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【通信講座】 小説「ボウキョウ」 質疑応答

①凡庸な作品で恐縮ではありますが、あともう少し、8話だけ読んでいただけませんか。廃墟となった実家との対面・主人公の動揺もコンフリクトにはなりえないと言われるかもしれませんが、この話の一部分だけでも小説の主題として活かしようがないか、知りたいです。

これはのちほど。
そこまで言われたら
読んで、講評する。


②表現の古さを打破する、印象に残る表現をするためにはどうしたらいいでしょうか。自分ではたくさん小説を読む、まず真似るくらいしか思いつきませんが、読むにしてもどのような作品が良いか、どのように読めばいいかヒントがほしいです。

「たくさん小説を読む、まず真似る」につきると思う。
おもしろい作品もつまらない作品も読んで
自分のセンスを磨くしかない。
その上で、確信を持って現在の文体を
あらためて選択するなら、私にはなにも言うべきことはない。

現代日本社会を書きたいのなら
日常生活そのものが小説の材料なので
いつも意識的に人々の、風俗、会話、流行、行動を観察すべき。
自分で書いたように話す人間は存在しないことが分かる。



③「広く読まれたい」という意識は無いほうが良いのでしょうか。ちなみに最近は、読まれることより、書きたいものを書くことに重きを置こうかと思い始めています。(以前の記事で「賞を取りたいならば…」という対話形式の内容は拝読しているのですが、確認です)


「広く読まれたい」と願わない作家がいるだろうか。
私は別に「大衆」を馬鹿にしているわけではない。
低俗な文章に読む価値はないが
ただの自己満足が「芸術」であるとも思わない。
俗情と結託して、売れる作品を書く
自分が満足できる作品を書く
本当の作家は常にこの2つの欲望に引き裂かれながら(「葛藤」「コンフリクト」)
永遠に妥協点を発見できないまま
「次の作品」を書きつづける。
あなたの問題意識に即して「芸術」を定義するなら
こういう営為のことだと思う。

「大衆」にも「芸術」で感動する権利はあるし
あなたが創作をつづける以上、
現在の水準にとどまらず上達していく義務がある。


④「20枚で書ける」とのことでしたが、例えば以下のような内容だとしたら、プロット(に見えたらいいんですが)段階でどのような手直しをされますか。(実際に書いたものは5万字強です)

・祖母と伯父夫婦が、居住制限解除区域における土地の売却や家の譲渡について揉める。主人公は家族会議に巻き込まれ、親戚と両親の思いを知る(主人公が傍観者なのが問題だとは思っている)→和解。
・主人公、伯母のSNSでの誹謗中傷被害を知る。
・友人からのメールをきっかけに主人公が父と歩み寄る。
・帰還困難区域にある実家に行こうと父が提案。主人公、避けていた過去と向き合おうとする。
・帰還困難区域への立ち入り。主人公、現実逃避。
・帰宅後、実家を解体すると提案する両親に、主人公が反発。
・父と和解できそうな時に、震災で家族を失った男が引き起こす傷害事件に巻き込まれる。
・主人公の過去回想。病院で目覚めた主人公、両親と和解。

十分に流れを把握できないが
「和解」「歩み寄る」はラストまでとっておくべき。
口論と和解を繰り返すのは、ふつうの家族関係でしかないと思う。
・友人からのメールをきっかけに主人公が父と歩み寄る。
これはありえない。
説得、会話、あるいはメールなどで人間の信念は変わらない。
かならず「行為」「事件」を通して「歩み寄る」。
メール程度で「歩み寄る」ことができたのなら
それは「たいしたコンフリクトではなかった」
したがって「書く必要がないエピソードだった」ことを示す表現になる。


⑤コンフリクトの例として、例えば父親が主人公を拒絶したり、主人公が父に苛立ったり、母に八つ当たりしたり、という展開ならば成立したでしょうか? 足りないとすると、どのように改善できるでしょうか。

大きな声を出せばドラマチックになるわけではない。
行動理念が完全に一致する人間などいないのであって
その些細なすれちがいを浮かびあがらせるために
作者が状況、事件、その他の偶然を布置してプロットを構成する。
登場人物たちをどのような場に置き、
どのような緊張要因を導入すれば
それまで見えなかったコンフリクトが見えてくるか
という発想が「足りない」。


⑥語り手に価値観を持たせるには、コンフリクトに対する反応を描写するべしということですか。理解が足りずすみません。

あらかじめ想定した「価値観」にしたがって
「反応」が決定される。
「コンフリクトに対する反応」があって
はじめて人間の「価値観」が分かる
とも言えるから、その理解でもかまわない。


⑦本論とズレますが、そもそも私自身が、「ごく一般的な良識を持ったふつうの女性」で、何か新しいことを訴える資質に欠ける気がします。それとこれとは別な気もしますが、悩みます。実体験が無ければ創作ができないとは思っていませんが、実体験が無いなりに何ができるでしょうか。新しい物を見聞きし続けることでしょうか。

生命を持ちえた作品は
けっして作者の人生には従属しない。
「実体験」が作品に影響することはあっても
その価値を規定したりしない。
そのようなロマン主義的迷信は無視してかまわない。
作家にもっとも必要な資質は数学的思考であって
パズルのように組み立てていけば
かならず最適解が見つかる。


⑧「いかなる変化をさせるか」という点で「震災以来努めて良い子であろうとしてきた主人公が、自分の家が廃墟になっている事実を受け入れる過程で自分の感情、意見を表出していき、最後は避けていた父に歩み寄る」という設定が甘いとして、どのように改善できるでしょうか。(本編でこの大筋以外のことを書きすぎている点はまた別の反省点です)

⑦のつづき。
「良い子であろうとしてきた主人公」を書くために
あの家族は円満すぎる。
とても屈折して成長するようには思えない。
当然ながら
そのような過剰適応を暗示するエピソードこそが必要。
「最後は避けていた父に歩み寄る」がクライマックスなら
当然ながら
それまでは避けているべきで、歩み寄ってもいけない。
作品全体、シーンごとの課題、目的から逆算すれば
書くべきこと、少なくとも
「書くべきでないこと」は自明だと思う。



⑨プロットから見直すとしたら、同じ作品を書き直すより、新しい作品を書いた方が良いと思うのですが、いかがでしょうか。

分からない。
「新しい作品を書いた方が」早いとは思うが
よほど思い入れがあるのなら
時間がかかってもこの作品を書きなおせばいいと思う。


ちなみに、この創作教室のやりとりの過程で馴れ合いは無用だと思うのですが、ただ一つだけどうしてもお伝えしたいことは、私もジョジョは二部が一番好きだということです。そこだけは分かり合える気がしました。


私はこわい人ではないので
ふつうのコミュニケーションをするのになんの遠慮もいらない。
「馴れ合いは無用」とも思わない。
「そこだけ」ではなく、もっと「分かり合える」だろう。
この講評の文体が威圧的に感じたなら申し訳ないが
やさしい表現を選んでいる余裕がないので
いちいち断定的になってしまう。

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