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小説「天上の絵画」vol.10


10 二○二一年 渡井蓮 二十三歳

 「蓮に見てほしいものがあるんだ」

 英司はそういって、リビングを出ていった。後ろからついて行った蓮は、あの絵の前で思わず足を止めた。美しく可憐な女性が微笑を浮かべて、まっすぐこちらを見つめてくる。

 やはりどこかで見たことがある…。

 妙な既視感を感じたが、嫌な気分はしなかった。

 「それは…滝野だ」

 驚いて振り返る。

 「覚えてるか。芸高で一緒だった。滝野優愛。『油彩クラブ』も一緒だっただろ」

 美しい黒髪に、やや垂れ下がった目尻、すっきりとした鼻筋。清楚な面影は、彼女が描く絵画にも如実にあらわれていた。
 
 「実は今、いろいろ手伝ってもらってるんだ。この前の個展もスタッフの一人として、運営に関わってた。蓮が来た日は、別の仕事でいなかったんだが、後でお前のことを話したら、どうして連絡してくれなかったのって、不貞腐れてたよ。今日も声をかけてやればよかったかもな。優愛も蓮に会いたがってた」
 
 
 『渡井君の絵。私、好きだよ』
 片手で髪を抑えながら、振り返った滝野が、柔らかく微笑んでいた。顔面が熱くなり、耳の先まで真っ赤になったことを今でも覚えている。
 
 「そうか…」素っ気なく言うと、絵から離れた。
 
 「ここだ」滝野の絵からちょうど斜向かいにある扉を開けた。「俺のアトリエだ。いつもここで絵を描いてる」部屋の中から絵の具と強烈なニスの匂いが、漂ってくる。思わず眉根を寄せた。
 
 「散らかってるが入ってくれ」
 ちらりと中を覗くと、描きかけのキャンバスやイーゼルが並べられ、テーブルの上には、蓋の開いた絵の具や汚れたパレット、濁った水が張ったままのバケツが置かれていた。
 
 「いや、いいよ」蓮は中に入るのを躊躇った。
 「そんなこと言わずに入ってくれ。蓮にどうしても見てほしい絵があるんだよ」部屋の中に入った英司は、中央に置かれた、布のかかったイーゼルの前まで行った。
 「これだ」そう言って、布を剥ぎ取ると、中から一枚の絵画が出てきた。
 
 蓮はその絵画に、目を奪われた。
 
 均整の取れた美しい構図、斬新な色使い、見た者の心を鷲掴みにする恐ろしい魅力が、その絵画の端々から溢れ出ている。縦四一〇㎜、横二七三㎜の大きさの中に、無限に広がる宇宙のような計り知れない可能性を感じた。
 
 蓮は瞬きも忘れ、絵画を見つめたまま呆然と立ち尽くしていた。他人の絵画に対して、こんな感情は抱くのは初めてだった。
 
 「ちょうど昨日描きあがったんだ。スタッフもマネージャーもまだこの絵の存在すら知らない。完成したら驚かせてやろうと思ってな」
 
 ゆったりとした口調の中に、己に対する自信と誇りが垣間見えた。
 
 「どうだ。蓮」振り返った英司の表情が輝いている。「岩谷英司の最高傑作だ。今の俺が持ってる技術と情熱を、全て注ぎ込んだ」
 
 「タイトルはまだ決まってないが、ひとまずは完成だ。俺はこれをニューヨークへ持っていく。この絵を見たニューヨークのやつらの驚く顔が目に浮かぶよ。小さな島国の若造となめてかかってくるやつらの鼻を明かしてやるつもりだ」
 
 慈しむような眼差しで、キャンバスの木枠を撫でた。
 
 「あとはサインを書く」
 
 「サイン…」蓮が独り言のように言った。
 


11 二〇一二年 渡井蓮 十四歳
 
 「サインって何?」
 
 「マジで言ってんの!?」英司が目を丸くした。「自分の描いた絵に、サインを書くんだよ。普通は」
 「どこに?」
 「絵の右下とか左下に小さく。キャンバスの裏に書く人もいる」
 「どうやって?」
 「細筆が多いけど、鉛筆で書く場合もある」
 
 「書いたことない」
 
 「マジで!?ありえない」英司がわざとらしく頭を抱えた。「あんなにたくさん描いてきて一度も?」
 
 蓮が真面目な顔で、こくんと頷いた。本当にこれまで一度も書いたことがなかった。なくさないよう裏にフルネームで名前を書いたことはあるが、サインなんて大げさなものではない。
 
 「名前じゃダメなの?」
 「ダメじゃないけど、ダサい」英司が吐き捨てるように言った。「ローマ字でかっこよく書いてあった方が、見栄えが良いだろ」
 
 「そうかな…」蓮は肩をすくめた。
 どうして英司がここまでサインにこだわっているのか、全く理解できなかった。
 
 「よし!じゃあ蓮のサインを俺が考えてやる」
 「別にいいよ」顔の前で、軽く手を振った。
 「遠慮するな」そう言うと英司は、スケッチブックを開いて、サインペンのキャップを外した。「将来、お前の絵の贋作が出てくるかもしれない。その時にサインがあれば、本物だって証明できるぞ」
 
 サインを真似されたら意味がないのではと思ったが、真剣な眼差しを向ける英司に、口を噤んだ。
 
 「前から思ってたんだけど『渡井蓮』って、めちゃくちゃかっこいいじゃん。絶対サイン映えする」
 「サイン映え…」人の名前に、サイン映えするものとサイン映えしないものがあるのだろうか。
 
 「やっぱりアルファベットだよな。『Ren』は外せない」
 筆記体をさらに崩し、まるでミミズが這っているような、うねうねと曲がりくねった線を英司が書いた。
 
 「どうだ?」
 「どうって言われてもな…」
 「気にいらないのかよ」いまいち盛り上がらない蓮の態度に、機嫌をそこねたのか、英司が顔をしかめた。
 
 「そうじゃないけど…。なんて書いてあるの?」
 「『Ren・W』だ。外国人みたいでかっこいいだろ」
 「これじゃ、なんて書いてあるのか。分からないよ」
 
 「じゃあ、これならどうだ」
 今度はうねうねした筆記体ではなく、角ばったブロック体で書いた。
 
 「こっちの方がいいかな。書きやすそうだし」
 「なんか普通だな」
 「いいよ、俺はこれで。英司のサインはどんなやつ?」
 
 「俺は、これだ」得意げな顔で、英司がサインを書いた。筆記体で『Eiji』と書くと、最後の『i』から線を伸ばし、円で全体を囲んだ。まとまりもよく、一流の画家が描いたサインっぽい雰囲気を醸し出している。
 
 「いいじゃん」
 英司が目元と口元をほころばせた。
 「でも、名前だけなんだね。苗字は書かないんだ」
 
 「…『イワタニ』なんてどうでもいい」英司は顔をしかめ、声を落とした。
 
 不味いことを聞いてしまったかと、蓮は戸惑った。
 
 「じゃあ蓮のサインは、これで決まりな」パッと顔を上げた英司が、気を取り直すように言った。
 「…分かったよ」
 
 蓮は、渋々といった様子で頷いた。英司には悪いが、サインを書く書かないは、個人の自由であり、せっかく考えてもらったが、今後もサインを書く気はなかった。

(Vol.11へ続く)


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