【通信講座】 小説「猿面冠者」 講評
菊池寛と芥川龍之介にあこがれて太宰治が書いた初期の作品を、さらにぎこちなくしたような印象でした。
伝えたいことは分かりますが、不明、無用のレトリック、また、能にも歴史にもさしてくわしくない私でも確実に嘘だと分かる記述が多すぎます。不正確な表現はフィクションならざる「嘘」です。
11ページ中2ページ目くらいで読むのをやめようと思いましたが、なんとなく神学的な主題が出てきて、この時代、この題材とどう調和させるのか、少し興味がわいたので、苦痛でしたがなんとか最後まで読みました。結果、期待はずれでした。
時代考証が適当なのはまだしも、罪、愛、生命、戦争などに対する思索が浅すぎます。
「景時」の価値観が当時としてありえないのも、書きようによってリアリティを出すことができるかもしれないからまだいいと思います。
「景時」が慈悲深い人間だと強調しつづけているので、ふつうの読者は「景時」の偽善が最後にあばかれる話だと思いながら読みます。「猿面冠者」がイエスの象徴なら、こうはならないでしょう。
「猿面冠者」が泣いているのを見る。
「景時」は同情する。
しかし、庭で面をとった「猿面冠者」は笑っていた。
「景時」はみずからの偽善に気づき、強者の同情などエゴイズムにすぎない、あざけっていたものたちと同じ罪人であると悟る。
「景時」は、善悪のかなたの虚構の世界の救いを信じ、能楽師になる。
という流れだと、「猿面冠者」=イエス=芸術という構図の芸術礼讃が主題になり、おそらくこんな展開かなと予想していました。
小説の定義は、
「多かれ少なかれ特殊な変化を
多かれ少なかれ特殊な表現で書く」
ということにつきますが、「景時」の変化が書かれていないこの作品は小説らしいところがなく、読んでいて気味が悪いです。
習得すればそれで小説が書けるというような「小説語」など存在しないので、自分のことばで書くことからはじめたほうがいいでしょう。
あなたは小説っぽいものを書こうとして、なんであるか分からない、日本語らしいもので書かれた文章らしいものができてしまいました。
それゆえ、ほんとうの顔を見たものは――この餓鬼か童かも判らぬ者をここに連れてきた――座長である、金売吉次しか知らない。座の者たちは矢継ぎ早に反発した。
ダッシュ記号をはずかしげもなくつかうなど、村上春樹のパロディ以外でよくできるものだと思います。身につかない表現で、長い一文など書きなれないから初歩的な文法のまちがいもしてしまいます。あとで指摘します。
作者より
・構成や登場人物に問題はないか。
ふつうは、「景時」を主人公だと感じさせてから「猿面冠者」の来歴を語ります。
「景時」の慈悲を賛美して終わることはぜったいにありえません。
・誤った文法、言葉選びがされていないか。
むしろただしい文を探すのが困難です。
「小説語」など捨ててしまったほうがいいと思います。
・400字詰め原稿用紙30枚以内なので、削るとしたらどこが良いか。
必要な部分がどこにあるのか分かりませんでした。
小説っぽい描写は一切不要です。
・入賞できるか。
本気で期待しているとは思いませんが、可能性はないのできっぱりあきらめてください。ネットで公開して恥をかいたら、一刻も早く次の作品を書きはじめたほうがいいでしょう。これはあなたの最高傑作などではないので、こだわる必要はまったくありません。
生田神社の能舞台に大勢の人が集まっている。
ふつうの読者はこの記述で、舞台上に人が集合している様子を思い浮かべる。
「能舞台のまわりに」と書けないところがこの作者の適当なところで、見えていないものを小説っぽく書いているだけだと冒頭で分かる。正確に書け。
能狂言を観劇したこともないんだろ。
あるなら、いよいよひどい。
それゆえ、ほんとうの顔を見たものは――この餓鬼か童かも判らぬ者をここに連れてきた――座長である、金売吉次しか知らない。
「座長である、金売吉次だけだ。」がただしいよね。
「座長」ということばがあったのか、あやしい。
「しか知らない」とかもったいぶったら、ふつうは最後まで明かさない。その謎が主題だとふつうは思う。すぐに書いてしまうのが構成として気持ち悪い。
座の者たちは矢継ぎ早に反発した。名前も、素顔も見せぬ、そんなどこの馬の骨ともわからぬ者を座に留めて置くわけにはいかぬと、口々に罵詈雑言を並べたてた。
「矢継ぎ早に」すぐさま、反射的に、というつもりなのだろうが、ちがう。
「馬の骨ともわからぬ」適当な慣用句でごまかすのはやめろ。
「罵詈雑言を並べた」ただの正論。ちゃんと悪口を書け。
猿面冠者は世にも稀な管楽の音色とともに、いにしえの宋や渤海の王朝物語を体現する。いまや、播磨の猿面冠者が名声赫赫なのは云うまでもない。
あなたが強調したいのは「体現する」であって、「音色」ではないので、「世にも稀な」は不適切で不要。慣用句でごまかすのはやめろ。自分のことばで書け。
「云うまでもない」わけがない。ここまで読んでなにひとつ伝わっていない。才能があったから、とか適当な記述はやめろ。
このたび一座は、宇治・勢多を巡幸し、
「巡業」がただしい。「巡幸」は天皇以外を主語としない。
境内に鬱蒼と生い茂る生田の森
「鬱蒼と」なにも見えていない。慣用句でごまかすのはやめろ。
「ご覧あれ父上。一点の雲もとどめぬ、天下泰平の青空であります」
そう応える好青年は景時の嫡子、梶原源太景季である。
「げに良き晴天よ」
と景時は快諾する。
「応える」聞かれていない。
「快諾」意味を調べろ。
討ち入って十文字に駆け巡った。
こんな表現は存在しない。思い浮かびますかね。「卍巴に」とか、決まり文句にしてももっと気のきいたものを選べ。
あっと見れば、源太は馬を射られ歩立になり、兜も撃ち落とされ大童となり、五人を相手に獅子奮迅の有り様ではないか。
主語は誰なんですか。急に作者が出てきて、見て、「ではないか」とおどろいたんですか。
神聖無垢なる日輪の光は、生田神社の地に集う幾百星霜の民衆に向けて、あまねく照らしあげている。
ここで太陽を強調する意味がないんですよ。
その絢爛豪華な神輿を、いかり肩に乗せた益荒男達が「応よ、応よ」と鬨をつくりながら、真昼の路を練り歩いている。
「絢爛豪華」陳腐。ないほうがまし。
「鬨」意味を調べろ。それっぽいことばをつかわない。
猿廻しの小猿が見事な宙返りをすれば、童と童女が拍手をする。
近代以前に拍手の習慣はない。最初「かしわで」だと思ったんですが。
それを合戦で家を焼かれ、辛酸の味を舐めた民衆から見ると、滑稽としか思わない。
「合戦で家を焼かれ、辛酸を舐めた民衆からそれを見ると、滑稽としか思われない。」
3つ探せ。
幼い頃から弓矢を取る身であって、周りの関係や士気の高揚は、人一倍機敏である。
高揚には〜敏感である。
ダンダラの紅白幕に、金箔の紙吹雪が一陣吹き荒れたかと思うと、世にも醜穢な猿面に、滅紫の水干姿を着た冠者が、荒荒しく舞台に躍りでたのだ。
あやしすぎる。「ダンダラ」と「しま」を勘ちがいしていると思うし、能狂言に幕などない。「紙吹雪」もなさそうだし「金箔」などつかえるかどうか。「滅紫」も律令で禁色になっていないかどうか。くわしく調べていたらごめんなさい。
知らぬ存ぜぬにも関わらず鎌をかけられるほど、気持ち悪いものはない。
こんな最上級表現になんの説得力もない。司馬遼太郎のまねだろうか。
盃をすする音がやけに大きく響いていた。
くわしくないんですけど、こういうマナーがあるんですか。「なめる」とは言いますが。
口から溢れた数滴の酒汁が、檜の床板に不気味な染みをつくった。
「酒」では不都合ですかね。そんなことばが存在しますか。小説語で書こうとするのはおやめなさい。
たかが傀儡や猿公に大層な演劇や踊りができるわけもなかろう。
「演劇」theaterの訳語なので近代以前にはないと思います。せいぜい「芝居」でしょう。
親の犯した罪は、子の罪でもあるのか。それとも戦に敗れた者の末路と片付ければ、すべて解決できてしまうのか……。
この時代の価値観だと、まったくそのとおりだと思いますよ。
それに吉次の云うとおり、一族郎党を危険にさらしてまで、敵将の遺児を助ける道理はどこにもない。かの者を助ける理由は景時にないのだ。
そうですよ。
人々の下卑た笑い声や、あさましい罵りの光景よりも、夜風のなかの花々や虫の囀りのほうがずっと純粋で美しいと思った。
あたりまえすぎて書く必要がないですよね。「景時」ならではの感想ですか。そうではない人間っていますかね。
「ひとつ、舞ってみようかな」
しゃべりすぎなんですよ。こんなことを言ってから舞う人間なんていないんですよ。
みんな貴様たちの出かしたこった!
「こった」は、おそらく東京弁ですね。
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