋人「祐二」が機能していない。
冒頭、ピロートークめいたやりとりで「マリ」の価値観を吐露させるが
このような場での発言は
冗談半分、あるいは冗談全部のたわむれとしか感じない。
作品の中心となる価値観、生きるか死ぬか、命がけのこだわりを提示するのにふさわしいシチュエーションではない。

このシーンに関して
・会話のやりとりの自然さ等はOKレベルでしょうか?

「いいなあ、ゆうちゃんは。男だから坊主頭にできて」
 彼氏の頭を撫でると、柴犬のような感触がする。坊主頭まではいかないのかもしれない。二年前に一緒に暮らすようになってから、ゆうちゃんは、12ミリとか9ミリとか書いてあるプラスチックの部品をバリカンに付けて、髪を整えるようになった。マリも自分が男なら間違いなく坊主頭にするだろうと思う。美容院代もかからないし。
「あのね、好きでしてるわけじゃなくて、半端に禿げてるとみっともないから潔く剃ってるんだよ」
「そうなの? ていうか、禿げててもみっともなくないよ。ゆうちゃんは筋肉あるから禿げっていうより、スキンヘッドって感じだし。強そうで、いいよね」

不要な記述は
ただひたすら不要なのであって
「自然さ」が十分だからといって救われることはない。
この作品を通じて「自然さ」を志向しているとは想像だにしなかった。
こんな説明的発言をする人間は存在しない。
作者がいかに女性をおろかだと考えているのかが分かる。




・このシーンを削って、価値観の吐露は別のシーン(エピソード?)に持って行くのが正しいでしょうか。あるいは、例えばこのシーンは発言した主人公自身も冗談だと思っているシーンとして残し、別のエピソードで自分の望んでいるもの(男性性の希求?)には、この坊主頭にする等の行為が効果的じゃないかと主人公に気付かせるとよいのでしょうか。例えば短絡的な例ですが、
・マリが痴漢された後に急ぎ足で家に帰る途中に、議員のポスターを見かける。(あるいはそれ以前に、毎日通勤に使うルートで見かけているとかテレビで見ているというシーンを入れておく)
・その人は元タレントの女性議員で、昔は女っぽい人だったが、今はものすごい短髪にして強気な口調で喋るようになっている。髪をかき上げたりしないでいつも顔を上げて前を向いている。
・→はっきり自分の意見を言うためには、毛先が顔に触れて鬱陶しいなんて思っている場合じゃない、と気づく。
などが思いつきました。でもこれは、いつも仰っている「会話や説得から価値観が変容することはない」に近いのだろうかと思います。方向性があっているかだけでもご指摘いただけますでしょうか。

「価値観」は「吐露」すべきではないと言っている。
事件とそれによって生じるコンフリクト以外、価値観を提示できるものはない。
「元タレントの女性議員」と
それを傍観しているだけの「マリ」
どちらが書く価値のある変化をしているだろうか。


『【通信講座】 小説「ボウキョウ」 質疑応答』で

説得、会話、あるいはメールなどで人間の信念は変わらない。
かならず「行為」「事件」を通して「歩み寄る」。
メール程度で「歩み寄る」ことができたのなら
それは「たいしたコンフリクトではなかった」
したがって「書く必要がないエピソードだった」ことを示す表現になる。

と書いた。


『【通信講座】 小説「美ら海に漂う愛」 講評』で

「関係性そのもの」は小説の主題にならない。
コンフリクトが生じない関係性は
作品全体の構成に貢献していないため、不要と判断する。
コンフリクトとは
キャラクター間では
不和、衝突、対立であり
キャラクター内では
(異なる信念、感情、動機の間に生じる)葛藤を意味する。

と書いた。





あるいは、例えばこのシーンは発言した主人公自身も冗談だと思っているシーンとして残し、別のエピソードで自分の望んでいるもの(男性性の希求?)には、この坊主頭にする等の行為が効果的じゃないかと主人公に気付かせるとよいのでしょうか。

「このシーン」に拘泥する理由が分からない。
作者はおもしろいと思っているのかもしれないが
くだらない、ありふれた、まったく機能していない
一般的なカップルの一般的なピロートークを生かすことを考えるより
プロットを再構成するほうが先ではないか。




「女性性の否定、男性性の希求」をはじめた「マリ」に対し
「祐二」は本当に受け入れる態度をとるだろうか。
男性性の象徴として「祐二」を登場させたのならば
かならず「マリ」との関係性が変化する。

このシーンの推敲の過程でマリの「筋トレ教えて」に対して、祐二が「結婚したら教えてあげる」(自分が守るからもう外と戦おうとするな、坊主頭にしてまで戦おうとする痛々しいマリを見ていたくない、の意図)で反応する展開を削りました。
このような関係性の変化(とまで言えないかもしれません)は表面的でもあり、ご指摘の内容とは変化の方向が逆かと思いますがあっていますか?
私自身の願望のままに書いたため、祐二には受け入れる行動のみさせてしまっています。最終的にこの二人は上手くいかせるという結末が譲れないなら、今回描いた部分ではまず反発する方向に動かして、さらにエピソードを追加して纏めていくのが正解でしょうか。それとも、この二人が上手くいくという結末自体が物語として不正解、低レベルなのでしょうか。

作者の最初の構想では
「表面」さえ「変化」していない。
「願望」を垂れ流して共感されたいのなら
小説を書くより
Twitter で長文ツイートをしたほうがいい。
「変化」しない人間は生きていない。書く必要がない。
「最終的にこの二人は上手くいかせる」なら
当然、「まず反発する方向に動か」すべき。
破綻するラストを想定しているなら
当然、それまでは逆の関係性でなければならない。




ひとつのアイディアを「短いもの」にまとめるほうが、よほどむずかしい。実際、この作品でまとめきれていない。
「ショートショート」ならざる100枚程度の短・中編小説で書くべき主題の深さを持っている。

この作品で描きたかったものに対して、必要な要素が足りていないという理解であっていますでしょうか? 削った方がよい部分も当然あるかと思うのですが、現時点では削るより足さなければならない要素が多いですか?

構成がはっきりすれば
必要な要素、不要な要素は自動的に決定される。
明確に書きたいことを自覚していないのが問題。





着想、文体を生かしきるための構成に無頓着すぎる。

自分の文体の個性を評価していただいて喜ばしいのですが、その文体を生かす方法があり、それを見つける(考える、生み出す?)という新たな課題があるのですね。自分と似ている文体の作家を探すのは方法としてあっていますか?

それしかない。
模倣しつくして
あきて、卒業したころに自分の文体が完成する。





まさに、「物語の構成方法の勉強をすべき」。

本等からハウツーを学ぶのを一つの方法として考えているのですが、物語の構成方法を意識しながら文芸作品を読書する方法があれば教えていただけますでしょうか?

作家の「小説の書き方」は結果論でしかなく
体系的な方法論を自覚していないので(日本の作家は特に)
あまり信用しなくてもいい。
「おもしろい」、「つまらない」を
漠然と印象のままに放置してはならない。
明確に言語化する努力をしながら
小説、映画、美術、あらゆる作品を鑑賞すべき。
要素と構造、部分と全体を常に意識しながら分析する。





マラソンという意味のない比喩を出してしまい恥ずかしく思います。お聞きしたかったのは何か考え直してみました。今回のように講評をつけて頂いた場合に、同じ作品を書き直していくのがよいのか、最初から長い作品をどんどん新しく書いてみるのがよいのか、ということを教えて頂きたいです。

分からない。
この作品によほど思い入れがあるのならば
時間がかかっても加筆修正すればいいが
(私にはそこまで重要な作品だとは思えない)
次の作品を書くことに
より可能性を感じる。

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