神様のお守りも楽じゃないわと彼女は言った~西園寺命記 陸ノ巻~ その2
* * *
「姉さん。何が目的なんだい?」
「何のことかしら」
「この前、有川が私のところへ来ているのはわかってたはずだ。そこに、紗由を使者にして渡したリスト。有川が見るのを計算してたのか? どういう意味なんだい、あのリストは」
「いやあねえ。怖い顔しないで。見たからって、別に死ぬわけじゃないでしょう?」
「いや。見ておかないと、死に兼ねないということなのかと思ったもんだからね」
「保ちゃん。総理大臣が一般人の私に言えない事がたくさんあるのと同じよ。“命”としての私には、あなたにも言えない事があるって、何度も言っているでしょう?」
「じゃあ、何故あんな思わせぶりなリストを渡したんだ」
「意味を考えてほしいから」
「姉さん。なぞなぞをしている場合じゃないだろ」
「私にもまだ全部はわからないのよ」
「でも、有川に何かあるということなんだろう? 姉さん、もう嫌なんだよ、友達を失うのは。せめて、今の私に出来ることを教えてくれ」
「…今は、私があなたに何かさせるということは、できません」
「姉さん!」
「でも、自分で考えて何かするのは止めないわ。子どもたちからヒントをもらうのも自由よ」
「また、充くんの作った物語のような何かが出てくるということかい?」
「そういうことがあるかもしれないし、ないかもしれない。でも、これからまた子ども達は大活躍よ。あなた、紗由と一緒に住んでいるんだから、探偵事務所の動向に気をつければいいじゃないの」
「いつも一緒にいられるわけじゃないよ。これでも多忙なんでね」
「じゃあ、紗由に言っておくのね。秘密会議の内容は全部報告するようにって。あなたの探偵事務所の会議ですもの」
淡々と言う華織に、保は小さく溜め息をついた。
「大丈夫よ、保ちゃん。私のほうでも有川先生のことは気をつけるわ」
「よろしく頼むよ。この前、有川が家の周囲に不審な男がいたというのも気になるんだ。建介くん一家も帰ってきたばかりだしね」
「そうそう。お孫さんの恭介くんも青蘭に入園するんでしょう? 竹田先生のお孫さんは、小学部だって聞いたわ。総理、外務大臣、環境大臣の孫が大集合で、警備強化が大変そう」
「それを言ったら、副大臣の師弟まで入れたら、小学部のほうが大集合だよ」
「でも、小さい子のほうが心配というのが、大人の判断の基準なのよね」
「どういう意味だい?」
「そうねえ。あまりにもハンデなしというのも可愛そうだから、じゃあちょっとだけ。
龍が生まれた年、あそこがターニングポイントなのよ。子どもを亡くしたり、配偶者を亡くしたり、幸せなことも含めて、いろんな形で歯車が集まり始めたの」
華織は意味ありげに笑うと、紫のランの花を指で撫で、部屋を出て行った。
* * *
父親の元を離れたものの、まだ中途半端な心持でいた森本は、先日、妹の店の前で小さな子どもから渡された手紙を、複雑な表情で何度も読み返していた。
「お父様の周囲には、まだまだあなたの知らないことがあります。それを明らかにしない限り、あなた達は救われません。鍵は現内閣と、フリージアの姉妹学園である青蘭、そして人形にあります」
森本は唇を噛んだ。
“現内閣には彼の元秘書、朝香がいる。四辻と親しかった総理や有川も。青蘭は小学部と幼稚部には大臣の孫が何人かいたはずだ。園長も確か彼と親しかった。調べてみるか。それから人形…”
実は森本が一番気になったのは“人形”というキーワードだった。以前、紗由から渡された人形を手元に置いていたとき、度々夢の中で、その人形と話をしたからだった。
人形は言っていた。“私たちを悪いことに使わないでください”と。
あの人形が傍にあると、気持ちが清らかに保たれるというか、とても悪いことなど考えられないはず。それは不思議なくらい身をもって体感したことだ。誰にどうやって、その結界を突破できるというのか。
考えても結論の出なかった森本は、まず自分にできるところから、この手紙の真意を探り当てようと決め、準備に取り掛かった。
* * *
華織が電話を終えたとき、ちょうど進が部屋に入ってきた。
「ねえ、進ちゃん。有川先生は最近どんなご様子かしら」
「恭介くんが日本に戻る直前に、紗由さまからボディガードをつけられたので、ご心配になったのかもしれません。これまで以上に活発に動いていらっしゃるようです」
「森本のほうはどう?」
「しばらく所在がわからなかったんですが、ここ数日は、小宮山派の会合場所付近で目撃されてます」
「小宮山先生のご勇退以降、集まりが頻繁ですものねえ、あそこは」
「いろんな噂が飛んだようですから、不安感が広がらないうちに結束を固めようということなのでしょう。有川先生が中心になられて会合をされているようです」
「建造さんたら大変ねえ。あっちもこっちも」
「少しは手伝ってさしあげたらいかがですか?」
「すもも組がいるじゃないの」微笑む華織。
「で、進ちゃんが気になっているのは何かしら。有川先生でも森本でもないようだけど」
「四辻先生の気功塾を追ってみようかと思いまして」
「ああ、未那ちゃんのサーチを弾いたとかいう。悠ちゃんにも悪い人認定されたんだったわね」
「森本の妹が在籍していたようでして、おそらく森本も調べているのではないかと思われます」
「あら、じゃあ奏人さんのことをいろいろ調べている建造さんも鉢合わせかしら」
「可能性としては十分」
「じゃあ、当分はその辺を重点的に調べるのね?」
「それから、小宮山先生と四辻先生の現秘書と元秘書も再度洗おうと考えています」
「秘書?」
「華織さまに降りてきた名前の共通点です。朝香先生は小宮山先生の昔の秘書ですし、竹田先生も小宮山先生の秘書経験者です。そして岩倉先生は竹田先生の秘書でした」
「言われれば、そうだわね…。じゃあ、パーティでもする? 一同に集められるわよ」
「そうですね。すもも組を送り込んで調査させましょうか」
「それもいいかもね。進ちゃんには、またカメラマン役させてあげるわよ。保ちゃんの外務大臣就任パーティの時みたいに」笑う華織。
「西園寺保探偵事務所付きのカメラだけはご勘弁ください。華織さま以上に人使いが荒そうですので」
「あら、ずいぶんな言い方だこと。…まあ、いいわ。引き続き、様子を確認しておいてちょうだい」
華織は微笑むと、カモミールティーをすすった。
* * *
充は教室からそーっと廊下に出ると、紗由たちを手招きした。
「ひめ! あそこでござるよ」
充が指差した方向には、母親に手を引かれて廊下を歩いてくる、青蘭とは違う制服の男の子がいた。彼らに向かって、スタスタと歩く4人。
「こんにちは。ありかわさんですか?」紗由が尋ねた。
「ええ、そうですけど…」紗由の名札をちらりと見る女性。
「さいおんじさゆです! ありかわせんせいには、いつも、じいじがおせわになってます!」ぺこりと頭を下げる紗由。
「はじめまして、紗由ちゃん。こちらこそ、いつもお世話になってます。きちんとご挨拶できて、偉いのねえ」
恭介の母親、崇子が微笑むと、皆、順番に挨拶をする。
「よつじかなこです。ありかわせんせいには、いつも、おじいちゃまがおせわになってました」
「まあ、四辻先生の…」
「くがまりなです。ありかわせんせいは、いつも、たもつせんせいとなかよしだって、おばあちゃまがいってます」
「久我さん…西園寺先生の後援会の…」
「はなまきみつるでございます。おうつくしいママどの。こんごのこともありますゆえ、えきのそばのカフェで、おちゃでもいかがでござるか?」
「今後のこと…?」首をかしげる有川。
「ちょっと! なに、ナンパしてんのよ」真里菜が小声で囁き、充をにらむ。
「えーと…」少し困惑したように微笑む崇子。「皆さん、4月から、この子がこちらでお世話になりますから、よろしくお願いしますね」
「はい!」元気に返事する4人。
「ほら、恭介。皆さんにご挨拶なさい」
「こんにちは。ありかわきょうすけです」無表情に挨拶する恭介。
「きょうすけくんの、しゅみはなんですか?」
「えーと…」唐突な紗由の質問に戸惑う恭介。「本をよむこと」
「じゃあ、こんど、うちにあそびにきてください」
「え?」
「さゆちゃんのおうちには、こどもとしょしつがあるんです」奏子が説明する。「ご本が、いーっぱいあります」
「へえ。そうなんだ…」興味津々な様子の恭介。
「かなこちゃんの、おばあさまも、としょかんもってます。おとなのほんですけど」紗由も説明する。
「としょかん…」再び、興味津々の恭介。
「それは…もしかして、四辻医療財団付属図書館のことね?」
「はい」頷く奏子。
「おばさんね、昔、看護婦さんだったの。だから、お勉強のために、よく使わせてもらったわ」
「いっぱい、つかってくださいね」ニコニコ顔の奏子。
「それから、まりりんのかいしゃは、ご本をつくってます」紗由が恭介に言う。
「へえ。すごいや」さらに興味津々の恭介。
「きょうすけどの。せっしゃのうちでは、かぜでせきがゴホンゴホンでござる」
「あはははは!」
大声で笑い出す恭介を、一同が怪訝そうに見つめる。
「おもしろいね。すごくおもしろいね!」恭介がうれしそうに充に笑いかける。
「そ、そうでござるか?」
充は、まんざらでもなさそうだが、真里菜の冷たい視線に気づいたのか、ゲホゲホと咳をして見せた。
「ねえ、さゆちゃん。ぜんぜんおもしろくない、みつるくんのギャグで、あんなにわらってるよ。かわった子だね」真里菜が紗由の耳元で囁く。
「ふんいきのある、おやじギャグでございますね」奏子が、目を合わせないようにしながら、充に言う。
「あはは、おもしろいね。いってること、わけわかんないや!」
また笑い出す恭介に、奏子がきゅっと唇を結ぶ。
「…きょうすけくんほどでは、ございませんけど」
「まずいよ、さゆちゃん。かなこちゃん、ぷんすかになりそうだよ」
再び耳元で囁く真里菜。今度は焦って手がばたついている。
「えーと…きょうすけくん、とくいなことはなんですか?」
紗由が話題を変えて尋ねると、恭介は少し上を向いて、しばし考えた。
「…めだたないこと」
「いいですねえ!」何度も大きく頷く紗由。
「あ、あの…さゆちゃん?」崇子が不思議そうに紗由を見つめる。
「ほんとうだね。ぴったりだね!」
真里菜が同意すると、奏子もそれに続く。
「おもしろくないギャグでわらわなければ、きっと、いいスパイになれますね」
「スパイ…?」首をかしげる崇子。
「きょうすけくん、さいおんじたもつたんていじむしょに、はいりませんか?」
「なあに、それ?」
「みなで、じけんをかいけつするのでござる」
「わるいひとをしらべたり、ひみつかいぎもするの」
「たんていじむしょの、うたとおどりもあります」
「いま、はいると、わりびきけんがつくでござるよ」
「とにかく、たのしいから。はいりたくないなら、べつにいいけど」
真里菜が言うと、恭介がうつむいて考えた。
「いまはね、けんぞうおじさまを、まもるおしごとがあるの」紗由が言う。
「おじいちゃんをまもるの?」
「そう。ありかわのおじさまは、だいじなひとだから、ちゃんとまもるの」ゆっくりと言う紗由。
「…じゃあ、はいる。おじいちゃん、まもりたいから」
「はい。じゃあ、きょうすけくんもメンバーですね」紗由がにっこりと笑った。
「きょうすけどの! われわれは、なかまでござるぞ。みなで、せんせいをおまもりするでありんす」
充が恭介の手を取って、ぶるんぶるんと振ると、恭介は少し恥ずかしそうに笑い、傍にいた崇子は戸惑いながらも、体験登園早々に友達が何人もできたわが子に安堵の表情を見せた。
* * *
久英社とイマジカで共同開発を予定しているソフトの資料を届けがてら、賢児と玲香は、久我家で夕紀菜とお茶を共にしていた。
「幼稚園に有川先生のお孫さんが転園してきたの、聞いてる?」夕紀菜が賢児に聞く。
「うん。紗由が言ってたよ。恭介くんだろ。ちょっと変わってるんだって?」
「なんかね、笑いのセンスが独特みたい。体験入園の3日間、充くんの親父ギャグに大笑いしっぱなしなんですって」
「へえ。ツワモノだね」くすりと笑う賢児。
「充くんも、確か年中さんからの転入組でしたよね」玲香が尋ねる。
「そうそう。しかも公立の幼稚園から」
「珍しいね、あそこでそういうの。私立同士とか帰国子女の受け入れは聞いたことあるけど」
「でしょう? 充くんに関しては、いろいろ噂もあるのよ」夕紀菜が囁くように言う。
「噂ですか?」
「彼、中途半端な時期に転入してきたのよ。青蘭は普通、それをしないはずなの。年度末に多少の動きはあるけどね。
しかも、最初の頃は園長の息子が送り迎えしてたって話もあるし、謎のVIPよ」
「それはまた、すごい話だね。でも、夕紀菜ちゃんのことだから、直接本人に聞いたんじゃないの?」くすりと笑う賢児。
「もちろん」自信満々に答える夕紀菜。「そうしたらね、“あの運転手は、へたっぴな忍者なので首にしたでござる”ですって」
「えーと、で、誰なの、それ?」
「聞いたんだけど、“忍者は仕事の時に一緒になるだけで、どこの誰かは存じませぬ”って言われちゃったわ」
「なるほどね。よく知らないおじさんなわけだな」
「でもね、充くん、親戚に園長と同じ川本という名前がたくさんいるって言ってたから、園長先生とも実は親戚なのかなあとも思ったのよ」
「そこは聞いてないの?」
「充くんは違うって言ってたし、まあ、ご家族のほうに直接聞いても答えないわよ。ほら、一昨年の裏口疑惑以来、親戚筋は入園させないって、マスコミに公言してるし。そこは聞かないのが、オトナのPTAってものよ」
「なるほどね…。で、今は彼のお父さんが送り迎えしてるの? お店の準備もあるだろうから、大変だね」
「お母様が外務省の外郭団体に出向中ですものね。お父さんとおじいさんも大変だと思うわ。
でも、充くんの自宅、うちも含めてクラスメイトが何人か近所にいるから、私もそうだけど、他の親御さんが、ついでに一緒に送って行くことが多いわね。
お店が休みの日は、逆にあそこのお父さんが皆を送ってくれるし」
「へえ…そうだったんだ」
「それに、ああ見えて、っていう言い方も失礼かもしれないけど、あそこ、けっこうな資産家よ。西片のおうちも、かなりご立派だけど」
「西片と言えば、一昨日お見かけしました、久英社さんの前の専務さん」
「日下部さん?」驚いて玲香を見つめる夕紀菜。「へえ…東北支社に飛んだ後、常務と一緒に独立するって辞めたんだけど…元気だった?」
「あ、いえ。お声はおかけしてません。私も車の中でしたので。
でも、何か雰囲気が変わられてました。以前の、おっとりさんで、ちょっと間の抜けた感じじゃなくて、眼光鋭いというか。一瞬、人違いかなとも思ったんですけど…」
「へえ、そうなの…まあ元気でいてくれるなら、それに越したことはないけど。業績、あまりよくないみたいだし、あそこ」
「そりゃあ、久英社ににらまれたら、いろいろやりづらいだろ」笑う賢児。
「何か、新しい業種にも参入し始めたみたいで、居酒屋開いたみたいなんだけどね」
「客商売は、そんなに簡単じゃないと思いますけどね」玲香が言う。
「そうよね。元常務って、かなりのボンボン育ちで、その辺の読みが甘いみたいね。親が大株主だったから、そのまま入って上がってきたけど、実家の財産食いつぶして終わるのが落ちだって、社内じゃ評判」
「まあ、世の中はそうそう甘くないからね。そうだ、居酒屋で思い出した。“さけみつる”のあるビルは花巻さん家の持ちビルなんだよね。充くんから聞いたことがあるよ。夕紀ちゃんの言う通り、けっこうな資産家だよ」
「それだけじゃないのよ」そんなことはとうに知っていたと言わんばかりの夕紀菜。「お店がある辺り一帯の地主で、再開発の時にかなりの大金を手にしたみたい」
「元々地主というだけでも、あの辺の地価を考えたら、かなりのものですよね」玲香も話に加わる。「でも、それだけで青蘭が中途入園させるものでしょうか? 元からお金持ちの師弟ばかりなわけですし、あまり理由にならないような…」
「でしょう? なーにか、あるわよねえ」
「この4月は、年中さんになる子たちも何人かフリージアから転園すると聞きましたけど、もしかして意図的に集めているんでしょうか」
「意図的って、つまり、そういう力の持ち主をってことか? まあ、あのトリオにすんなり溶け込んで、ついて行ってること自体、十分な特殊能力だよな」笑う賢児。
「充くんのおじいさま、華織伯母様と昔一緒に仕事をしていたことがあるんでしょう? つまり“命”だったか、機関か宿の人間だったってことよね」
「え? そうなの?」
「あら、聞いてないの、賢児くん」不思議そうな夕紀菜。
「うん。その辺のことは特に何も…」
「だーかーら、にんじゃなの!」
「まりりんちゃん!」驚く玲香。
「うわっ。いつの間にいたんだよ」
「充くんは、さゆちゃんをまもるにんじゃなの。だから、きたの」
「子どもSPかあ?」賢児が笑う。
「だって、まりりんと、かなこちゃんだけじゃあ、かよわいおとめだから、たいへんだもの」
「か弱いねえ…」真里菜が充にキックする様子を思い出しながら、苦笑する賢児。
「ああみえてね、ぶきだって、いっぱいもってるんだから」
「えーと、それは、べたべたにするキャンディとか…?」玲香が聞く。
「ゲキマヨもあるよ」
「激マヨって、あの、激辛のピザに入っていたソースのことかしら」
「うん。充くんにもらったから、みんなもってる」
「そうなんだ」驚く賢児。
「あ、うちではね、母が辛いもの好きだから、お料理に使わせてもらってるけど、龍くんとか紗由ちゃんは、護身用に持ち歩いているのよね?」
「うん。きょうもね、さゆちゃん、かえるときに、ようちえんのおにわからきた、へんなおじさんに“かわいこちゃーん”ってよばれたの。
しゅにんせんせいが、みんなに、きょうしつにはいりなさいって、いってえ、えすぴーのおじさんが、どろんて、あらわれて、はしってきたの。
へんなおじさんはね、びっくりして、にげたんだよ。でもね、みつるくん、すごいの。えすぴーのおじさんたちが、手とあしをつかまえてるときに、へんなおじさんのパンツのなかに、げきマヨいれて、ふんづけて、もみもみしたの。そしたらね、へんなおじさん、ぎゃーって言って、しんじゃったの」
「ちょ、ちょっと、真里菜。聞いてないわよ、そんな話。ママも何も言ってなかったし」
今日の送り迎えを和歌菜に任せていた夕紀菜は、母親が何も報告をしなかったのかと思い、少々不機嫌な顔になる。
「うん。言ってないから」頷く真里菜。
「…で、どうなったの、それから」さらに眉間にしわを寄せる夕紀菜。
「へんなおじさんは、くろいくるまにのせられて、いっちゃった」
「不審者が庭に入ってくるなんて危ないですね」今度は玲香が眉間にしわを寄せる。
「その前に止められなかったのかな。今は紗由に私設SPが付いてるから、それなりに周囲も見てはいるだろうけど、幼稚園全体の問題だよなあ」
「そもそも、そんな事件があったのに父兄に連絡メールをよこさないなんて、なってないわ。ちょっと待ってね。園長先生に電話するから。……電波が入らないですって。もう!」ぷーっと膨れて、携帯を置く夕紀菜。「でも…充くんも、あんまりやんちゃなことをして、危ない目に合わないといいわね、真里菜」
「だいじょうぶ! みんなでちからをあわせて、がんばるから」手をぎゅっと握る真里菜。
「ところで、まりりん。髪の毛ちょっと濡れてるみたいだけど、ちゃんと乾かさないとカゼ引くぞ」
「あーっ! さきっちょが、ぬれてるぅ」
「しょうがないわねえ。どうせ、おばあちゃまに乾かしてもらってる時に、早く早くって暴れたんでしょう」口を尖らせながら、ソファーに置いてあったクッションカバーのファスナーを開け、タオルを取り出す夕紀菜。
「すごいとこから出てくるんだね、タオル」笑う賢児。
「小さい子どもがいるとね、いつでもどこでも必要なのよ。タオル、ハンカチ、ティッシュと着替え。どの部屋にも置いてあるわ」
「なるほど。勉強になります」
「あ、でも、玲香さんのところは子どもの手の届く高さには引き出しとか扉の収納を置いたらだめよ。最近のものは、ユニバーサルデザインていうのかしら、開けやすくなってて、逆に小さい子は手を挟んだりしやすいから。
まーくんとまこちゃんが立てるようになっても、届かないぐらいの高さにしておいたほうがいいわ。でなかったら、バスケットをボックスに入れておくとか」
「はい。わかりました。ありがとうございます」玲香が部屋を改めて見回す。
「でも、まりりん、髪が濡れてるって、プールでも入ったのか?」
「うん。さゆちゃんちで、シンクロやってきた」
「シンクロって、シンクロナイズドスイミングのこと?」玲香が首をかしげる。
「うん」
「そうなのよ。実は昨日ね、大地のスイミングを“5人組”が見学に来たの。でも紗由ちゃんが、隣のプールのシンクロのほうをやりたいって。
しかも、ちょうどそのコーチの先生…ほら、テレビにも時々出てるでしょう、梶真理子先生が、保先生の大ファンだったから、出張ボランティアでコーチしてくれるって言い出して」
「それで、うちのプールでシンクロの練習してたわけだ」
「シンクロって言っても、円筒形のビート板につかまって、足上げたり、ちょっとクルクル回ったりする程度だけどね。楽しく水に入るには、いい機会だからって」
「あのね、まりりんちのプールでしますっていったのに、せんせいは、さゆちゃんちがいいんだって。じいじせんせいは、おしごとで、いないのにねえ」
やれやれといった感じの真里菜に、大人3人はくすりと笑う。
「潜る練習もしたのか。慣れるまで大変だろ」
「うーん…きょうすけくんは、さゆちゃんの下でもぐってたかなあ…」
「なんだ、それ?」
「さゆちゃんは、きょうすけくんによじのぼって、かたの上にのって、そこから、ぴょーんてジャンプしたの」
「は?」
「きょうすけくんが、なにするんだよ!っておこったんだけど、さゆちゃん、ほんとのせんしゅみたく、くちあけてわらったまま、きょうすけくんの足もって、ぐるんぐるんて、まわしたの。きょうすけくん、水の上でおはなみたくて、きれいだったよお」
「危ないじゃないの!」
夕紀菜は焦るが、真里菜はまったく意に介さない。
「きょうすけくん、あおむけだったもん。だいじょうぶだよ」
「そういう問題じゃなくて…」
「充くんはね、まりりんをもちあげて、まりりんは、いるかさんみたいに、びよーんて、とんだの」
「親分子分組は何気にチームワークが良さそうだな…」
「奏子ちゃんはどうしてたの?」玲香が尋ねた。
「さゆちゃんのまねして、きょうすけくんにのぼったら、まちがえてあたまふんづけてた。でも、ジャンプはとってもきれいだったよ」
「コーチも大変そうだなあ。みんなマイペースだし」
「恭介くん、散々ねえ…」
そう言いながら夕紀菜が小さくため息をついたので、真里菜は、恭介がその後、大泣きして大変だったことは言わずにおいた。
「たのしかったよお。おわってから、プールサイドでホットドッグたべたの。充くん、げきマヨぬって、ひーひーいってた」
「子どもには辛すぎるでしょう。胃に悪いから、とめなさい」夕紀菜が目を丸くする。
「わるいやつを、やっつけてるときに、くちにはいっても、だいじょうぶなように、なれるようにしておくんだって」
「そう言えば、忍者って毒を少しずつ飲んで身体を慣らしてたんですよね。さすがは姫を守る忍者だわ…」妙に感心する玲香。
「ところでさ…さっき言ってた、その激マヨをパンツの中に入れてもみもみっていうの、ちょっと気になってたんだけど、それって、つまりその…」賢児がおそるおそる尋ねた。
「死んじゃったっていうのは、激痛で失神したということでしょうか」淡々と述べる玲香。
「うわあ…想像しただけで変な汗が出てくるよ。あれだろ? あの辛さなんだろう?」
「大丈夫です、賢児さま。そういう目に遭うのは悪いやつだけですから」
「それはそうなんだけど…我が家は、家の中にそんな凶器が二つもあるんだぞ」
「いいえ、4つです」
「は?」
「私ももらいましたし、まこちゃんにもと、もうひとつもらいましたから、龍くんや紗由ちゃんの分と併せて4つです」
淡々と続ける玲香に絶句する賢児を見ながら、夕紀菜が言った。
「大丈夫よ、賢児くん。浮気でもしない限り、玲香さんはそんなこと、しないと思うわ」
「う、浮気なんてしたことないし、してないし、するつもりもないから!」手の汗を拭う賢児。
「えっとね、みつるくんね、けんちゃんのかいしゃで、ジュースだしてくれたおねえさんにも、あげてたよ」
「ん? 西川先生かな」
「ああ…わかります。充くんは副会長さんのような、キリッとしたキャリア系ゴージャスが好みですものね」
「和歌菜おばさま、割引券がたまって大変なんじゃないの?」
賢児が笑うと真里菜が答える。
「ううん。いまもってるのは、いつでもわりびきけんを1枚だよ」
「いつでも割引券?」
「ディズニーランドのパスポートみたいなものよ」
「翔太くんのまねっこだよ。さゆちゃんはね、せいりゅうの、いつでもおとまりけんをもってるの」
「へえ。さすがだな、翔太」
「さゆちゃんはね、いつでもほっぺにチューけんを、あげたんだよ」
「まあ。翔太、喜んだでしょうね」玲香がうふふと笑う。
「まりりん。それ、うちの兄貴には内緒だぞ。そんなの聞いたら、引きこもって仕事に行かなくなりそうだ」
「おとななのに、こまるねえ」腕組みする真里菜。「もうちょっと、きたえないと」
深刻な顔になる真里菜を見て、3人は思わず笑い出した。
* * *
「意外な展開になっちゃったねえ」
男は、青蘭幼稚園の最寄り駅近くのファミレスでコーヒーをすすり、正面の席を見つめて微笑むとつぶやいた。
「ガードが固い」それに答えるもう一人の男。
「これまでになかったパターンだ」
「状況がわかっただけでも、よしとしよう」
「戻ったときにまた考えよう」
男たちは店員を呼ぶと、コーヒーのおかわりを頼んだ。
* * *
進の家を訪れた保は、一通の書類に目を通すと、深くため息をついた。
「つまり、姉さんが言っていた年は、いろんなことがあった一年ということだね」
「そのようですね。天馬さまたちのことだけでなく、華織さまが保さまにお示しになった3人の大臣。彼らの周囲でも不幸が起きています。
竹田先生は娘婿が身重の妻を残して事故死。朝香先生は奥様が病死。
岩倉先生はご両親を亡くされ、その借金の肩代わりに近い形で、竹田先生の下で働くようになっています」
「だが…不幸だけということでもない。龍が生まれ、翼くんが生まれた。涼一と周子さんが結婚した」
「身重だった竹田先生の娘さんもご出産されています」
「これがどうつながるのか、さっぱりわからないよ、進くん」
「いろんな奴らに悟られぬように、慎重に慎重に、華織さまが時間をかけて、たどられたことです。核心が明らかになるには、まだ時間がかかるのではないでしょうか。それにきっと…」
「きっと、何だい?」
「華織さまは、それを明らかにしながら、龍さまたちを教育し、お育てになろうとしているはずです。力だけではなく、それに伴う心の部分も」
「当分見守るしかないということか」
保は半ば諦めたように微笑むと、手元の書類を見つめなおした。
* * *
次の日曜日は、かねて有川が希望していた通り、探偵事務所の秘密会議を有川邸で行うことになった。
正確に言うと、会議自体はもう賢児の家で済ませてきたのだが、その議題であった“有川のおじさまを守る”ために、いろいろと確認をしようということになり、急遽、有川邸へ赴いたのだ。
「ああ、恭介、お帰り。紗由ちゃんたちも、よく来てくれたねえ。おじさん、ちょうどお休みの日でよかったよ。ケーキも用意したからね、ゆっくりしていっておくれ」
うれしそうにリビングに招き入れる有川に、皆、順番にあいさつをして、ソファーに腰掛けた。
「おじさま、この子がゆうとくんです。おじさまのボディガードです」
紗由が紹介すると、悠斗はこくんと頷いて叫んだ。
「たかはしゆうと! へんしん!」
「おや、変身したんだね。強くなって、おじさんのこと、守ってくれるんだねえ」
有川が悠斗を覗き込んで笑うと、悠斗は有川によじのぼるようにして抱きついた。
「まもってるから、だいじょうぶ!」
「ああ、そうだねえ。大丈夫だ。ありがとう」楽しそうに悠斗の頭を撫でて、抱きしめる有川。
「ねえ、さゆちゃん。まもってるのと、だっこと、どうちがうの? まりりん、わかんないよ」真里菜がこそっと紗由に囁いた。
「あれはね、よくわかんなくさせる、さくせんなの。さゆも、ときどきするよ。おやつ食べるふりして、まもってるんだよ」
「ふーん…すごいねえ」
紗由の場合は、ただの食いしん坊じゃないかと真里菜は内心思ったが、それは口にはせずにおいた。
「ぼくも、おじいちゃん、まもってくる」
恭介は、有川のところへ行くと、悠斗を少し押すようにして、有川へ抱きついた。
「うー」悠斗が恭介をにらむ。
「こら、恭介…おまえは右側で、悠斗くんは左側にしよう。仲良くな」
「ぼくのおじいちゃんだもん!」
「きょうすけくん。おじいさまをまもりたかったら、おしごとのじゃまは、しないでください」
言われた恭介が、紗由をキッと睨む。
「にらんでも、だめです。おしごとですから」
「…ぼくの、おじいちゃんだ」
「じゃあ、ボディガードのいないときに、なかよくしてください」
「そんなの、そんなの…」恭介の目に涙が浮かぶ。
「恭介。泣くことはないぞ。おじいちゃんは、今まで遠くにいたぶんも、これからは一杯仲良くするぞ」
有川が恭介の頭を優しく撫でると、恭介は涙を拭いながら有川を見上げた。
「おじいちゃん…」
悠斗は二人の様子を見ながら、有川の傍を離れ、ソファーを下りた。そしてドアのところへ行くと、辺りをきょろきょろと見回しながら言った。
「これだから、こどもはこまるんだ」
「さ、さゆちゃん…なんか、ゆうとくん、おとなみたいだよ」真里菜が紗由の袖を引っ張る。
「たのもしいですね」腕組みする紗由。
「きょうすけくんのほうは、あまえんぼうさんなのね」
奏子が言うと、恭介が反応して、キッと奏子をにらんだ。
「こら、恭介。女の子には優しくしないとだめだろう?」
「おじさまは、おんなのこにやさしいのに、ぜんぜんにてないよね」真里菜が言う。
「なんだよ!」恭介が怒る。
「ほんとうのこと、いわれたからって、おこらないでくださいね」
にっこり笑う奏子を見て、悔しそうな顔をする恭介のところへ、充がつつつと寄っていき、耳打ちをする。
「マドモアゼルだけはおこらせたら、だめでござる。ほんとうは、いちばん、こわいんでありんすよ」
「ふうん…」どこか納得がいかない様子の恭介。
「恭介、みんなと仲良くするんだよ。充くん、恭介のこと、よろしく頼むね」
「ラジャーでござる!」敬礼しながら答える充。
その時、ドアがノックされた。
「旦那様。西園寺先生がお見えです。お茶もお持ちいたしました」
「ああ、どうぞ。…西園寺、早く早く」
ドアが開いて保が現れると、有川は、ワクワクした様子で保を手招きした。
「おじゃましま…あれ、何でここにいるんだ、紗由?」
「あ、じいじだ!」
「たもつちゃま!」ドアの傍にいた悠斗が保にしがみつく。
「悠ちゃん…」
さらに、いると思っていなかった悠斗の存在に戸惑いつつも、悠斗を高く抱き上げる保。悠斗を抱っこしたまま、ソファーに座る。
「悠斗くんと知り合いなんだろう?」
「まあ…な」紗由のほうを気にしながら、答える保。
「何でも、華織さんを守る仮面ライダーだそうじゃないか。おまけに、私のボディガードにも就任したぞ。なあ、悠斗くん」
「あい!」
「テレビとおなじだ…」恭介が保をじっと見つめる。
「恭介、ご挨拶しなさい。西園寺先生だよ」
「あ、ありかわきょうすけです。こんにちは」立ち上がり、深々と頭を下げる恭介。
「こんにちは、恭介くん。大きくなったねえ。おじさんが会ったのは、君が2つの時だから覚えてないだろうけど」
「は、はい…」
「紗由と仲良くしてくれて、ありがとうね」
「…あんまり、なかよくないです」
「え?」
「こら、恭介。…ははは、ごめんよ、西園寺。ちょっと今、女の子たちとケンカ中なんだ」
「ああ、そうなのか」
苦笑しながら紗由を振り返る保。だが当の紗由は、家政婦が持ってきたホールのチーズケーキに釘付けで、こちらの話を聞いている様子はない。
「おいしそうだねえ…」
「さゆちゃん、このにおい、“レザン”のチーズケーキだよ!」真里菜の顔も必死だ。
「きょうすけどの。おこりんぼは、いいスパイになれませぬぞ。おこって、よけいなことをしてしまうと、ダメでござるからな」
「うん…」充の言葉には素直に従う恭介。
「おい。けっこう、鋭いな、充くんは」保が有川に耳打ちする。
「ああ。閣僚どもにも聞かせてやりたいよ」
「おやつだよ!」紗由が叫ぶ。
「紗由ちゃんも、みんなも、いーっぱい食べておくれ」微笑む有川。
「きょうすけくんも、いっしょにたべよう」
紗由が言うが、恭介は下を向いたままだ。
「かなこが、きってあげます」
家政婦が切り分けようとしていたところ、ナイフを受け取る奏子。
「きょうすけくんも、いりますよね?」
ナイフを持って微笑む奏子に、恭介は小さく「うん」と呟くが、真里菜が怒った顔ですっくと立ち上がり、両手を腰にやり叫ぶ。
「こえが、ちいさい!」
「は、はい」思わず起立する恭介。
「いいおへんじですね。じゃあ、かなこちゃん、きってください」指示する紗由。
「はい」
奏子は一人ひとりの顔を見て頷きながら、8人だと確認すると、ケーキをきれいに切り分け、そのケーキを紗由がケーキサーバーを使って、上手に皿に移した。そして真里菜が、その皿を配って行く。
奏子は、自分のケーキの上のさくらんぼをフォークですくうと、恭介のケーキの上に置いた。
「なかなおりです」
「ありがとう…」少しバツが悪そうに礼を言う恭介。
「おおっ。きょうすけどの。おこりんぼに、さくらんぼでござるな!」
「あはははは!」大口を開けて笑い出す恭介。
「いつもの、きょうすけくんだね」真里菜が紗由にささやく。
「あねごは、あわてんぼで、ひめは、くいしんぼでござる!」
「あはは! おもしろいね! おもしろいね、みつるくん!」
大笑いする二人に、悠斗が言う。
「なかなおり、だめになるよ」
「あ…」
二人が振り向くと、眉間にしわを寄せ、じーっと二人を見つめている紗由たちがいる。
充と恭介は、慌てて自分たちのケーキを少しずつ切り分けると、紗由たち3人の皿に載せて行き、それを見ていた有川と保は、傍らで小さく溜め息をついた。
* * *
秘密会議が終了すると、有川は場所を移し、保を自分の書斎へ招きいれた。
「そうだ。沖縄で開催予定のエコリンピック、環境大臣と途中で合流することになったよ。さっき連絡が入った」
「竹田先生は、お前にバトンタッチして戻るんじゃなかったのか」
「ああ、それがな…」有川が声を潜めた。「東京ではしづらい大切な話があるから、向こうで時間を作ろうっていうんだ。何だと思う? 何かが引っ掛かるんだよなあ」
「引っ掛かるなら、断ればいいだろう。二人で参加するほどのイベントではない。
と言うか、本来、彼一人で担当するべき部分だ。
今回は直前の環境会議に国賓級を大勢お招きしていて、彼がはずすわけにもいかないから、前半を沖縄担当経験者のお前にという話だっただけで」
「うーん。引っ掛かるんだが、気にもなるんだよ。私に聞かせたい話というと、まずは今揉めているA国との絡みだろうが…」
「その関連で、お前を誰かに会わせるつもりなのかもしれないな」
「そうだな。お前の頃から…いや、四辻の頃から揉めている話だ」
「だが、竹田先生は普段の政治領域や所属委員会から考えても、その件とは遠いように思える。誰かが後ろにいるんじゃないのか」
「ああ。かもしれないな。だが、後ろとなると、彼より立場が上の人間だ。国内の人間なら、そう多くはない」
「A国側の人間ということもあるな…」
「どちらにしても、国内の誰かの手引きが必要だし、それなりの立場の人間がその役につくはずだ」
「大臣級で、その時期に東京を空けるのは…えーと、この前の閣議で出張を了承したのは、朝香くんが国際科学オリンピックがらみの式典で大阪へ、それから岩倉くんが消費者機関の連携協議会式典で神戸だったな」
「この前、華織さんがお前に渡したリストのメンバーか」
「ん…」
二人はしばし黙り込む。
「実はな、西園寺。気になってるんだよ、今回の流れ」
「どういうことだい?」
「紗由ちゃんが私にボディガードを付けてくれただろう? 私に危険が迫っているということなのかと思ってな。以前ちょっと不審者の姿もあったしな」
「…子どもの、探偵事務所ごっこだろう。不審者の話を恭介くんから聞いたのかもしれん」複雑な笑みを浮かべる保。
「いや、でもな、思い出したんだよ。最後に四辻と3人で会った時のことを。
私と四辻が帰ろうとしたら、紗由ちゃんが大泣きして四辻を止めただろう? あの後、彼の飛行機が落ちた」
「紗由が何かを予知しているとでも?」
「紗由ちゃんがというより、昔からお前たち一家は不思議だったよ。何かを見越しているような部分がある。
特に華織さん。こちらの気持ちを知っていて、もてあそばれた形だ。よーく観察していたからね、ある意味、おまえより承知している。
まあ、いろんな意味で普通ではないのは確かだ」
「姉さんが聞いたら、むくれそうだ。でもまあ、気まぐれなのは認めざるを得ないし、謝るよ」苦笑する保。
「昔のことさ」
にっこり笑う有川。
「それに、恭介が言うんだ。紗由ちゃんたちは、不思議なんだよって。
充くんは悪い人が来るのがわかるし、真里菜ちゃんは悪い人の匂いがわかる。奏子ちゃんは、きらきらした石とお話ができて、悪い人をやっつけられる。紗由ちゃんは危ないことも、いいことも、いろいろわかって、龍くんと頭の中でお話してるんだそうだ」
「恭介くん、現実主義のお前に似ず、ファンタジー好きな子なんだな」保が笑う。
「…まあ、いい。お前がそういう言い方をする時は、否定じゃあないんだ。何はともあれ、気をつけることにするよ。竹田たち3人は、元々どこか考えの読みづらいところがある」
「そうだな。何か状況が変わったら、その都度連絡してくれ。こっちでも気をつけるようにはするから。…お前が危険を感じるようなら、義兄さんの会社のほうから別途SPを付けるよ」
「大丈夫だよ。悠斗くんがいるからな」声を上げて笑う有川。
「…ああ、そうそう。悠斗くんの目、誰かに似てるなと思ったんだけどな、今、思い出したよ」有川が保の顔を覗き込む。
「ん?」
「我々が議員になったばかりの頃だった。お前の家に…というか、華織さんの別宅に居候していた少年がいたよな。短期間だったけど、ほら、背の高い彼。
パーティのときだったか、裏庭で拳法の練習をしているのを見かけて声をかけたら、西園寺の人たちを守るためだと言っていた。あの子に似てるよ。
四辻が、筋が良さそうだから自分の気功塾に来ないかと誘ってたが、断られてたじゃないか」
「お前、昔から、無駄に記憶力がいいよなあ」くすりと笑う保。
「まあな。初めて会った時の華織さんの服装だって覚えてるぞ。淡い水色のワンピースだった。髪はポニーテール」
「姉さんに伝えておくよ」
「ああ…それは勘弁してくれ。“そんなこと、気に留めている場合ではなくてよ、建造さん”て、怒られちゃうよ」はははと笑う有川。
「今の、紗由たちの前でやったらウケるぞ。“真似っ子ごっこ”が大好きなんだ」
「じゃあ、レパートリーを増やしておくとするか。最近気づいたんだけどな、けっこう得意なんだよ、“真似っ子ごっこ”」
有川は嬉しそうに笑うと、コーヒーを一口すすった。
* * *
有川と保がリビングから去ると、紗由、真里菜、奏子、充の4人は、なぜか部屋のあちこちを調べ始めた。
「ひめ…こっちは、だいじょうぶでござる」
「さゆちゃん、こっちもへいき」
「だいじょうぶです」
「わかりました。ちょうさ、かんりょうです」紗由が頷く。
「なにしてたの?」不思議そうに尋ねる恭介。
「ちょうさです」じっと恭介を見つめる紗由。
「あぶないひとがくるとこまるから、ちゃんとしらべないとね」真里菜が言う。
「うち、あぶなくないよ」恭介が口を尖らす。
「さゆちゃん! テーブルのしたは?」
「しらべて」
てきぱきと指示しながら、部屋のあちこちを調べまわる4人に、恭介は不機嫌そうな顔だ。そして悠斗はソファーで眠ってしまっている。
「ふう。いっぱいおしごとしたねえ。ありかわのおじさまの、ちょうさもいっぱいできて、いろいろわかったし」
「おじさまのこと、まりりんは、あんまりよくわかんなかった…」
「なにがわかったの、さゆちゃん?」奏子が聞いた。
「レザンのチーズケーキは、すんごくおいしい」
「それと、ありかわせんせいと、どういうかんけいなんでござる?」充が尋ねる。
「おいしいケーキやさんがあると、ひとがいっぱいくるでしょう? てきのスパイもまざってるかもしれないから、きをつけないとね」
「しんぱいだね…」奏子がきゅっと唇を噛む。「じゃあ、ケーキやさんに、うんととおくに、おひっこししてもらおうよ」
「ええっ!…チーズケーキたべられない…」しょんぼりする紗由。
「だ、だいじょうぶだよ、さゆちゃん。ありかわのおじさまにいえば、あそびにいくときは、かってきてくれるよ」真里菜が紗由の手を取って励ます。
「あねご。それだと、せんせいをあぶないところへ、いかせることになりますぞ」
「じゃあ、ひみつかいぎように、このおうちに、ケーキやさんをあたらしくつくったら、どうかなあ」奏子が提案した。
「そうだね! えーと、さゆちゃんちと、けんちゃんのかいしゃと、みことさまのおうちにも、つくったらいいね」真里菜も同意する。
「わかった。みんなに、おねがいしてみる」
いつものニコニコ顔に戻る紗由を見て、ほっとする一同。
「そうだ。さいごは、これだよ」
紗由がケーキの台座を指差す。
「それ、どうかしたの?」尋ねる真里菜。「あ。へんなにおい」
「かなこちゃん、これ、よーく、きこえるようにして、いいよ」
紗由が奏子に台を差し出すと、奏子はポケットの石をぎゅっと握った。
「いっぱい、いっぱい、きこえますように。えい!」
奏子がそう言ってから、しばらくすると、今度は真里菜が言った。
「におい、かわったよ」
「わるい子が、なかにはいっていたでござるな」
「みことさまに、いったほうがいいよ。においが、くるくるかわるもん」
「ねえ、なんなの?」
恭介が話についていけず、皆に尋ねるが、奏子はそれを無視するように、紗由に尋ねる。
「もっと、わるい子になっちゃうの?」
「こわいから、だいじょうぶなところに、おいておこうよ」真里菜も不安そうだ。
「な、なにが、こわいの?」さらに不安そうな恭介。
「ちょっと、バラバラにしてみるね」
紗由がケーキの台を分解し始めた。皆、固唾を呑んで見守っている。
「あれ? この中、なにかはいってるよ」
外箱のダンボール部分を破くと、そこには小さなエアークッションに包まれた1.5センチ四方ほどのプラスティック片がテープで止められていた。それを取り出して、上にかざす紗由。
「ひめ! あやしいきかいでござる!」
「あれ? においがもどってきたよ…」
「へんでござるな…」
「だれかに、あげちゃおうよ。そばにあると、いやだよ」真里菜が紗由の袖をつかむ。
「そうだねえ…。あした、ようちえんのおきゃくさんに、あげちゃおうか。みつるくん、あずかっておいて」
紗由はリュックから青っぽくキラキラした袋を取り出し、そのプラスティック片を袋の中に入れ、それを充に渡すと、残っていたジュースをごくりと飲んだ。
* * *
「それは誤解ですよ」
朝香は電話口でコーヒーをすすりながら、相手に答えた。
「私には、そんなことをする理由はありません。大体、あなたが送ってきたこれが、いったい何なのかもわからないし、そんなことをおっしゃるのなら、逆に教えていただけませんか? 私としても、そんなふうに疑われるのは不本意です」
「でしたら、それをリストのメンバーに見せてみてはいかがでしょう。その反応があなたに真実を教えてくれるはずです」
相手はそれだけ言って電話を切った。
「ちょ、ちょっと!」
朝香は苛立たしげにカップを置き、電話を切ると、机の上の人形を複雑な表情で見つめていた。
* * *
翌日、幼稚園が終わり、迎えをエンタランスで待っていた紗由たちの近く、東門前に一台の車が停まった。
中から男性が降りると、その前後を黒尽くめの男性たちがガードする。
「あ。あのひと、このまえ、じいじのところにきたよ!」
紗由が走り出し、その人物に向かって叫ぶ。
「あさかせんせー!」
園長室へ続く外廊下へ移動しようとしていた時に、突然の声を聞いた朝香のSPたちは、一瞬何事かと周囲を見回すが、幼稚園児が駆けて来るのを見つけ、やや、その緊張を緩めた。
だが、次の瞬間、その駆けて来る人間が総理の孫娘だと気づくと、再び緊張が走る。
「おや、紗由ちゃん。こんにちは。元気ですねえ」
駆けて来た紗由に笑顔で挨拶する文部科学大臣の朝香。
「こんにちは」ぺこりと頭を下げる紗由。「せんせいは、えんちょうせんせいに、ごようじですか?」
よそ行きの笑顔で訪ねる紗由に、思わず相好を崩す朝香。
「うんうん。そうなんだよ。おじさんは、幼稚園の先生ともお仕事をするんだ。今日もお話に来たんだよ」
「おしごと、がんばってくださいね」
首をかしげて可愛く微笑む紗由に、さらに朝香の機嫌はよくなり、楽しげに自分のひげをなでる。
「うーん。ありがとうねえ。紗由ちゃんに応援してもらったから、おじさん、お仕事頑張るよ」
真里菜、奏子、充も後から紗由を追いかけてきた。
「こんにちは!」3人が声を揃えて挨拶する。
「うーん、うん。さすがは青蘭だ。みんな、お行儀が良くて、おりこうさんだねえ」
「先生、お時間が」秘書が声を掛ける。
「じゃあ、みんな。いい子で元気にね」
朝香が立ち去ろうとすると、充が駆け寄り、スーツのポケットを叩いた。
「ん? 何だい?」
「はなびらが、ついてました」
言われた朝香は、近くにあった桜の木を見上げた。
「ああ、今年は早いねえ。もう、こんなに咲いて。…ありがとう」
「どうしたしまして!」充は頭を下げると、ずりずりと後ずさった。
「では、みなさん、失礼するよ」
その頃には、紗由たちの後を恐る恐る追いかけてきた園児たちが、わらわらと周囲にたむろっており、それを制止しようと保育士たちも数人駆け寄ってきていた。
「さようならー!」
紗由たちの後ろから声が掛かると、朝香はにこやかに外廊下へと消えていった。
「…みつるくん、ぽっけになにか、いれたでしょ」真里菜がキッと見つめる。
「あのおじさん、あやしいでござる。さぐらねば」
「おひげが、キザだから、まあいいかな」意味不明に同意する真里菜。
「へんなきかい、いれちゃったの?」
奏子が聞くと、充は周囲を見回しながら、そっと頷いた。
それに呼応するかのように紗由も頷く。
「さゆも、あやしいとおもう。このまえね、うちにきたとき、ひしょのひとが、さっきのみたいなの、テーブルのうらにつけてったもん」
「ええっ。さゆちゃん、どうしたの、それ?」奏子が両手を口にやり、泣きそうな目になる。
「はずして、たろちゃんにあげたら、がちがちって、して、かずえさんが、まあ~どこからもってきたのかしら、こんなものって、おにわにうめた」
「すごいねえ。さすがは、おやつぶちょうの、かずえさんだねえ」真里菜が何度も頷く。
「これからも、スパイにきをつけねばでござるな、みなのもの」
「そうだね」珍しく素直に充に同意する真里菜。
「ねえ。ありかわのおじさまにも、へんなきかい、つけられてるのかな…」
奏子が尋ねると充が答える。
「マドモアゼル。さきほどの、へんなきかいは、ありかわどののおうちにあったものですぞ」
「そうだよ、かなこちゃん。ありかわのおじさまは、みんなでまもらないと」紗由が言う。
「でも、きょうすけくんは、ちょっと、たよりないけどね」不服そうに言う真里菜。
「それで、いいの」
紗由の言葉に3人は振り向いた。
「なんで? たよりないと、やくにたたないよ?」怪訝そうに問い返す真里菜。
「てきが、ゆだんするから、それでいいの。きょうすけくんがスパイだって、ばれないでしょう?」
「ゆだんさせる、おやくめなのでござるな!」
「うん、そう。きょうすけくんは、だいじなやくめなの」
紗由は、キュッと唇を結ぶと、3人を見渡し、改めて、こくりと頷いた。
* * *
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