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小説「天上の絵画」 vol.2

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2.二〇〇七年 渡井蓮 九歳
 
 蓮が絵を始めたのは、小学三年生の頃だった。

 母親に連れられて、絵画教室に行ったのがきっかけだ。最初は全く興味はなかった。当時蓮の周りではサッカーが流行っており、友達のほとんどが少年チームに所属し、放課後もグランドや広場に集まって、陽が落ちボールが見えなくなるまで、熱中していた。

 蓮も仲の良い友達と同じ少年チームに入りたいと願い出たが「ケガをしたどうするの。危ないからやめておきない」と聞き入れてもらえなかった。

 そして連れて行かれたのが、自宅マンションから車で三十分もかかる場所にある絵画教室だった。
 隣町にある『高野橋区民会館』に連れて来られた蓮は、車を降りため息をついた。
 
 「何。その顔は…」化粧の濃い母親が、眉をしかめる。普段はスッピンにジーンズとトレーナーで、平気でコンビニに行くが、今日はオシャレな花柄のワンピースを着ていた。前の日に美容院でパーマをあてた髪を、ふんわりとなびかせた。
 
 「あの湯澤徹先生の教室よ。楽しみじゃないの」
 
 仏頂面の蓮は、返事をしない。
 画家の『湯澤徹』といえば、その界隈では名の知れた人物らしく、母親は友人と行った展覧会で、彼の絵に一目惚れし、すっかり虜になってしまった。展覧会で彼の絵がプリントされたポストカードを、大量に購入してきた母親は、リビングの壁に所狭しと貼り付けた。父親の「落ち着かない」という愚痴を聞こえないふりをして、惚れ惚れとした表情で満足げに眺めていた。
 
 湯澤徹が絵画教室を開いていると知ったのは、リビングに納まりきれなくなったポストカードが、廊下まで浸食し始めた頃だった。
 
 「ねえ、行ってみない?」
 興奮した母親がチラシを持ってきた。『第五十三回 日本芸術院特別賞受賞 湯澤徹が徹底指導!』と書かれたチラシの右下に、湯澤徹本人の顔写真が載っていた。胸から上のバストアップで撮影された写真には、フチなしの眼鏡をかけた三十代くらいの男性が、歯を見せて温和な笑みを浮かべている。写真は白黒だったが、穏やかで優しそうな雰囲気が伝わってきた。

 画家と聞いて、立派なひげをたくわえた、強面なおじさんを想像していたから、清潔感溢れる爽やかな姿に、ほんの少し興味がわいた。
 
 「別に一回くらいなら行ってもいいけど…」そう答えると、母親は飛び上がって喜んだ。絵画教室は毎週水曜日の十七時から開催されているらしく、学校から帰宅後、息つく暇もなく車に乗せられ、ここまで連れて来られた。
 
 年季が入り、老朽化の進んだ『高野橋区民会館』は二階建てで、隣には『高野橋文化会館』が林立していた。小さい頃、ここで人形劇を見た記憶がある。
 「もう十七時よ。急いで!」母親に急かされ、蓮は渋々後ろからついて行った。
 入口から中に入ると、受付カウンターが目に止まった。そのすぐ脇にホワイトボードがあり、二階会議室の欄に『湯澤徹絵画教室』と書かれていた。
 「すみません。二階の会議室へは、どうやって―」カウンターの奥にいた女性に声をかけた。

 「あそこの階段を上がってもらって、左に曲がった突き当たりです」
 女性に礼を言って、早足に階段に向かった。
 
 「なんかドキドキしちゃうな」
 母親は階段の踊り場で、胸に手をおいて、深呼吸をした。わずかに頬が赤らんでいる。その姿を見て、急に恥ずかしくなった蓮は、目を背けた。
 
 階段を上がり、左に身体を向けると、廊下の先に『会議室』と書かれたプレートが垂れ下がっていた。視線を下げると、扉のすぐ手前に『湯澤徹絵画教室』と書かれた立て看板があった。
 「あそこね」母親が声を弾ませる。学校とよく似た廊下を進み、会議室の扉の前まで来ると、中から子供達のはしゃぐ声が聞こえた。ガラス窓からゆっくり覗くと、子供達が楽しそうに、筆やパレットを準備している姿が見えた。筆を使ってチャンバラごっこをしている子もいる。デニム生地のエプロンをつけた男性が、笑顔で筆を取り上げた。
 
 母親が扉を開け「失礼します」と声をかけると、全員が一斉にこちらを向いた。

 「今日、体験授業をお願いしていた渡井ですが―」
 
 「あーお待ちしていました」エプロン姿の男性が、筆を持ったまま近づいてきた。「初めまして、湯澤徹です」写真で見たままの温和な笑みを浮かべ、頭を下げた。
 
 「よろしくお願いします」母親が恭しく言った。
 
 「君が蓮君だね」眼鏡の奥の瞳が、優しい光を放つ。目を細めると、目尻に細かい皺が浮かんだ。渇いた絵の具がこびりついたエプロンは、端が黒ずみ、穴が開いている。チラシの写真は、加工が施されているせいで、スマートな好青年に写っていたが、実物はニキビ跡や皺が目立つ、どこにでもいるおじさんだった。他の生徒達が、パレットや絵の具、バケツを用意しながら、ちらちらと好奇の視線を向けてくる。
 
 「小学三年生だったね。どこの学校?」
 「東郷第二…」蓮が伏し目がちに答えた。
 
 「東二小か。何度か臨時講師で行ったことがあるよ。でも美術部はなかったかな…。学校は楽しい?」
 「まあまあ…」
 「ちゃんと答えなさい―」母親に肩を叩かれた。「緊張しているみたいで、すみません」
 「構いませんよ。これくらいの歳の子は、絵に興味なんてもちませんからね。ゲームとか漫画の方が面白いよな」
 湯澤のフランクな物言いに、困惑しながら小首を傾げた。
 
 「ハハハ。蓮君は正直だな。まあせっかく来たんだし、ちょっとだけ描いてみるかい。学校の授業で絵の具は、使ったことがあると思うけど、ここにあるのはちょっと違うんだ」
 
 湯澤が他の生徒達の方向を振り返った。等間隔で半円形に並べられた、三角形のスタンドのようなものに、白い布が貼られた木枠を立てかけている。色が塗られている布や黒い線しか書かれている布もあった。よく見ると六名の生徒達の手に、筆や細長い黒い棒が握られている。
 
 「先生。始めてもいい?」ひょろりとして背の高い男子生徒が手をあげた。
 「あぁ、いいよ」湯澤が頷いた。「あんなふうに、みんなで同じ見本を描いてるんだ」
 
 湯澤の目線の先を追うと、正方形の机の上に、人の顔を模した模型が置かれていた。巻き髪に中性的な顔は、テレビで見た外国人タレントに似ている。生徒達は、真剣な表情で模型と布を見比べ、黒い線を引いたり、覚束ない手つきで色を塗っている学校の授業では見たことのない光景だった。
 
 「蓮君もやってみるかい」そう問われ、ぎこちなく頷いた。
 「よろしくお願いします」母親が丁寧に腰を曲げた。
 「お母様はどうぞあちらに―」壁際にパイプ椅子が三脚置かれていた。。
 
 湯澤に促され、生徒達の輪に加わった。
 「りせちゃん、ちょっと横にずれてもらってもいいかな」
 「はーい」りせと呼ばれた生徒は軽く答え、三角のスタンドごと横にずれた。切りそろえた前髪に、二重の大きな瞳が特徴的な同い年くらいの女の子だ。
 
 「これはキャンバスとイーゼルというんだ。そして、この木炭を使って、キャンバスに下書きをしていく。こんなふうに―」りせの描きかけのキャンバスを、指さした。
 
 「先生。うまく描けな~い」不貞腐れた表情のりせが、背中をのけぞらせた。
 「どれどれ…」顎に手をやった湯澤が、目を細めた。「もう少し、力を抜いて描いてごらん。キャンバスを優しくなぞるみたいにすると、もっと柔らかい線になるよ」
 「柔らかい線…?」
 「こんな感じかな―」りせから木炭を受け取った湯澤が、綺麗な曲線を描いた。流れるような手つきで、木炭がキャンバスを上を滑っていく。シャッシャッと、軽妙な音を奏でる。
 
 蓮の肌が粟立った。
 
 「やってみて」微笑みながら、木炭を返した。
 
 湯澤は壁に立てかけてあった、イーゼルとキャンバスを手に取り蓮の前に置いた。「椅子はそれを使って」蓮は、横にあった椅子を引き寄せた。
 
 「初めてだから、蓮君はこっちの方がいいかな」湯澤がエプロンのポケットから、鉛筆を取り出した。「自由に描いてごらん。一応見本はあれだけど、気にしないで」
 
 真っ白なキャンバスの前に腰を降ろすと、不思議な感覚に包まれた。
 
 「楽しんで描いてね」湯澤が目元と口元を綻ばせる。
 
 蓮は自然と息を吐いた。鉛筆を握る手が少し震えた。目を凝らすと、キャンバスの布地がくっきりと見えた。触れてもいないのに、布の質感が指先から、伝わってくる。
 鉛筆の先をあて、ゆっくりと動かす。鉛筆の芯と布がこすれあい、黒い線を描いていく。用紙のような滑らかさはなく、独特な違和感が、指先から神経を伝って、脳の中に上がってくる。これまで感じた事のない快感が、全身を駆け巡った。鉛筆を握る手が止まらない。
 
 机に置かれた模型を視界に端にとらえ、丸みを帯びた輪郭を描く。シャッシャッと心地よい音色が、鼓膜に響いた。

 周囲に真っ白な光が広がり始め、会議室や湯澤、生徒達の姿が消えた。白い光の世界に残ったのは、蓮とキャンバスと石膏像だけだった。石膏像のごつごつとした質感と表面の冷たさ、石の固さが手に取るようにわかった。光の濃度が増し、白から眩い金色に変わり始めた。包み込むような光の渦に蓮は、身を委ねた。
 
 鉛筆を握る手が、止まらない。まるで見本絵をなぞるように、どこにどんな線を書けばいいのか、頭の中でイメージが膨らんでいく。
 
 その時、背後から肩を叩かれ、現実世界に引き戻された。振り返ると、湯澤が立っていた。
 
 「上手だね!」
 驚きと称賛が混ざり合った声で言った。
 
 「ホントだ!上手!」りせがキャンバスを覗き込み、目を丸くする。その声につられて、他の子供達も集まって来た。
 
 「うまっ!」「すご~い」「どこかで習ってたの?」
 見知らぬ子供達に囲まれ、蓮はしどろもどろになった。
 
 「はいはい!自分の席に戻って、みんなもまだ完成していないでしょ」湯澤が手を叩くと、子供達が席に戻った。
 
 「本当に上手だ。よかったら、最後まで描いていくといい」微笑みを浮かべ、身体を屈めた。
 蓮は一瞬戸惑うような表情を浮かべたが、すぐにキャンバスに向き直った。鉛筆を走らせたが、周囲が白い光に包まれることはなかった。
 一時間の授業が終わり、生徒達が片づけを始めると、母親が「すごいじゃない!」と後ろから声をかけた。
 
 「初めてなのに、こんな立派な絵が描けるなんて。お母さん鼻が高いわ」蓮のキャンバスに顔を近づける。
 
 「いやー本当にすごいですよ」エプロンで手を拭きながら、湯澤が感嘆の声を漏らした。「初めてで、ここまで描ける生徒に、会ったことがありません」
 「そうなんですか」驚いた母親が瞳を輝かせた。
 
 「どうですか。来月から通ってみませんか?蓮君には才能があります。今から教われば、将来一流の画家として活躍できるかもしれない」
 「そんな先生、大げさですよ」言葉とは裏腹に、母親は嬉しそうだった。
 
 「蓮君はどうだい?」湯澤に問われ思案顔を傾けた。絵を描いた時の興奮と快感の余韻が、まだ残っていて、考えがうまくまとまらない。腕には、まだ鳥肌が立っていた。

 「うちに帰って、お母さんとお父さんとよく相談してみるといい」
 
 出口まで見送りにきた湯澤に礼を言って、母親とともに会議室を出た。
 
 「蓮君!」
 
 振り返ると、湯澤が満面の笑顔を浮かべて、手を振っていた。
 
 「待ってるよ!」
 
 蓮はぎこちない笑顔を浮かべて、小さく頷いた。

 これが渡井蓮と湯澤徹の最初の出会いだった。
 そして、身体の奥深くに眠っていた蓮の才能が、初めて芽を出した、かけがえのない日となった。

(vol.3へつづく)


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