見出し画像

小説「天上の絵画」冒頭部分を特別公開!



――――――――――――――――――――――――

・序 『二〇二三年 都内某刑務所内 受刑者面会室』

 
『上を向けば方図がない』

 このことわざを聞いたことがあるだろうか。
「上を見ればキリがないから、節度をわきまえよ」という意味だ。この言葉を始めて聞いたのは、「全国小学生絵画コンクール」で金賞を受賞した時だった。

息子の功績に誇らしげな母親を尻目に、隣に立つ父親が、この言葉をか細い声でつぶやいたのを耳にした。その時は意味もわからず、訝しげに首を傾げただけだったが、成長しその意味がわかると、父親の本音が、少しだけ理解できた。
 
カメラの方に身体を向け、遠い目をして寂しそうに微笑む父親の横顔を、今でも鮮明に覚えている。
 
子供の頃から、プロのピアニストに憧れていた父親は、同級生達の遊びの誘いを断り、日々練習に明け暮れた。週四日、学校終わりに、プロのレッスンを受け、休みの日は家にあるピアノを朝から外が暗くなるまで弾き続けた。

子供らしからぬストイックな生活を、高校卒業まで続けた父親は、有名な名門音楽専門学校に推薦入試で、見事合格を果たす。
 
だが父親の人生の栄光は、そこまでがピークだった。
 
思春期と青春時代を、黒と白の鍵盤に捧げた父親が、プロのピアニストとして、舞台上で輝かしいスポットライトを浴びる日は、結局一度も訪れなかった。
 
その話を聞かされたのは、僕が二十五歳を誕生日を迎える一週間前だったはずだ。どうして父親からその話を聞かされたのか、もう覚えていない。だが今こうして無機質で血も凍りそうな寒さの面会室で向かい合っていると、ロウソクに小さな炎が揺れるように、ちらちらとその時の様子が頭の中に浮かんだ。
 
黒くて若々しい印象だった頭髪は、白髪が増え、頭頂部では地肌が目立った。落ちくぼんだ目の周りには細かい皺が目立ち、頬には溝のような深い皺が刻まれていた。顔色は青白く、背中を丸めたその風貌は、七十代前半のしょぼくれた老人のようだった。

僕が二十五歳になったばかりだから、まだ五十七歳のはずだ。

父親がここまで老け込んでしまった理由は、一つしかなかった。
 
罪悪感が腹の奥で、ほんの少しだけ顔を覗かせた。
 
「母さんにも声をかけたんだが、まだ体調が悪いらしくて、布団から起き上がろうとしないんだ。家のことも何もしないから、困ったもんだよ」しわがれた声で父親が言った。

穴の開いたプラスチック板の向こう側から、弱々しい眼差しを向けるが、視線を合わそうとはしなかった。
 
「弁護士の先生とも話した。情状酌量を訴えて、少しでも刑期を減らせるよう最善を尽くしてくれるそうだ。…良かったな」困惑が言葉の端々から感じられる。減刑を望むことがいかに愚かなことか、わかっているはずだ。

だが息子を気遣って、心にもない淡い希望を口にする。そんな父親の姿が、痛々しかった。
 
「身体の方は…。ちゃんと食べてるか?」
 
「それはこっちのセリフだ」と危うく口から飛び出しそうになったが、とっさに言葉を飲み込み、代わりに首を縦に振った。
 
逮捕されてから、不思議と食欲が戻り、三食普通に食べられるようになった。不眠症も治り、板のように固い敷布団の上で、起床時間ギリギリまでぐっすり眠れていた。
 
「そうか…。辛いこともあるだろうが、気を落とすな。父さんが絶対になんとかしてやるから」
 
父親はパイプ椅子から腰をあげると、奥に控える刑務官に会釈をした。
 
「もっと話していたいんだが、母さんを一人にはしておけない。すまない…」
 
面会時間を半分以上も残し、父親は逃げるように面会室を出て行った。
 
ピアニストの夢を断たれた父親は、知り合いから紹介してもらった、人材派遣会社で働き始めた。そこで事務員をしていた女性と知り合い、職場結婚し、まもなく息子が誕生する。
 
慎ましく安定的な生活を送りながら、ピアニストへの未練は断ち切ったのか。息子に絵の才能があるとわかった時、何を思ったのか。腰縄をくくりつけられた息子を見て、どう感じるのか。

皺の寄ったくたびれたスーツの後ろ姿に、問いかけたかった。
 
あの時の父親の言葉が脳裏に蘇る。

上を見ていたつもりはなかった。絵を描いているのが楽しかった。描いている時の自分が好きだった。

ただそれだけだったはずなのに…。


「先生―。また、絵を描きに行ってもいいですか?」
 

虚ろな瞳で虚空を見つめた蓮は、誰に聞かせるわけでもなく、小さな声でつぶやいた。

<続>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?