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キャブ式

 沢村大介は背は低かったが、喧嘩が強かったので一目置かれていた。僕は彼と同じ空手道場に小学生の時まで通っていて、本気の彼に勝てたことは一度もなかった。中学に上がると僕は殴ったり蹴ったりの日々から足を洗い、前から好きだったマンガを書いたり、楽器を弾いたりといったことに夢中になり、沢村とは疎遠になっていった。彼はその後も精進を続け、高校一年で県大会のベスト四まで行くようになった。しかし元来のむらっ気がそうさせたのだろうが、暴走族連中との傷害沙汰を起こし、高校は退学になった。彼と再会したのは僕が十九歳の時、グラフィックデザインの専門学校に通っている時だった。駅の改札を出てぼんやりと歩き出した時、「おい、元気か?」と肩を叩かれた。「久しぶりだな、何しけた顔してんだよ」
「別にしけちゃいない」と僕は言ったが、同時に嫌な予感も抱いて少し後ずさった。「お前は元気そうだな」
「背中のはギターか? バンドは今もやってるんだ?」
「まあな」
「時間はあるか? 飯でも食いにいこうぜ」と沢村は昔のままの大きな声で言った。彼は普通に喋っているつもりなのだが、地声が大きいものだから通りすがりの女子高生が振り返って見るくらいだった。
 僕はその時、断ってもよかったのだが、気分がむしゃくしゃしていたこともあって彼の後について行った。入ったのは駅前の英会話教室の地下にあった居酒屋だった。今から思えばその日が僕のいわゆる人生の分岐点みたいなもので、あの時、彼の誘いに乗らず「悪いけど忙しいんだ、またな」と言って断っていれば、彼との縁はそれで切れていただろう。しかし僕はその日、学内の友人と一年続けていたバンドから脱退したばかりで気が滅入っていた。理由はよくあるメンバー間の音楽性の違いなんかではない。どれだけ本気でやっているか、という意識のすれ違いだった。他のメンバー五人は単に遊びで楽器を持ってみた連中だった。練習もさぼりっ放しで、僕が少し文句を言ったら、「じゃあ、エアバンドでいいじゃん」と呑気なことを言い出す始末で、僕もついに切れた。「もういい、お前らだけでやってろ!」と捨て台詞を残して抜けてやったのである。と、そんな愚痴みたいな話を、一時間近く聞かされた沢村は、いつの間にか頼んでいたビールを飲みつつ、「よし、じゃあ、俺とバンドを組もうぜ」と言ったのだった。
「お前、楽器なんて出来ないだろ」
「じゃあ、ボーカルで」
「ふざけんなよ、そういう安直な奴が一番許せないんだよ、俺は」
「判った判った、楽器もやるよ、だけどボーカルもやらせろよ。俺いちど本物のバンドで歌ってみたかったんだ、カラオケじゃなくて」
「カラオケと一緒にすんなよな」と僕は言いビールを飲み干した。「それに二人じゃバンドは出来ないからな」
「他のメンバーは俺が集める。あ、それと曲も俺が作る」
 当時の沢村の生活は街のチンピラまたは半グレといったところで、おおよそまっとうな道から足を踏み外しかけていたが、逮捕歴はまだなかった。後年、彼の母親から、あなたのおかげでうちの息子は犯罪者にならずにすんだわ、本当にありがとう、と涙ながらに感謝されたが、その時、すでに奴は立派なロクデナシだった。一日の大半はパチンコかスロットで過ごし、犯罪集団の構成員にもなりかかっていた。オレオレ詐欺のグループに片足を突っ込み、受け子として働いたことも何度かあったようだった。しかしそれとは別にジゴロの真似事もしていて、同時に三人の女から金を貢がせていたから懐は温かく、犯罪にはそれほど熱心ではなかった。沢村という男の最大の謎、この世の矛盾の集大成とも言える点が奴のこのモテぶりだった。僕からしたらこんな野郎のどこがいいのかさっぱりなのだが、きっと奴は女の寂しい心の隙間を目ざとく見つけて付け入るのだろう。だいたい、身長一六二センチ、体重八五キロのムキムキしたチビが前からぎゃあぎゃあ喚きながら歩いてきたら誰しも「こいつとは関わり合いになりたくない」と思うだろう。しかし女には違って見えるらしい。
 僕らのバンド活動はかっちり一年間は真面目に続いた。奴が他に楽器の出来るメンバーを二人集めてきたので、沢村は結局、ボーカルのみの担当になったが、精力的に取り組んだと言っていいだろう。ドラムは沢村の弟の吉宗だった。彼は兄貴に絶対服従を誓わされているような男だったが、もう一人、ベース担当の池田はか細い声のなよなよした中学生くらいの少年だった。というより、池田は沢村家の隣の家のヒキコモリで、二人の兄弟が部屋から拉致して練習スタジオに連れてきた。初めは僕と目を合わそうとせずにずっと壁と向かい合っていたが、ベースの腕はなぜか一級品だった。僕らは週に一度、練習スタジオに集まり、熱心に練習した。カバー曲とオリジナルが半々だったが、レパートリーが十曲に達すると、沢村はさっそくライブを画策した。まだ時期尚早のような気もしたが、ライブハウスの借り賃どころか、スタジオの練習代まで奴の持ち出しだったので僕もあまり文句は言えなかった。
 ライブは盛況だった。というのも沢村が友人知り合い同級生に空手仲間と、ありとあらゆるツテを使って呼び集めたからで、新米の無名バンドにはおかしなくらいの狂熱のライブが開かれた。沢村のボーカルは空手で喉は鍛えられていたから声量だけは平均以上だったが、下手くそではない、という程度で、決してプロのスカウトの目に止まるほどでもなかった。それでも僕は生まれて初めての大熱狂のステージに我を忘れてしまった。計十曲のライブがあっという間に終わってしまったのに気づくと、何とも言えない去りがたい思いを胸に抱きながらステージを降りた。
 しかし僕らのバンドはその後、もう一度ライブをやったのを最後に活動を終えた。僕が学校を卒業し、小さなデザイン会社に就職して環境が変わったのと、沢村ももうやりたいことをやりきった様子で以前ほどの熱心さがなくなったのが重なり、自然消滅となった。バンド活動によくありがちな大モメの喧嘩や諍いはとくになく、円満な形でのフェードアウトだった。沢村もどうやら貢がせていた女たちに活動を説明するのが面倒くさくなったらしい。現に二回目のライブの時、小さなアリーナでは奴の女たちが取っ組み合いの殴り合いを演じていた。そんなわけでライブ後、沢村はほとぼりを冷ますために大阪方面にトンズラし、僕も毎日、終電近くまでの残業続きで、チビの空手家兼ジゴロのことは頭の片隅に追いやられ、消えていった。
 例えどれだけ忙しくても仕事としての楽しさがあり、自分の技量が上達していくのが実感でき、なおかつ仕事をした分の対価としての給料が充分に支払われているなら何も文句はなかったろう。しかし駆け出しデザイナーの僕が入った会社は完全なるブラックだった。二十人ほどの社員は皆、毎日死にそうな顔で働いていた。入社後一週間でそれに気づきはしたものの、新卒としての経歴を汚したくないという思いが強かった僕は、安い給料でこき使われているにも関わらずなんとか耐えていた。仕事の内容は主にスーパーのチラシにフリーペーパー、小さな企業のパンフレットの制作だったが、働いていて楽しい仕事には程遠く、結局一年持たずに十ヶ月で退職した。その後しばらく、家にこもって「自分が本当にやりたいことは何か?」と自問を続けた結果、高校生以来離れていたマンガを描くことにもう一度挑戦してみることにした。
 雑誌のコンテストに応募し、同時に出版社へ持ち込みもした。編集者にアドバイスをもらいつつ、思い上がったり落ち込んだりしながらも毎日毎日机に向かってひたすらマンガを描いた。僕のこれまでの人生であれだけ真剣にものごとに取り組んだのは後にも先にもあの時ぐらいだろう。約一年、熱心に持ち込みを続けたからだろうが、編集者の評判も良くなってきていた。デビュー寸前まで行っていたと思うのだが、ある時、こんな提案をされたのである。「君、アシスタントをやってみる気はない?」
 編集者のこの誘いにはたいてい二つの魂胆がある。いや、二つのうちのどちらか一つだ。将来有望な若手にプロの環境を見せて学ばせ、デビューまでの腰掛けのような下積みとするのが一つ。あと一つは、センスも見込みもないが、描く絵はそこそこプロ級なので、大先生の背景係としてプロのアシスタント人生を全うさせる、という二つだ。はたして編集者は僕をどちらと見ていたのかまったく判らないが、プロの働きぶりを身近に学べるのは確かなので、僕はアシスタントになる道を選んだ。
 紹介された乾新一郎先生は大御所とは言えないまでも売れっ子であるのは間違いなかった。主に青年向けマンガ雑誌に隔週連載二本、月刊誌に一本と月に五回の締切りを抱える多忙なマンガ家だった。僕はまず四人のアシスタントの下っ端として枠線引きとベタ塗りから始め、二ヶ月を過ぎた頃には背景のかなりの部分を任されるようになった。締切りに追われてテンパっている時以外は先生も人間の出来た人だった。楽しくも充実したアシスタント生活を送りつつ、僕も自分の原稿を仕上げ、先生や編集者にアドバイスをもらっていたが、先輩アシスタントがデビューして独り立ちしたり、実家の事情で田舎に帰ってしまったりといったことが重なり、入って四年目に僕がチーフになると、自分の原稿からは遠ざかっていった。さらに六年目には先生が狭心症の発作で急死してしまうというショッキングな出来事があった。当然、連載は未完なまま中断となり乾プロは解散した。
 僕はしばらくぶりに実家に帰った。帰ったものの何もすることがなく、久しぶりに自分のマンガを仕上げようとしても手がまったく動かない。しかし働かないわけにはいかないので僕はハローワークに通い、近所のスーパーに仕事を得た。実のところ何でも良かったのだ。いきなり閉ざされた売れっ子マンガ家のアシスタント生活にはまだかなりの未練があったし、何か埋め合わせが出来る仕事にすぐにまた出会えるとも思えなかった。だから朝から夕方までスーパーの倉庫と棚の間を行ったり来たりしているだけで、余計なことを考えなくて済む仕事に不満はなかった。しかしそんな生活もまたしても突然に終わった。これは全世界が被った不幸なので不平をいう相手さえいない。なにしろ地球の文明が何の前ぶれもなく、いきなり終わったのだから。
 二〇一五年の七月十一日に地球を襲ったガンマ線バーストは我々人類の社会を一気に百年ほど後戻りさせた。超新星爆発に伴う大量のガンマ線が三十時間に渡って地球に降り注ぎ、すべての電子機器を音も立てずに破壊した。テレビもパソコンも携帯電話も、見た目は何も変わらぬまま、電源が入らず使えなくなった。それだけではない。コンピューター制御に頼っていた鉄道、電気、都市ガス、水道といった社会インフラもすべてが一気にお釈迦になった。日本で異変が始まったのは朝の五時からなので、多くの人は朝目覚めてテレビが点かないことと、スマートホンがうんともすんとも言わなくなったのを不審に思った。その時すでに文明の崩壊は始まっていた。大地震でも台風や洪水でもなく、音もなく人類に忍び寄ったガンマ線バーストは社会を大混乱に陥れた。僕はその朝、あたり一帯の大停電をいぶかしく思いつつ、歩いて五分の勤務先に向かった。だが電気が使えなければ当然開店など出来るわけもなく、数人のアルバイトと駐車場にぼんやり立っていた。そして僕はあることに気づいた。車が一台も走っていないのである。ただの停電なら自動車は何の関係もないはずだが、配送のトラックも車通勤の店長も来ていない。それどころか道路を走る車が一台もない。たまたま僕らアルバイトは徒歩や自転車で来ていたから気づかなかったのだ。僕は「これちょっと、とんでもない天変地異なんじゃないの?」と冗談っぽく言った。しかし冗談にはならなかった。
 スーパーは団地の真ん中にあったからやがてあちこちから車が動かない、という声が聞こえてきた。誰もが皆、停電だろうが何だろうが会社に向かおうとしていたのだ。一時間遅れて店長が自転車で現れたが、当然、仕事は始めようもない。するとアルバイトの大学生がこんなことを言い出した。「これって多分、ガンマ線バーストですよ」
「ガ、ガンマ線? 何だい、そりゃあ」
「俺も詳しくは知らないんですけど、銀河系のどこかで星が爆発して大量のガンマ線が飛んで来たんですよ。ガンマ線バーストが起きると電子機器が全部壊れて使えなくなるって聞きましたから、まさしくそうでしょ」
「車は何で動かねえんだろうな?」
「だって今の車ってガソリンの供給をコンピューターでやってますからねえ。エンジンにガソリンが行かなきゃ動くわけないっすよ」
「だったら配送のトラックも来るわけはないな」と店長は言った。
 その日から三日間、スーパーは地獄の忙しさだった。近隣の住人が押し寄せ、棚にあった商品を競って買って行ったのである。レジスターは当然使えなかったから、そろばんを弾いて客を捌いた。配送は来るはずもなく、三日後には棚の商品はきれいさっぱりなくなった。
「売る物がないんだから、当分、来なくていいよ」と店長は僕らアルバイトに言った。「再開が決まったら来てほしいが、いつだろうな、半年後かな」
 とんでもなかった。そのスーパーが再オープンしたのは五年後だった。
 仕事から戻った僕は物置の扉を開けた。中には三台のオートバイがしまってあった。ナンバーがあって合法的に走れるのは一台だけだが、三台には共通する仕様があった。いずれも昔ながらのキャブレターを装着した旧車だった。乾新一郎先生のマンガ以外の唯一の趣味がオートバイであり、ビンテージバイクの収集だった。僕らアシスタントも何人か感化されてバイクに乗るようになっていた。そもそも先生の代表作『ジャック・ザ・ライダー』は殺人ウィルスがばら撒かれて地球の人口が十分の一に減った、荒廃した未来を舞台にしていた。主人公のジャックは旧式のキャブ車しか乗らず、作中では「キャブのほうが故障が少ないからな」と喋っていたが、本当にそんな未来がやって来てしまったのだ。僕はナンバーつきの一九七一年製のヤマハXS650を引っ張り出して跨った。キックを入れるとエンジンはブフォンと唸りをあげて、あっけなく目覚めた。三日ぶりに耳にするガソリンエンジンの音だった。
 車通りの消えた道路をオートバイで走るのは気分が良かった。当たり前だが信号も消えたままだ。大災害三日目にして人々は移動のすべてを徒歩か自転車に頼るようになっていたが、彼らは僕がエンジンを響かせて走っていると一様に驚いて振り返った。中には「おーい、何で走れるんだ!」と声をあげる者もいた。国道の所々には乗り捨てられた車が立ち塞がっていた。歩道に乗り上げねばならなくて走りづらかったが、二車線の国道を独り占めしていれば気分はだんだんと高揚してきた。僕は走りながら「ヒャッハー!」と声を上げ、一人で世紀末ヒーローを気取っていた。
 見晴らしのいい土手の上を走っていると前からオートバイが近づいてきた。僕らは互いに視線を交わしつつすれ違ったが、僕はすぐにブレーキをかけて停まった。振り返ると数十メートル先で相手も停まっていて、こっちを見ていた。僕はUターンし、黒い革ジャンの男に近づいて行った。
「やあ、あんたも古いバイクか」と僕は言った。
「ああ」と相手は言った。モデル名までは判らなかったが、古いBMWだった。「悪いけど、これをやるつもりはない」
「大丈夫だよ、家にはまだ古いバイクが二台もある」
「本当か? じゃあ、売ってくれって言われたろう? 俺は近所の金持ちに五百万で譲ってくれって言われたんだ」
「五百万!」
「もちろん、断ったけどよ」彼はサングラスを外し、顔の汗を拭った。「キャブレターで、なおかつポイント点火式のバイクだけだよ、今走れるのは。あちこちでバイク狩りも始まってるから気をつけろよ。旧車會の連中とか、タチ悪いぜ」
「ああ、気をつけるよ」
 僕は急に怖気づいて家に戻った。古いヤマハをそっと物置にしまい、あたりに目を配ったりもしたが、時すでに遅しだった。家に戻って一時間もせずに訪ねてきた男がいた。沢村だった。
「じゃーん! 俺様登場~」と彼は高らかに言った。「お前、動くバイクを持っているらしいな」
「久しぶりに現れて、いきなりかよ」僕は呆れつつもいくらか安堵していた。もっと悪質な手合いに目をつけられるよりはマシに思えたのだ。「どこで何してたんだよ。そこから話せって」
「ああ、そうか、大阪に行って以来か。向こうにいたのは一年だよ、すぐに帰ってきた。お前はマンガ家のアシスタントをやってたんだろ、おふくろさんに聞いたよ。いつ帰ってきたんだよ?」
「三ヶ月ぐらい前だ。今日までそこのスーパーで品出し担当だった。当分、仕事はないな」
「そりゃあこんな世の中、皆そうだろ」
 大阪から埼玉に戻った沢村はしばらく大宮の繁華街でバーテンダーをしていたとのことだ。そこで知り合った国会議員の秘書と仲良くなり、スカウトされて同じ議員の八人目の私設秘書になった。どちらかといえばボディーガード的な役割もあったが、五年にも渡る秘書生活で、世の中の表と裏をまんべんなく見聞きしたらしい。しかし去年の選挙で議員は落選し、沢村も仕事を失った。その後は一年ほど、仕事を探しながら短期のバイトや派遣で食い繋いでいた。しかし彼は大きなビジョンを持っていた。「出来たら次の選挙に立候補しようと思ってさ。先生は引退を決めたんでうまくいけば地盤を継げそうなんだ。小選挙区制じゃあ議席の継承は厳しくなってるから、そう簡単にはいかないけどよ。でも先生の支持者だったスポンサーに相談したら好感触ではあるんだ」
「いや、まてよ、お前……」僕は目を見開いていた。瞬きを忘れたくらいに奴の顔をじっと見た。「お前の口からそんな話が聞けるとはな」
「立候補したところで当選する保証なんてないぜ」
「それはそうだが……」
「だから俺には話のネタが必要なのよ。誰もが感心するネタが。早い話が箔をつける必要があるわけさ。で、お前はこんな世の中で唯一、動くオートバイを持ってるってわけだ」
「古いオートバイはあと二台あるけどな」
「マジかよ!」
 僕らは物置に行き、古い三台のバイクを前にした。ヤマハXS650とナンバーのついていない残りのもう二台、カワサキZ1にホンダのCB350。いずれもキャブレターに機械式のポイント点火を備えた旧車だ。「アシスタントをしていた先生の奥さんから形見分けのようにして貰ったんだよ、こっちの二台は」
「Z1て、高いバイクだろ? プレミアつきの」
「コンディションが良ければ三百万ぐらいかな。こんな時代になってはもっとだろうな」僕は言った。乾プロがなくなる時、先生の奥さんに「どうぞ、好きなの持っていって」と言われタダで貰ったものだが、僕はその時ちゃんと忠告した。「売ればかなりの額ですよ」と。しかし奥さんは「退職金がわりよ」と笑って気前よく譲ってくれたのだ。
「それでお前はバイクで何をやるんだって?」
「うーん、三台もあるとは思わなかったからなあ」腕組みをして沢村は考え込んだ。「帰って計画を練り直してくるわ。待っててくれ」
 僕はいささか高をくくっていた。確かに停電続きで携帯電話も使えないが、二、三カ月もすればすべては元に戻るだろう、と。証券取引所のデータは世界をめぐり、女子高生はスマホを握り締めて高笑いし、ジェット旅客機も空を飛び回るだろう。しかし、そうはいかなかった。復興は遅々として進まなかった。例えば車だ。燃料をエンジンに送るコンピューター制御のインジェクションが壊れているならその部品を取り替えれば済むだけの話しではないかと思えたのだが、倉庫にあった新品在庫も当然壊れて使えないし、その部品を作る工作機械も同じようにガンマ線バーストに破壊されていた。エンジニアたちは、IC回路を使わずにIC回路を作らなければならないという難題に突き当たっていた。そんな御時世だから普通に動くキャブ式のオートバイは貴重品だった。新聞屋の奥で埃を被っていた6Vのスーパーカブは二百万で売れた。人々は引き取り手のなかった古いバイクを求め、札束を握り締めてバイク屋に殺到した。高崎線の線路には秩父で週末だけ観光客を乗せていたSLが遠征してきて、上野~高崎間を日に何度も往復するようになった。政府は手書きの壁新聞を各地の市役所に古いバイクで届けて回り、多くの市民はそれを見てガンマ線バーストという言葉を知った。夏にも関わらず、煮炊きが出来る古い灯油ストーブが高嶺の花となった。当たり前だが、病院や施設にいた年寄りなどの弱者が次々に死んでいった。そんな状況でも暴動が起きていないのは日本らしい所と言えたが、実際には盗みや押し込みなどの犯罪はあちこちで頻発していた。
「自警団を作ることになった」数日後に再び姿を現した沢村は言った。「で、協力してくれるよな」
「協力ってバイクを出せってことだろ? でもナンバーがついているのは一台だけだぞ」
「ナンバーの有り無しなんか誰が気にするっての」
 国会議員を目指す男がそれでいいのかと少し不安になりつつも、僕には断る理由がなかった。仕事がなく暇を持て余していたし、市役所の配給に並ぶくらいしかすることがなかった。
 そうなのだ。配送のトラックが動かず、物流が壊滅状態では、食料の確保がすべての人々にとって最重要課題になっていた。それでもこのあたりは駅から離れれば農家や農地があるのでまだましだった。だが都内は違った。まるで終戦直後のように東京の住人がSLや自転車で埼玉まで食料を求めにやって来ていた。来るだけならまだいい。畑の作物を勝手に持っていく連中が後を断たないという。
「昨日、農協の理事と話をつけてきた。夜中にバイクで辺りをパトロールするだけで食い物を分けてくれるってさ」と沢村は得意気に言った。「とりあえず、俺の弟もいれた三人でやることにしたから」
「いいけど、ガソリンがなくなりかけてる」
「そんなもん、道ばたにいくらでも転がってるだろ!」
 犯罪を防ぐために犯罪を犯す。いや沢村の頭にはそんな葛藤などからきしなかったはずだ。奴はさっそくバールと灯油ポンプを使って国道に乗り捨てられていた車の燃料タンクからガソリンをくすねてきた。放置された車はあちこちに何百、何千と転がっている。当分ガス欠の心配はなさそうだった。
「ところで、お前、バイクに乗れたっけ?」
「いや」と沢村は言った。「教えてくれよ」
 翌日、僕はバイクの運転を沢村と彼の弟の吉宗に教えた。久しぶりに会う吉宗は髪を坊主にし、腕にタトゥーを入れてヤバい雰囲気を漂わせていたが、トラックの運転手をしていたとのことだった。「久しぶりッス」と吉宗は言った。「これから一緒に暴れ回りましょう」
 バンドをしていた時から吉宗は走り屋だかギャング団だかのメンバーだったはずだが、バイクに触れるのは意外にも初めてらしかった。バイクの運転など自転車に乗れさえすれば雑作もない。おまけに今は周囲の交通に気を配る必要などないのだ。発進の仕方、ギヤの切り替え方、そして停まり方を身につければ充分だった。二日目の夜から僕らはパトロールに出た。しかし依頼された地区はほとんどが稲作農家で、田んぼにはまだ水が張ってあり、実りはほとんどない。どんなに腹を空かせた奴でもこんな状態の稲を引っこ抜いて食べたりしないだろう。僕らの自警団としての初仕事は一週間で終わった。一人あたりダンボール一箱のジャガイモが対価だった。最初の仕事こそそんなショボさだったが、沢村はその後も様々な頼まれ事を僕らの自警団に持ち込んできた。もうこの時点で「自警団」などという呼び名はふさわしくなかったのだが、何やら思い入れがあるらしく、奴は「自警団 チーム沢村」の名前にこだわっていた。沢村は宣伝のビラを手書きで何枚も作って街のあちこちに貼り出した。「バイクを使ったパトロール! 街の安全を守ります!」というキャッチフレーズも自ら考え出した。だが同じようなことを考える連中はいるらしく、県の南部にもバイクショップが中心となった似たようなチームが結成されていた。僕らも動くバイクを見つけては勧誘していたので、三カ月を過ぎる頃には、バイク十五台、メンバーは二十人を越えるかなりの大所帯になっていた。警察が機能していなかったわけではない。しかし自転車を使ったパトロールしかできず、さらには無線が使えない彼らの活動に機動力はなかった。沢村は地元の警察署長と親しくなり、乗り捨てられた車からガソリンを抜き取る行為についてはお目こぼしをしてもらっていた。
 僕らの自警団が長らく堅固な結束を誇り、チームとして存続できたのは沢村のリーダーシップに依るところが大きかったわけだが、決して人柄や人徳だけでは組織は保てなかったろう。沢村は何よりもメンバーを食べさせることに腐心した。というのも7・11からこっち、人々の価値体系は食べ物を中心に回っていた。経済活動の根幹には確かに日本円があり、札や硬貨が無価値になっていたわけではない。しかしATMがうんともすんとも言わない世の中では物々交換が手っ取り早い場合もあった。沢村がもともと仕えていた国会議員は保守系の農政族で、秘書だった奴も当時から農協はもとより各地の生産者に顔が利いた。僕は埼玉や北関東のあちこちで収穫された農作物をオートバイで引くリヤカーに載せて都内まで運び、売り捌くという業務の責任者になったが、簡単な仕事ではなかった。何よりも運搬中に襲われる可能性があったので、リヤカー一台にはつねに五台のバイクが護衛についた。護衛隊のトップには吉宗がいたので頼もしかった(身長一八三センチ、空手は黒帯)が、弟はバイクを走らせながら鉄パイプを振り回すのが楽しくて仕方ないような奴でもあるので、危なっかしくもあった。
 当時の東京の様子がどんなだったか知りたい人も多いだろうが、実のところ僕はそれほど知っているわけではない。ただ人口は一年もせずに半分に減った。人々は徒歩や自転車で東京を脱出し、故郷がある人は地元に戻り、各地に点在する耕作放棄地を鍬を使って耕すようになった。IT系の仕事は存在する意味もなくなっていた。東京にはコネやツテを頼って食べていくことが出来る人が残っていたが、都内にも独自の自警団が組織されていたので、ひどく荒廃していたわけではない。『ジャック・ザ・ライダー』の世界には程遠かった。
 僕らが東京で農作物を売る際、基本的には日本円でやりとりをしていた。米一キロで三千円だったが、これは当時としては良心的な値段設定だった。しかし現金の価値などあってないようなものだから、時には様々な物や行為が取引の材料となった。オリンピックの銀メダルを差し出して米を買っていった老紳士がいた。自警団の事務所には古伊万里の大皿が並び、横山大観の日本画が飾られた。護衛隊のメンバーの若い奴らの何人かは、人類最古の職業(女性限定のアレだ)と引き換えにジャガイモの袋を渡していた。僕は見て見ぬふりをしていた。
 何だかまるで僕らのやっていたことがすごく順調で一切問題がなかったようにも書いているが、実際にはそんなことはない。小さなトラブルはしょっちゅうだったし、沢村のやり方を賛美する人もいれば、嫉んで陰口を叩く人もいた。選挙のための準備なのか、沢村は選挙区内の住民にはほとんどタダで食べ物を分け与えていたので、快く思わない勢力もあったのである。しかし、一番の揉め事は県南にあったやはり古いバイクを使った自警団的なチームとの衝突だった。相手側の中心にいたのはビンテージバイクを専門に扱うショップのオーナーで、実は乾先生もそこで何台か買っていた。そもそものきっかけが何だったのか思い出せない。多分、下らない縄張り争いか何かだったはずだ。言い合いが殴り合いになり、互いのチームにけが人が続出して、僕や吉宗では収拾がつかなくなった。どちらにも地元の警察がケツモチにいたから、放っておけば争いは際限なく拡大したはずだ。そんなわけで沢村自らが相手の本拠地に乗り込むことになった。僕も同行したが、他には吉宗とあと二人の護衛をつけただけだった。彼らのショップにはすでにいきり立った若者が三十人ほど集まり、数多くの古いバイクが集結していた。詰め寄ってきた連中もいて一瞬、緊迫した場面があった。しかし訪問は予告してあったから、僕らは奥の事務所に通された。
 オーナーは五十歳前後の腹の出た親父で、革ジャンを着込み、頭にはバンダナを巻いていた。おそらくヘルス・エンジェルスか何かを気取っていたと思うが、「今回はいろいろと暴れてくれたな」と脅しから入った。沢村が黙っていたので、僕が交渉役だった。「あなた、お互い様でしょう」とか「こちらにもまだ入院中のメンバーがいるんですよ」と物腰柔らかく対応した。オーナーはとにかく口の回る、よく喋る男だった。損害がいくらだの、治療費がいくらだの、本当なら被害届を出してお前らは懲役刑なんだぞと、まくし立てた。沢村は腕組みをして目を閉じ、じっと黙って聞いていたが、オーナーが話を中断した一瞬、目を見開き右腕を前に突き出すと、オーナーの背後にいた十人近い若いメンバーにこう言ったのである。「で、君らはさ、このオッサンに食べさせてもらってるの?」
 この一言が決定打となり、県南のチームのメンバーのほとんどは、僕らに吸収された。
 結局、日本が以前の生活を取り戻すのに四年の歳月を要した。三年半で電気が回復し、ラジオ放送が再開され、政府が小型の安っぽいラジオをタダで配った。日本の人口は一億を切っていた。世界各地はそれよりもっとひどいことになっていたが、そんなことはどうでもいい。中東や東ヨーロッパの地図はかなり書き換わったし、アフリカでは今も泥沼の内戦が続いている。しかし現時点の日本でもまだ復興の途上であり、明日の食べ物が大切なことに変わりはない。総選挙は二年ほど延期されていたが、公示されると沢村は予定通りに立候補した。現ナマではなく、キャベツやかぼちゃが飛び交うグダグダの選挙戦を勝ち抜き、沢村は当選して国会議員になった。僕は彼の秘書として働くことになり、自警団のメンバーも何人かはそのままスライドして事務所のスタッフとして採用された。十九歳の頃、街のチンピラだった男がよくここまで成り上がったと思う。誰よりも僕が一番驚いている。しかし一方で観念もしている。諦めているのだ。何をだって? 以前から、知ってはいたが認めたくなかった事実を、もう認めなくてはならないだろう。ああ、そうだ、認めよう。沢村には人を惹きつける人間的な魅力がある、つまりカリスマがある、ということを。
                         (了)

       


 


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