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【通信講座】 小説「ボウキョウ」 講評

13万字の長編。
冗長すぎる。
20枚で書ける。

未熟な作者の通弊、「物語の時間と言説の時間の一致」
「見聞きし考えたことをすべて書く」をやっている。

性表現のある映画がポルノか芸術かを判断する方法があるという。

(性行為の描写も含んだ)映画のなかで、登場人物が車やエレベーターに乗り込むとき、言説の時間が物語の時間と一致するかどうか確かめるのです。フローベールはフレデリックが長い旅行をしたと言うために一行を使いますが、普通の映画のなかでは、登場人物が飛行機に乗ったかと思うと次のカットですぐに到着しているのにお目にかかります。ところがポルノ映画では、だれかが一〇ブロック先まで車に乗っていくとなると、車は一〇ブロック—現実の時間で—移動します。だれかが冷蔵庫を開けてテレビをつけてソファで飲むためビールを注いだとすると、みなさんが家でそれをするのにかかるのと同じだけ時間がかかるのです。

                 ウンベルト・エーコ『小説の森散策』


申し訳ないが
1/3しか読めなかった。
不誠実と言われるだろうが、やむをえない。
低俗、凡庸、退屈きわまりない文章を読むことに
これ以上の時間、労力をついやすことは
私にはできない。

赤川次郎の往年の作品を彷彿とさせる
軽さ、読みやすさ、分かりやすさはあるが
赤川次郎の往年の作品のように
2020年9月現在ではとても通用しないくらい、タイトル、文体、会話、語彙が古い。
移動中のひまつぶしには最適だと思う。
描写は正確だが、頭をつかって解釈すべきところはひとつもない。
印象に残る表現も皆無。


『【通信講座】 小説「生まれつき機嫌が悪い」 講評』で

日本近現代文学における、モデル作者、モデル読者が
どのように想定されているか、とてもよく分かる。
ブルジョワが書き、ブルジョワが読む(ブルジョワ=中産階級/俗物、いずれの意味でもかまわない)。
ある意味で興味深いが、あたらしいものは表現されていない。
「クラシック音楽バー」、「セックス」、安価な苦悩とメロドラマ、
村上春樹、山田詠美、金原ひとみ、その他の亜流作家が通過し、踏みにじってきたぬかるみを(足跡は残せまい)
あえてまた行こうというのは
作者の積極的な創造力の発露、必然的な選択の所産ではなく
日本語で小説を書くなら、このような素材を布置すればいい
という先入観があるとしか思えない。
見通しはいいので確実にゴールにはたどり着けるだろうが、本当にこの道を行くのか。
走りなさい。拍手でむかえられるにちがいない。
(マラソンで最下位の走者は、あたたかく祝福されながらテープを切る)

と書いた。
高尚な趣味を持っているようなふりをする「ブルジョワ」どころか
芸術への感受性が完全に欠如した大衆にお似合いの作品。



(作者より)
● 自分で気になる点
① テーマ「故郷と家族」を表せているか
② 裏テーマ「福島第一原発事故後の福島県浜通りを知ってほしい」はうまくいっているか
③ 主人公が淡々としすぎており、感情移入しにくいと言われるので、改善するとすればどのような手段があるか
④ 後半ほど推敲の時間と回数が少ないため、構成が甘い気がする
⑤ いれるかどうか最後まで迷ったエピローグは賛否両論。川光さんなら、どのようにお感じになるか…



① テーマ「故郷と家族」を表せているか

「第1話」「第2話」が不要。
特に、「ノノ」との関係性を
再会のシーンをつくってまで書く必要がない。
(この「神楽坂のフレンチレストラン」のシーン、実に村上春樹的「ブルジョワ小説」)


「第1話」(1〜21/310)を読んで
「故郷と家族」がテーマであると感じる読者はいない。

ノノになら、本音で話せるのに。
53/310
それより誰より大事な人がいる。真司だ。
57/310
ふと、ノノの家族が東京に避難してきたときに服を買いにいった話を思い出した。一刻を争う時に服まで気遣う余裕などないと、つくづく実感した。
58/310
不意に、ノノの疑いを知らないような眼差しが頭をよぎった。
79/310

冒頭以来、いつまでも登場しない
「ノノ」、語り手の夫「真司」を
ときどき思い出すことによって
ストーリーの本流につなぎとめているつもりなのかもしれないが
まったく効果がない。
語り手の生涯の経験、記憶を通じて
友人として唯一、「ノノ」のみをわざわざ何度も思い出すのは
作者の都合でしかない。
このような強引な操作が「第1話」「第2話」の不要性を証明している。


② 裏テーマ「福島第一原発事故後の福島県浜通りを知ってほしい」はうまくいっているか

申し訳ないが
そこまで到達できなかった。



③ 主人公が淡々としすぎており、感情移入しにくいと言われるので、改善するとすればどのような手段があるか

大丈夫、越えられない壁は無い。一歩ずつ未来に進んでいこう。

と語り手は言っている。
作者が「越えられない壁」を提示していないのだから
そうにちがいない。

父親の「記憶障害」自体は「壁」でもなんでもない。
ごく円満な家族関係のなかで経験する
多少めずらしいエピソードでしかない。


『【通信講座】 小説「美ら海に漂う愛」 講評』で

「関係性そのもの」は小説の主題にならない。
コンフリクトが生じない関係性は
作品全体の構成に貢献していないため、不要と判断する。
コンフリクトとは
キャラクター間では
不和、衝突、対立であり
キャラクター内では
(異なる信念、感情、動機の間に生じる)葛藤を意味する。

と書いた。
「記憶障害そのもの」はコンフリクトにならない。
作者が書き
読者が読むのは
常に人間であって
「記憶障害」によって、どのように関係性がゆがみ、きしみ、破綻して
その過程でどのように人間たちが行動するのかが表現されていなければならない。

しかるに
家族の信頼関係にまったく変化はなく
「記憶障害」を受け入れている寛容な人々になんのコンフリクトも生じなかった。

「結婚、するんでしょ?」
 不意をつかれて驚いた。でも、私達はそういうことを真剣に検討したことは無い。正直に「まだ考えてない」と答えた。

語り手の「結婚」以上の「壁」でさえない。



『【通信講座】 小説「竹刀と彼女(仮)」 講評』で

キャラクターには
問題がないとは言えない。
「月島」は非常に魅力的で
愛すべき主人公になっているが
一方、ヒロイン「梨子」は
アニメ、ゲームにしか存在しない、善意のみの都合のいい女でしかない。
過去も、内面も、行動理念もなく、あるいはきわめてあいまいで、
ひたすら「月島」に献身的な奉仕をする「梨子」は
生きた人間とは思えなかった。
全編通して、漠然と「月島」に興味を持ち
絶対の好意を示しつづける。
「梨子」も「月島」の吃音と同様、なんらかの課題を持ち
「月島」が「梨子」との交歓で成長したように
「梨子」も「月島」によって変化しなければならなかった。
「梨子」の兄「逸人」もおしい。
全体的に、作者の人柄なのか
悪人、エゴイスト、その他、悪意の人間は登場しない。
「月島」の父親さえ、話せば分かる。

と書いた。

語り手には価値観がない。
ただの解説者、ナレーターにすぎず、ごく一般的な良識を持った
ふつうの女性が状況に対して感想を述べているだけ。
その「感想」は「芸術への感受性が完全に欠如した大衆」のそれと完全に一致するだろうが
なにひとつ、あたらしいことを表現できない。
三人称より無個性な視点。
価値観は、人間の偏見、欠落、未成熟な部分によって規定されるが
語り手はつまらない良識でしか
周囲の物事を判断しない。
語り手に、いかなる変化をさせたいのか
構想の段階で計画しておくべき。
作品の本質は、この語り手の変化であり、「故郷と家族」そのものは書けない。



④ 後半ほど推敲の時間と回数が少ないため、構成が甘い気がする

申し訳ないが
読んでいないから分からない。
冒頭、序盤も「甘い」ので
自覚がある後半はもっと「甘い」のだろう。


⑤ いれるかどうか最後まで迷ったエピローグは賛否両論。川光さんなら、どのようにお感じになるか…

不要。

 視界に全面花柄の派手なハードカバーが飛び込んできてハッとした。
 作家・西山実里(ニシヤマ ミノリ)の〈夏の花束〉――十代最後の夏に買った恋愛小説だ。
 全面、花柄。懐かしさより、自分がこんな派手な本を持っていたという驚きの方が大きかった。
 しかしなんでココにしおりを挟んだんだろうか――クローバーを鞄に放り込んで考えた。


ミステリー的趣向を暗示しておきながら
作中作を読まされていただけだったとは
13万字もつきあわされた読者はがっかりしたことだろう。
思わせぶりなエピグラフも無意味。

冒頭以来、いつまでも登場しない
「ノノ」、語り手の夫「真司」を
ときどき思い出すことによって
ストーリーの本流につなぎとめているつもりなのかもしれないが
まったく効果がない。

と書いた。
冒頭以来、いつまでも意図が不明な
「作家・西山実里」の伏線を
エピグラフによって
ストーリーの本流につなぎとめているつもりなのかもしれないが
まったく効果がない。

小細工を弄する前に
生きた人間とはなんなのか、真剣に考えてみることだ。

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