父子

神様のお守りも楽じゃないわと彼女は言った~西園寺命記 陸ノ巻~ その1

 玲香は、双子たちのおむつをかえ終わると、お茶の準備に取りかかることにした。

「まーくん、まこちゃん。いい子におねんねしましょうねえ。ママはお友達に、お茶をいれますからね」

 今日は、塩谷夫妻と高橋進が遊びに来る日なのだ。双子が生まれてから約半年、会社へも月に一、二度出社するだけで、子育てに慌しい日々を送っていた玲香にとっては、ほっと一息つける友人の来訪でもあった。

 お湯を沸かしていた時、部屋の外から和江が声を掛けた。

「玲香さま。お客様たちがお見えです」

「ありがとうございます、和江さん。どうぞ」部屋に皆を招きいれる玲香。

「玲ちゃーん! お久しぶり」加奈子が部屋に入る早々、玲香に抱きつく。

「加奈ちゃん! いらっしゃーい」玲香も嬉しそうに抱きつき返す。

「元気そうじゃん」塩谷が笑う。

「本当ね。顔色、すごくいいわよ、玲ちゃん」高橋進がリボンのかかった包みを差し出した。「はい、これ、双子ちゃんたちに。すっごく、肌触りのいいオーガニックタオル。品物のチョイスは加奈ちゃん、色とデザインは私、合いの手担当が塩ちゃん」

「おい!」塩谷が突っ込みを入れる。

「うふふ。みんな、ありがとう。さあ、どうぞソファーへ。今、お茶持ってくるわ」

「いいって、玲ちゃん。座っててよ。私たち、勝手にやるから。…その前に、まーくんと、まこちゃんに、ご挨拶からでーす」加奈子がベビーベッドへ走りより、覗き込んだ。「あーん、かわいい!」

「あうー」双子たちもうれしそうに手足を動かす。

「ねえねえ、ほら見て。二人ともこんにちわって、ご挨拶してる」

「こわーいおばさんが現れて、震えてるんじゃないの?」塩谷も後ろから覗き込む。「うっわあ。かわいい…」

「この前来てくれた時より、だいぶ大きくなったでしょう?」

 玲香が言うと、加奈子が何度も頷いた。

「しかも、かわいさ倍増ね…」

「まーくん、まこちゃん、こんにちわぁ」

 進が双子の手に、自分の指をそっと差し出すと、二人はそれぞれに、進の指をぎゅっと握った。

「ちょーっと、進子ちゃん。勝手に触るなよ」塩谷が言う。

「こんなに強く握られちゃったわあ」

 勝ち誇ったように言う進をぎろりとにらみながら、塩谷が双子に言う。

「ふたりともー、おかまのおじさんなんか放っておいて、おにいちゃまと仲良くしましょうねえ」

「さてと…低レベルの争いは置いておいて、お茶の仕度…と」

 加奈子がリビング隅にあるミニキッチンへ向かう。

「加奈ちゃーん。クッキー用のお皿もねえ。キャビネットの上の棚にあるから」進が声を掛ける。

「まったく…誰んちだか、わかんないな」苦笑する塩谷。

「最近、誰が来てもこんな感じよ。紗由ちゃんたちなんか、脚立まで持参で、あっちこっちから、いろんなもの取り出して準備するの」

「紗由ちゃんの、おやつへのあくなき執念がこもっていそうね、ミニキッチン」進が言う。

「はい、お待たせぇ」

 加奈子がポットを持ってくると、一同は、進が焼いてきたクッキーをつまみながら、紅茶をすすった。

「この前、うかがった時も、西園寺家は慌しそうだったけど、あれから今日まで、さらに大忙しだったんでしょうね」加奈子が言う。

「そりゃあ、そうだよな。この前来た時が、ちょうど西園寺先生が総理になる直前だろう? 皆さん、公の場に出る用事も増えただろうしなあ」

「本当は私も事務所でいろいろとお手伝いしないといけないんだけど、甘えさせてもらっちゃってるの」

「いいのよ、玲ちゃん、それで。保先生だって、孫が元気に育っている姿を見るのが、お忙しいお仕事の中で、一息つける時間だと思うわ。見えるところでするだけが、お手伝いじゃないわ」

「うん。俺も進子ちゃんに賛成。双子ちゃんがママと一緒に元気なのが一番だよ」

「そうそう。玲ちゃん、頑張り過ぎちゃだめよ」

「ありがとう」微笑む玲香。

「ねえ、そう言えば、この前言ってた、あれ、もうそろそろ…?」加奈子が時計を見た。

「そうね…そろそろだわ。こっち、こっち」玲香が3人に手招きする。「足の側から見てると、わかりやすいわよ」

 ベビーベッドの傍らで、じーっと双子を見つめる4人。

 しばらくして、双子がもぞもぞと動き出したかと思うと、二人揃って右側に寝返りを打つ。

「うわっ。そろってる」驚く塩谷。

 しばらくすると、今度は反対側に揃って寝返りを打つ。

「まあ、お上手ねえ」進も感心して見つめる。

 さらに今度は、まーくんだけ、反対側に寝返りを打ち、二人が蝶々のように外側に広がったかと思うと、次の瞬間には、二人同時に内側へと寝返りを打った。

 そして最後に、二人同時に仰向けに直り、すやすやと寝息を立てた。

「すごーい…玲ちゃん、これ、日曜の番組に動画投稿したら、3万円もらえるって」

「ばーか。西園寺家が3万円のために子どもの動画売るかよ」

「あ。そうか」ペロッと舌を出す加奈子。

「賢児さまは何度も撮影してるわよ。加奈ちゃんと同じこと言いながら」

「まさか、もう投稿しちゃったの?」少し悔しそうな加奈子。

「違う違う。お義父さまに売るんですって」苦笑する玲香。

「うわー。ちょっとせこい気もするけど、堅実な商売だなあ。

 でもさあ、先生も自宅にいられて、よかったよなあ。公邸に引っ越したら、せいぜいお義兄さん一家だけだろ? 双子ちゃんとは頻繁には会えないもんなあ」

「そうよね。でも、びっくりしたわ。公邸庭に地雷が埋まってるだの、死体が埋まってるだの、ネットで噂になって、結局大掛かりな捜索になっちゃったわよね」加奈子が言う。

「ええ。それが済むまでは自宅からということだから。地雷捜査には、しばらくかかりそうだし…」頷く玲香。

「四辻大臣が外相をしていて、次の総理と言われていた頃から、噂はあったのよね。小宮山前総理は公邸を使わずにいて、何かうやむなになっちゃったけど…」進も興味深げだ。

「でもまあ、そのお陰で社長の“ご商売”が確立しているわけよね」

「まあ、そういうことね」玲香が笑う。「毎朝ね、お義父さまが抱っこしているところを写メで撮って、待ち受けにしてあげてるんだけど、それもセットにするんですって」

「文字通りの抱き合わせ販売か」

「あら。抱っこの写真だったら、保先生の後援会メンバーサイトで、ダウンロードできるわよね。孫を見つめる優しい瞳と、まーくんの可愛いつむじ、評判よ」両手を胸の前で組み、うっとりしたようにつぶやく進。

「進子ちゃん、後援会のメンバーだったの?」加奈子が言う。

「イケメン追尾には命かけてるよなあ」眉間にしわを寄せる塩谷。

「とーぜんよっ! 世間の潮流は西園寺保ですもの。流行に敏感でないと、いい作品なんて生み出せないわっ」

「そのうち、追っかけが高じて、保先生のイメージビデオでも作りそうね」加奈子が笑う。

「それもいいんじゃないの。紗由ちゃんたちも入れて、華麗なる一族にすればさ」

「そうねえ…マジメに考えてみようかしら」進が考え込む。

「あー、でも、誰かさんだけ、ちょっとばかりトーンが違うよなあ。超美男美女の一家で、ひとり気の抜けた顔だし」

「…ちょっと、塩ちゃん。そんなこと言ってると、北海道に飛ばされるわよ」

「やあねえ、そんなことしないわよ、進子ちゃん。…飛ばすなら、香港かな」

 玲香がうふふと笑うと、塩谷が泣きそうな顔になる。

「冗談よ。これから2年間は、新作の本数も増えるし、塩ちゃんに売りまくってもらわないとね」

 玲香が微笑むと、ベッドから双子の“あ~あ”という声が聞こえ、4人は思わず顔を見合わせて笑った。

  *  *  *

「ただいまあ、玲香。聖人も真琴もいい子にしてたかあ?」部屋に入るやいなや、玲香を抱きしめると、彼女を引っ張りベビーベッドに直行する賢児。

 父親の声に反応したのか、聖人と真琴は機嫌よさそうに声を出す。

「そうか、そうか。いい子だったんだなあ」

「賢児さま。どうなさったんですか、今日は向こうにお泊りだとおっしゃってたのに…」

「…そういえば、高橋さんたちは、もうお帰り?」賢児が二人を順番になでながら尋ねた。

「ええ。さっき帰りました」

「そうか…じゃあ、これは明後日会社で渡そうかな」みやげ物の箱を差し出す賢児。

「これは?」

「赤福。玲香のぶんもあるぞ」

「ありがとうございます。じゃあ、いただきましょうか」お茶を入れに行く玲香。

「どうでしたか、伊勢は」

「うーん。結婚式のほうはすごく良かったんだけどさ…」賢児が難しい顔になる。

「どうかしたんですか?」

「これ、式の後に巫女さんにもらったんだよ」

 賢児がカバンの中から出したのは、白い封筒だった。裏側の封の部分には、赤いハートのシールが貼ってある。

「ラブレターですか?」

「最初はさ、あいつらの誰かが仕込んだんだと思ったんだよ。

“神の使いと奥さん、どっちを選ぶでしょうか!?”なんて叫ぶヤツがいたから。俺も “妻は神よりも偉大です。そしてやがて、子どももその偉大なメンバーに加わりますからね!”って新郎に言って、まあ、大盛り上がり。

 でも、後で奴らに聞いても、その巫女さんのこと、知らないって言うんだ。俺が仕込んだと思ってたらしい」

「…うーん。巫女さんが、いつもこんなハートのシールを持って歩いているとは思えませんし、何らかの準備の結果ということですよね」

「だろう? 奴らはさ、俺が親父の絡みもあって、最近たまに雑誌に顔出してるから、ファンだったんだろうって言うんだけど…披露宴会場じゃないんから、参加者の氏名まで事前にわからないよなあ。披露宴は車で10分のところのホテルだったし…」

「それで、手紙には何と?」

「それが…入っていたのはこれだけなんだ」

 賢児は封筒の中から、一枚の写真を取り出した。

「これは…お義父さまの内閣発足時の記念写真?」

「そう。でも…変だろう、これ」

 賢児に言われて、玲香は写真をじっと見つめた。

「…有川先生の姿が消えています」玲香がゆっくりと言う。

「そう。外務大臣・有川建造の姿が消されているんだ」

「賢児さま…。だから予定を変更されて、お帰りになったんですね」

「ああ。ちょうど伯母さんが風馬の個展で東京に来てる。明日の午後、行くことにした」

「あの、私もご一緒していいですか?」

「うん。伯母さんが、聖人たちも連れて来いって」

「あの子達もですか?」

「“そろそろ、いいかしら”って、また訳のわかんないこと言って電話切ったよ」

「そうですか…。でも、ちょうどよかったかもしれないです。いろいろと気になっていたことも多かったけれど、ばたばたしていて、そのままになっていましたし…」

「だよな。親父が総理になるちょっと前から、正確に言えば、充くんの誕生日会に浅草へ行った後から、よくわからないことが幾つもある」

「はい…。あの直後でしたよね、小宮山先生と梨本先生が政界引退を発表されたのは」

「民自党内で定年制導入が検討されていた最中だったから、その前に勇退したんだろうと世間では言われていたが、我々にしてみたら、ありえないよな」

「ええ。小宮山先生は、紗由ちゃんがアメジストの使い方を教えに行くと言っても、お断りになった上に、アメジストを返却してきたということですし、森本の行方もあの後、わからないままです」

「梨本先生のほうは、ある意味、いい感じに落ち着いたのかもしれないけどな。御厨さんが地盤を継いで当選。先生は匠くんの世話に精出してるみたいだ」

「お義父さまも政務に励んでいらっしゃって、わからない部分も多いなりに、いい方向に全て向かっているんだと思ってましたけど…この写真は、ちょっと…」

「とにかく、有川先生に何か起きるという予告なら、放っておくわけにはいかない」拳を握りしめる賢児。

「そうですね。華織伯母様のお力をお借りして、何とかしないと…」

 玲香が力強く言うと、ベビーベッドの双子たちが「あうー」と声を上げた。

  *  *  *

 哲也は一枚の写真を進に差し出した。

「森本、意外なところにいました。過去完了形なんですが」

 半年前、進は華織の指示で、森本を華織の別荘へと送り届けたのだが、その数日後、姿を消してしまっていたのだ。

「…ああ、この店、北青山の」進が紅茶をすする。

「御存知なんですか?」

「土曜日、皆で双子ちゃんたちのところへ遊びに行った時に、手土産をここで買ったんだ。オーガニックコットンのタオル。けっこう、いいよ」

「そうでしたか…」

「正直ちょっと驚いたよ。偶然だったものだから。

 でも、妹の実歌さんは私を知らないからね、普通に店員と客の会話しかしなかったが。で、過去完了形ということは、彼は今はいないのか」

「はい。何人か客として行かせたんですが、先週の時点では毎日店内で写真を撮っていたようです。ですが、金曜日の午後、不審者が道路を挟んで反対側の喫茶店に長時間いたようでして、それ以降…土曜日から森本の所在が不明です」

「不審者の写真は?」

「これです」

 哲也はさらに一枚の写真を差し出すと、進はそれをじっと見つめた。

「澪さまの精査は?」

「まだです。今夜お持ちする予定です」

「それは…明日まで待ってくれないか」

「なぜですか?」

「確認したいことがある」

 進は、それだけ言うと、イマジカの専務室を出て行った。

  *  *  *

 紗由たちは、次の秘密の編集会議を華織のマンションで行うことにした。

 半年前の絵本の編集会議は、充が唐突に物語を終了させたため、中途半端に終わってしまったが、現在は、“これからやってくる秘密”についての編集会議をするということで落ち着いていた。

 紗由が言うには、今回の会議はとっても大事な会議なので、今日は日曜だけれども、やらなくてはダメだいうことなのだ。だが、普段会場にしている賢児の会社は日曜日は閉まっているので、急遽会場を華織のマンションに変更ということになったのである。

「おばあさま、おじゃましまーす!…あれ?」

 ソファーには、華織の隣に3歳ぐらいの知らない男の子が座っている。

「その子、だあれ?」

「おはつでござるな」

「みたこと、ないね」真里菜と奏子も様子をうかがう。

 男の子は紗由を見ながら、ソファーの上にすっくと立ち上がった。

「かおりちゃまに、なにをする!」

 男の子は華織に背を向け両手を広げている。どうやら華織を守っているつもりのようだ。

「悠ちゃん、その子は敵じゃないわ」

 広げた両手の下から彼を抱き上げ、自分の膝に座らせる華織。

 悠ちゃんと呼ばれた男の子は、顔はまだ難しげになっているが、華織の膝の上に乗った足が、うれしそうにバタついている。

「ふーん…」

 紗由はすたすたと近づき、男の子をじっと見つめて両手を挙げると、「がおーっ!」と男の子に向かって吠えた。

「きゃーっ! きゃあああ!」

 男の子は悲鳴を上げながら、くるりと向きを変え、華織にしがみつく。

「かおりちゃま! にげて! にげてー!」

 段々と泣き顔になっていく男の子を優しくなでながら、大丈夫よと囁く華織。

「紗由。小さい子をいじめたら駄目でしょう?」

「えへへ…ごめんね。さいおんじさゆです。5つですから、おねえさんです」少し威張ったように挨拶する紗由。

「お姉さんは、そんな大人気ないこと、しないものよ」

「おばあさまのこと、まもってるの?」華織の言葉を無視して続ける紗由。

「ゆうとは、かおりちゃまをまもるカメンライダーだ!」涙を拭いて立ち上がる悠斗。

「ゆうとくんて言うんだ」

「たかはしゆうと!」そう叫ぶと、悠斗は華織から離れ、変身のポーズを取った。

「さゆのしりあい、たかはしさんだらけだなあ…」

 変身したのを見てもらえないのに気づいたのか、悠斗が再度変身ポーズを取る。

「へんしん!」

「翔太くん、玲香ちゃん、ひろゆきさん、やよいちゃん、すずねさん、みつひこさん、つるこおばさん……あとね、進子おねえさん。いっぱいいるよね…」

「へんしんしたよ…」悠斗がまた泣きそうな顔で紗由に言う。

「じゃあね。ゆうとくん、ばいばい」

 紗由はそう言うと、真里菜たちのところへ戻り、秘密会議を始めるべく、準備に取りかかった。

「へんしん…」華織にしがみつき、泣き出す悠斗。

「ああ、悠ちゃん。華織ちゃまは見てたわよ。悠ちゃんが変身してかっこいいライダーになったとこ、ちゃーんと見てたから。ね」

「かおりちゃま…」悠斗はさらにぎゅっとしがみついた。

 紗由は、ふーんと言いながら、腕を組んで考え込んだ。

「どうしたの、さゆちゃん?」奏子が聞く。

「ゆうとくんも、かいぎにいれようかなあ…。いまは、いちだいじだからね。メンバーをふやさないと」

「でも、あまえんぼうだよね、あの子。なきむしだし…」真里菜が釘を刺すような言い方をする。

「あねごは、その上、らんぼうものでござるが、かいぎにはいっておるしなあ…」

「もういちど、いってごらん」充をぎろりと睨みながら言う真里菜。

「でも、さゆちゃん。あの子、あんなにちいさいのに、がんばって、みことさまのこと、まもってるんでしょ? かなこは、えらいとおもう」

「そうだね。がんばりやさんなとこは、すんごくいいよね」

「じゃあ、いれましょう」紗由は大きくうなづいた。「あまえんぼうと、なきむしは、きたえれば、なおるから」

 紗由は、華織に抱かれている悠斗に声を掛けた。

「ゆうとくーん! おいで! かいぎはじめるよー!」

 紗由が向こうから叫ぶと、悠斗は困ったように華織を見つめた。

「悠ちゃん、呼んでるわよ」

「ゆうとは、かおりちゃまをまもらないと…」

「守るための会議よ。行ってらっしゃい」

 微笑む華織に、こっくりと頷く悠斗。

「いってくる」

 悠斗は勢いよく駆け出すと、紗由のもとへ走った。

  *  *  *

 賢児と玲香が華織のマンションに到着したのは、夕方5時前だった。食事を一緒にしようと言われ、その時間を指定されたのだ。双子たちをベビーカーに乗せ、地下駐車場から直通のエレベーターで登った二人だが、財布を車に忘れたのに気づいた賢児は、エレベーターを降りたところで引き返した。

 賢児が財布を持って、再度エレベーターに乗ろうとした時、そこから降りてきたのはイマジカ産業医の西川だった。小さな子どもと手をつないでいる。

「西川先生…?」

「社長…」西川が頭を下げる。

「珍しいところでお会いしましたね」

「知人のところに、ちょっと」微笑む西川。

「そうなんですか。お子さんも、だいぶ大きくなられましたね」

 西川の勤務は週3日で、その日はイマジカの保育ルームで預かっているので、賢児もたまに遠くから見かけることはあったが、間近で見るのは初めてだった。

「こんにちは」しゃがみ込み、子供に声を掛ける賢児。

「…へんしん」

「ん? もしかして今、仮面ライダーか何かに変身した?」

 こくんと頷く悠斗。

「そっか。おじさんはね、秘密だけど…サイオンジャーのレッドなんだよ」

「レッド…」目を輝かせる悠斗。

「正義の味方同士、頑張ろうな」

 賢児が頭を撫でると、悠斗は再びこくんと頷いた。

「ありがとうございます、社長。この子、仮面ライダーや戦隊が大好きで」

「男の子は皆好きですよね。じゃあ、お気をつけて」

「はい、失礼します。…ほら、おにいさんにバイバイは?」

「バイバイ」

 一生懸命に手を振る悠斗に、賢児も笑って手を振り返した。

  *  *  *

 賢児と別れた後、マンションの駐車場を出た未那の車の前を、猛スピードで一台の車が横切っていった。咄嗟に急ブレーキをかける未那。

「ちょっと…何なの!…悠斗、大丈夫?」

「だいじょうぶ。ママは?」悠斗が未那を見つめる。

「大丈夫よ。ありがとう」

 未那は悠斗の頭を撫でると車を路肩に寄せ、車を降りて周囲を確認する。

「大丈夫ですか?」

 声を掛けてきた通行人に、頭を下げる未那。

「ありがとうございます、大丈夫ですので…」

「そうですか。ずっと大丈夫だといいですねえ」

 声を掛けてきたサングラスの男は静かにそう言うと、向こうへと歩いていった。

 だが、男のその言葉に未那の表情が変わる。未那のセンサーは男を敵だと認識し、辺りを警戒しながら、彼の後ろから、その眉間に意識を集中しようとした。

“はじかれた…!?”

 未那は悠斗を抱えて急いで車に乗ると、男の後を追ったが、男の姿はもうなかった。

“それに、この気配は…”

「ママ、わるいやつだね。ゆうとがやっつけるよ。だいじょうぶだよ!」

「そうね。悠斗が助けてくれないと、とてもやっつけられないような敵よ。いっしょに頑張りましょうね」

「あい!」

 未那は悠斗をしっかりと抱きしめた。

  *  *  *

 紗由が華織のマンションで秘密会議を終えて帰宅したのは、賢児と玲香が家を出た少し後だった。華織のところでもらったチョコの袋を抱えながら、難しい顔で保の書斎を訪れる紗由。

「おや、紗由ちゃん、こんにちは」保のところへ来ていた有川が声を掛けた。

「こんにちは、おじさま。ごぶじですか?」

「え?」

「さいおんじたもつたんていじむしょでは、ボディガードをいかせます。いかがですか?」

「紗由ちゃんがボディガードになってくれるのかい? だったら頼んじゃおうかなあ」にっこり笑う有川。

「さゆは、しょちょうだから、いけないんですけど、あたらしいメンバーがはいりましたから、その子にいかせます」紗由が大きく頷いた。

「幼稚園のお友達が、また誰か増えたのか?」

「ううん。きょう、おばあさまんちで、あった子だよ。たかはしゆうとくん」

「え!?」

「西園寺の知り合いの子か?」

「う、うん、まあ…」言葉を濁す保。

「ゆうとくんは、あまえんぼうで、なきむしで、まだ3つですけど、しょうらいせいがあります!」

 紗由がきっぱりと断言しながら、有川を見つめる。

「そ、そうだね。将来性のある若者は大事にしないといけないねえ…」苦笑いする有川。

「ボディガードは将来性より即戦力だろ」保が言う。

「あ、そうだ。じいじ、これ、おばあさまからだよ」紗由がポシェットから封筒を取り出した。「らぶれたーだって」

「もらってみたいもんだねえ、華織さんからのラブレター」覗き込むようにして有川が笑う。

「いつも頭痛がするような内容ばかりだぞ」うんざりしたように封を開ける保。「これは…」

「どうした?」

「頭痛どころか、訳がわからないな。紗由、おばあさまは他に何か言ってたか?」

「たいせつなリスト」

 そこに書かれていたのは、竹田、朝香、岩倉という3つの苗字だった。

「内閣のメンバー…?」

「旧小宮山派ばかりだな」有川が覗き込む。「朝香くんは小宮山先生の秘書上がり。そう言えば、おまえ迷ってたよな、文部科学は竹田さんか、朝香くんか」

「ああ。教育畑出身で高校の理事も勤める竹田さんも適材と言えば適材だが、彼は環境教育関連の論文も多いから、そっちをお任せした。小宮山先生の腹心でもあり、強い入閣要望も来ていたしな。

 朝香くんは、若い頃の文部科学省の官僚経験を買った形だ。四辻も彼のことは外務省時代に政務官として登用していたし、かなりその腕を買っていた」

「そうだったな。小宮山先生の元秘書でなければ、自分のブレーンにしたいぐらいだと言っていた」

「竹田さんとも昔から親しいようだしな。まあ、生粋の小宮山派だ。四辻にとっては天敵に近い」

「自分だって小宮山派だったのになあ」

「あいつの持論だ。改革は中から。ぶち壊すのも中から」

 二人は目を合わせて笑った。

「岩倉くんは、竹田さんとは遠い親戚筋だったよな」

「ああ。竹田さんの下で働いていた期間が長いな。あまり小宮山派を登用するのもどうかとは思ったんだが、彼は国民生活センター出身だからな。

 党内でも消費生活関連の研究会を立ち上げているし、まだ若いが、堅実で実直なイメージで、マスコミ受けもいい」

「まあ、そういうことだよな。でも…何でこの3人の名前を華織さんが?」

「後で確認しておく。彼女の考えることは、いくつになってもわからんよ」苦笑する保。

「きっとお前もそう思われてるよ」有川がにやりと笑う。

「そうそう、紗由ちゃん。今日は探偵事務所の会議をしないのかい?」

 チョコレートの袋を開け、もぐもぐと食べていた紗由は、ごくんと飲み込むと答えた。

「さっき、おばあさまのおうちでしてきました」

「そうかあ…ねえ、紗由ちゃん。会議の会場として、うちを使ってもらうというのは、どうだい?」紗由たちの会合が大好きな有川は聞く。

「うーん…しずおかは、いきたいけど…まいにち、いきたいけど…とおいから…」翔太のことを思い出したのか、紗由が悲しそうに下を向いた。

「いやいや、東京にもおうちがあるから。じいじの内閣で大臣になってからは、東京のおうちにいるんだよ。

 今日もおみやげに持ってきたんだが、最近チーズケーキで有名な“レザン”の近くなんだけどなあ。…ああ、西園寺、あの件は大丈夫だ。家の周りをうろうろする奴は消えたようだし」

「すんごく、まえむきに、けんとうします!」大きく目を開いて頷く紗由。

「あ、それとうちの長男一家もね、ドイツから戻って、恭介が青蘭に転校…幼稚園だから、転園かな、こっちに来るんだよ。紗由ちゃん、もし同じクラスになったら、よろしくね」有川が紗由に微笑む。

「あれ…?」紗由がきょろきょろとあたりを見回す。

「どうした、紗由?」

「ううん。なんでもない。えーと、きょうすけくんというのは、あした、ていさつにくる子ですか?」

「偵察?」保が首をかしげた。

「充くんがしらべてきました。ねんちょうさんになったら、あたらしくはいってくる子がいて、その子があした、ていさつにくるって」

「ああ、そう言えば、体験入園するって言ってたよ。明日だったのかな」

「わかりました。めんせつをして、だいじょうぶなら、たんていじむしょにいれたいとおもいます」

「恭介は、ちょっとマイペースだからなあ。紗由ちゃんと仲良くしてもらえるかなあ」紗由の厳しい表情に心配そうになる有川。

「私も、もう3年ぐらい会ってないが、お前の孫だ、社交的なんだろう?」

「いや。一人でいるのが好きみたいだし、女の子とは、あまり遊びたがらないらしい」

「いろんな、じんざいがひつようですから」紗由がこくんと頷いた。「充くんや、悠斗くんもいますから、おんなの子とあそべなくてもへいきです」

「心配いらんよ、有川。彼女たちのパワーで、何とかなる」

「ここはひとつ、さいおんじたもつたんていじむしょに、おまかせください」

「そうだね。“ここはひとつ”よろしく頼むよ、紗由ちゃん」

 有川は楽しそうに笑うと、紗由の頭を撫でた。

  *  *  *

 深刻な表情でため息をつく未那に、進はカモミールティーを差し出した。

「ありがとう」

「おまえのサーチがはじかれたんだな?」

「ええ」

「だが、その手の弾き方を知っているのは、師匠を同じうする人間だけのはずだ」

「だから…そういうことなんだと思う」

「心当たりがあるのか?」

「ええ。ほら、この前、話したでしょう、“塾”のこと。一緒にいた人と気配が似てたの。見た目の雰囲気は違ってたし、年齢がもっと上に見えたんだけど…」

「そいつの連絡先は知ってるのか?」

「いいえ。その人たち…兄弟なんだけど、あそこをクビになったの。塾自体もその後、すぐ解散になってしまったし、それ以降会ってないわ。

 ただ、3年前にね、あそこでお手伝いをしていた女性と街中でばったり会った時に、弟のほうに会って、だいぶ様子が変わってたって言ってた」

「その言い方だと、あまりいい方には変わってなかったみたいだな」

「彼女の表現を借りれば、“何かにとりつかれた感じ”」

「それはまた、穏やかじゃないな」

「うん…元々、塾で一緒だった頃から、熱心すぎて周囲が見えてない感じがしたのよね。

 叔父さんの整体にも、気功やってる武道家がよく来るらしいんだけど、いろんな宗派の気功をやった挙句に、ちょっと気が違ってきちゃう人がいるみたいなのよね。

 私が塾に通いだした時、叔父さんはすぐに私が気功やってるのをわかって、注意されたのよ。何か、まさしくそれに該当しそうな人っていうか…」

「いくつも習ってたのか、そいつらは」

「らしいわ。そのせいでクビになったのかなって、皆でうわさしてたんだけどね」

「ところで、3年前というと、四辻先生の事件のあたりか。妙なことに手を貸してないといいけどな」

「可能性ありよ。当時習っていたことだけじゃなくて、“石”の気配がした。でも何か妙な感じというか、“曲げられた石”みたいな…」

「“曲げられた石”か…。クビになった後にも、また別の誰かに師事したかもしれないな」

「大隅さんのメンバーを洗ったほうがいいわ。それと、廃嫡系の“命”も。お金で伝授したかもしれない」

「だが…もし、いろんな力を学んだ上で、“命”の力に目をつけたとして、効率的にその力を手に入れたいのなら、素人目には“石”よりは“写”だろう。いろんな力をコピーできる」

「…“石”でなければならない理由があるということかしら?」

「“石”の誰かに特別な思いがあるのかもしれない」

「先生自身に対してかも。妄信的な感じもあったし…。クビになった後も、道場の周りをうろうろしてたの。他のメンバーにも接触を試みてた。

 でも、私生活でメンバー同士は接触しないこと、近親者であっても講座終了までは詳細を他言しないことが、教えてもらうための条件だったから、私は断ったし、他の人たちもそうだったと思う。クビになりたくはなかったしね」

「そうだな。俺もあの頃はエクササイズに通ってるとしか聞いてなかったからな。で、そいつの場合は、可愛さ余って…というパターンだろうか。師を調べつくし、その本来の力を知って、それを得ようとした」

「あるかも。結局、その後しばらくして解散しちゃったけど、彼らにしてみたら、道場も封鎖して自分たちから逃げたと思ったかもしれないし」

「クビにした理由は、他の人間には説明されなかったのか?」

「ええ。自分を信用していない人間をおいてはおけないということはおっしゃったけど、それ以外、具体的なことは何も」

「解散前に何か目立つ事件があったというわけではないんだな」

「ええ。生徒側には特に何も。あえて言うなら、時期的に大きな出来事は先生側ね。その頃、跡取りが出来たわけだから…」

「なるほど…解散は約10年前だったな」進は天井を見上げて考え込んだ。

「それとね、この写真の中から感じた気配も似ている」未那は1枚の写真を差し出した。

「ああ、森本がいた店の前の喫茶店にいた不審者か」

「写真が不鮮明でわかりづらいんだけど、肝臓の色が似てるっていうか…」

「怒りの種類が同じ…か」

「華織さまにもお伝えしたほうがいいわよね。電話が通じないんだけど…」

「いや、しばらくつながらないだろう。充電期間だ」

 進は未那に微笑んだ

  *  *  *

「まあ。2週間見なかっただけなのに、大きくなったわねえ」

 華織がベビーカーから、ベビーベッドに移された聖人と真琴を覗き込みながら言う。

「もう、日に日に大きくなっている感じがします」微笑む玲香。

「ふふ。可愛いわね。お目目がくりくり。特に、まーくんは賢ちゃんの赤ちゃんの頃にそっくりだわ」

「みんなに言われるよ」にっこり笑う賢児。

「まーくんも、まこちゃんも、いい子でおねんねしていてね。ちょっと、パパとママを借りますよ」

 華織は双子たちに優しく話しかけると、賢児と玲香をリビングの可動式ドアを開け、続くダイニングへと招いた。そこには、すでに躍太郎と風馬夫妻が席についていた。

「いろいろと私に聞きたいことはあると思うけれど、まずは、賢ちゃんが私に会おうと思った理由を聞かせてちょうだい」

「この写真だよ」賢児は胸ポケットから例の“ラブレター”を取り出した。「親父の内閣の集合記念写真。でも、有川先生の姿が消されている。以前のように双子たちは質問に答えてくれなくなっちゃったからね。伯母さんに早めに確認したほうがいいと思った」

 一同が写真を覗きこむ。

「これはどこで?」風馬が尋ねた。

「友人の結婚式に伊勢まで行ったんだ。その時に、巫女さんから封筒を渡されて、その中身がこれ」

「伊勢の巫女さんか…」躍太郎が考え込む。

「どう思う、澪ちゃん?」

 華織が澪に写真を差し出し、尋ねると、澪はしばらく写真を眺め、言った。

「過去の気配が感じられません。大勢の人間の行き来ぐらいしか…」

「写真をいじった人間の気配もたどれない?」

「ええ。でも加工は、あまり上手ではありませんね。靴先も手先もちょっと残っています。

 それと、消したバックの部分がちょっと気になります。有川先生は最前列の右端。その後ろに半分いらっしゃる…環境大臣でしたっけ、この先生の左手の辺りが不自然です。手首から先は別人のものかも…何かを持っているように見えますけど」

「ええ、おっしゃる通りです」玲香が言う。「こちらは、その写真を拡大したものです。竹田先生の左手に握られているものが、羽童のような形に見えます。羽の部分がちょっと粗い気もしますけど」

「でも、色が黒いね」風馬が言う。

「本物の羽童なのかどうかまでは、この写真からはわかりません。

 でも、翔太が言っていたんです。何ヶ月か前に庭の影童が…正確には、影童用に作ってもらっている木彫り職人さんのところから、途中で3体盗まれたらしいんです。何か関係があるのかもしれません」

「シャレにならないな…。竹田先生の家は、かなり前に廃嫡状態で御役御免になってるはずだし」

「廃嫡の理由は何ですか?」玲香が尋ねる。

「“命”以外のシステムから力をコピーしようとしたからしいわ。私の祖母の時代のことだから、だいぶ前だし、保ちゃんの内閣に入るまで、竹田の名前なんて忘れていたけど」華織が答える。

「でも、さすがだね。西園寺内閣の身体検査は、“命”さま的にも済んでいるってことか」

 感心する賢児に、風馬が笑った。

「それはそうだよ。“私の保ちゃん”の一大事なんだから」

「全員シロだったわけじゃないわ。昼ドラみたいだったりもするし、危ない人もいるもの」

「でも、ブラックじみていても入閣に反対しなかったってことは、それなりに意味があるんだよね、母さん。…ん? 澪、どうした?」

 澪が難しい顔で写真を見つめているのに気づいた風馬が、華織が問いに答える前に尋ねた。華織は一瞬何か言いかけたが、それについては答えずに、澪に話を振る。

「澪ちゃん、何か気づいたことがあって?」

「写真のこちら側にいた人、わかりませんか?」

「こちら側って、取材陣とか、党のスタッフとか?」賢児が聞く。

「はい」澪がしっかりと頷く。「こちら側に、異様な気配を感じるんです。前に接触したことがあるかもしれない…。当時の取材VTRでも検証できるといいんですけど…できれば、翼くんの力も借りたいところです」

 そう言いながら澪は、この写真の手前の気配が、この前、哲也から見せられた写真の気配にも似てると感じていた。

「わかった。後で周子さんに連絡しておくね。でも、何か嫌な感じだよな。これじゃあ、まるで、竹田先生が有川先生を狙っていることを知らせようとしたみたいにも取れる」

「賢児さまは、竹田先生のことはよくご存知なんですか?」

「うーん。旧小宮山派だから、派閥議員のパーティーとか、年始の挨拶で会うけど、親父も個人的にはそんなに親しいわけじゃないと思うよ」

「でも、大臣に任命なさったんですよね?」澪が不思議そうに聞く。

「そういうものなんだよ、澪ちゃん」

 躍太郎がくすりと笑う。

「内閣は仲良しだけで固めるわけにもいかないし、同じ派閥でも、大きいところではその中でまた分かれていたりする。

 それに、各ジャンルのエクスパートを据えないといけないからね。よほど仲が悪くない限り、適材ならメンバーに入れるだろう」

「そういうものなんですか…」

「確かに、そういう意味では、竹田先生というのは環境研究のプロだしな。地方で高校の理事も務めてるし、元々は教師だったよね」賢児が頷いた。

「写真で他に怪しいところはないの?」風馬が澪に尋ねる。

「気配的にというより、画像処理的に気になるのは、ここ。最後列左端の先生の肩に当たっている光が」

「…ああ、これね」風馬が覗き込む。「後から加工して足してるな」

「じゃあ、澪ちゃん。後で、もう一度ゆっくり検証しておいてちょうだい。とりあえず、お食事にしましょうか」

 華織がそう言ってベルを鳴らすと、2人の使用人が隣の部屋から現れ、食事をサーブに取りかかった。

「ところでさ、小宮山先生と梨本先生って、どうして急に引退しちゃったの? それと森本も影を潜めているようだけど、どういうことなの」スープを飲み終えたところで、賢児が切り出した。

「ああ…あれはね、先生お二人に一日体験してもらったの」ふふふと笑う華織。

「一日体験?」

「そう。お二人は、自分が“命”になれるものならなりたいというお考えだったようだから、お望みを叶えて差し上げたのよ」

「そんなことできるの?」驚く賢児。

「私の見るものを、見せて差し上げただけ」

「お義母さまが“受け取っている”時の記憶を、先生方にも夢の中で一晩体験してもらったんです。映像を見て追体験する要領ですね」澪が補足する。

「それと先生方の引退は、どうつながるの?」

「想像よりもかなりハードだったから、びびって手を引いたっていうところかな」風馬が言う。

「ホラーとか、スプラッタとか、サイコスリラーとか、その手のものは苦手らしいわ」そう言うと、運ばれてきた前菜を口にする華織。「うーん、美味しい。澪ちゃんの作るテリーヌ、やっぱり大好き」

「ありがとうございます。今日はビーツと白身のお魚です」うれしそうに笑う澪。

「“弐の命”が受け取る映像は、人によってはかなりハードなものもある。しかも相当な頻度だからね。耐えられずにリタイアする人間も少なくない」淡々と言う躍太郎。

「先生方は、ご自分たちの精神力では伯母様のお仕事はこなせないと、ご自分で判断なさったんですね」玲香が言う。

「みたいだわ。梨本先生に、“匠くんが、そのお役目に就くようなことにならなくて、よかったですね”って言ったら、真っ青になっちゃうのよ。

 石を持っていることで、その可能性があるのかって、お聞きになるから、“力を悪用しようとする人がいれば、きちんと理解していただくためにも、仮任命なんてこともあるかもしれませんわね”って、釘を刺しておいたの」

「さすがの梨本先生も動揺しまくりだったよね。“匠にだけは手を出さないでくれ”って必死だった」風馬が思い出し笑いをする。「なのに、母さんてば、先生に“そうですわね。弟に手を出さないって約束していただけるのなら、考えないでもありません”って言うんだよ。先生がちょっと可哀想になっちゃったよ」

「あら。私だって、別に匠くんをどうこうなんて、考えてもいなかったわ。勝手に弱点さらけ出してきたわけだから、そこはきちんと使わないと」

「小宮山先生も、同様にホラーは苦手なタイプだったってこと?」

 賢児が尋ねると澪が答えた。

「小宮山先生のほうは、梨本先生よりも、受け取るビジョンが鮮烈だったと思います。一ヶ月間、開かれた親アメジストと一緒でしたので、それなりに力を開いた状態だったわけですから」

「梨本先生より、かなりリアルに体験できただろうね」風馬が言う。

「お望みなら、これから毎晩こういう感じになりますわって言ったのに、おうちを追い返されちゃったの。

 それで、その日のうちに、アメジストと羽童が送られてきて、翌日には引退発表よ。気が小さい人ね。よく一時でも総理大臣が務まったものだわ。一時は私に挑もうとしたくせに」

 つまらなそうに言う華織。

「母さんより心臓と気が強い人なんて、そうそういないよ」

「そうねえ。澪ちゃんの帰りがちょっと遅くなっただけで、オロオロして電話掛けて来る誰かさんとは違うわ」

「悪かったね」

 不機嫌そうにテリーヌを口に運ぶ風馬を、うれしそうに見つめる澪。

「でもまあ、正直、お二人とも自業自得ですよね。ご自分たちの野心のために、いろんな人を巻き込もうとしたわけですから。そのぐらいの思いはしていただかないと、きっとまた懲りずに似たようなことをなさったんじゃないでしょうか」玲香が難しい顔で言った。

「だよな…。で、森本のほうにも一日体験させてやったわけ?」

「いいえ。彼には、戻って来たアメジストと一緒に過ごしてもらったの。瞑想教室の一日体験というところかしら」

「どういった目的で、それを?」玲香が尋ねる。

「紗由が言ってたでしょう?“いいお父さん”をあげるって。受け取るための準備よ」

「うーん。わかるような、わからないような」首をかしげる賢児。

「小宮山先生が改心なされたところで、森本がそれを受け入れなければ、二人の関係性は何も変わりませんものね」

「小宮山先生が“命”への執心を改心できたら、いいお父さんになるとは限らないと思うけどなあ」賢児が言う。「三咲さんや子どもたちにしてきたことを反省するとは限らないよね。現に、今、あの二人は一緒じゃないんだろ」

「でも、賢児さま。森本自身が小宮山先生に、反省を促すような形で向き合う姿勢を作ることはできるかもしれません。

 そもそも、手下に徹していたということは、父親への憤怒噴飯、そういったものをきちんと表明していないんだと思いますし」

「そうか…要は、まず自分自身の気持ちと向かい合わせて、父親にそれを伝えること。そこが第一段階ということか…」

「まだ途中だけど、それぞれに段階を進んでいるんだよ。言いたいことも、きっとそのうち言えるようになる」風馬が言う。

「私、親に言いたいことを言えずにいた森本の気持ち、部分的にはわかります」澪が言う。「私もそうでしたから。機関の長としてのあの人には、私も母も何も言えなかった。何か言うことで、周囲をいろんな形で巻き込むのが“読めた”から…」

「澪…無理しなくていいよ。ここは、お前が嫌なことを思い出すための場じゃない」風馬はそう言うと、澪の手を優しく握った。

「ううん。大丈夫よ、風馬さん。今の私には風馬さんがいるし、少しぐらい思い出したって、何も怖くないもの」微笑む澪。「ただ…」

「何?」

「今の彼は、自分と向き合った直後で、しかも父親が野心から手を離したところで、少し落ち着いて遠巻きに状況を見ているところですけど、もしまた何かが起きたら、彼は父親を疑うはず。

 一度親に裏切られた子どもには、親を疑う習慣ができているから」

 悲しそうにうつむく澪。

「澪さん。“もし何かが起きたら”というのは、小宮山先生と森本の間でということかしら? それとも、政治的な局面で小宮山先生が再び力を及ぼそうと画策するということ?」

「…彼の記憶もたどりました。彼の中で父親はいつも政局と結びついた存在で、そのために母も妹も自分も、利用できる弾だっただけのこと。

 でも…父親が政治的に動いて誰かが傷つけば、自分たちがそれに加担したような気にもなるし、汚された気分にもなる。そんなことをせずに、一度でいいから、普通の父親として自分たちと向かい合って、詫びてほしいんです」

「うーん。まあ、そういう意味じゃあ、森本にはかなり同情の余地があるからなあ」

「でも、彼にはまだ、父親への憎しみと同時に、幸せな家庭というものに対する恨みが渦巻いているように思えます。同情はしても、油断はしないほうがいいと思います」澪が厳しい表情になる。

「そうだね。彼のようなタイプは、罪悪感を持ちながらも、裏腹のことをする危うさがある。小宮山先生の出方次第では、また同じ事を繰り返しそうだ」同意する躍太郎。

「じゃあ、当分皆で要注意ということで、メインディッシュでもいただきましょうか」

 華織が言うと、少し離れたところにあるベビーベッドから、双子たちの「あうー」という声が聞こえた。

  *  *  *

 華織の家から戻った賢児たちは、かねてからの疑問は半分クリアになったものの、どこか釈然としない様子だった。

「賢児さま。伯母様は、この子たちを何でお呼びになったんでしょう。しばらく遊んでくださったぐらいで、特に何かをなさったように思えなかったんですけど…」

「うん…聖人も真琴も、あえて言うなら、大人たちの話を聞いてたぐらいだよなあ…」

「あーうー」ベビーベッドから声がする。

「はいはい。今、行きますよ」小走りにベビーベッドへ近づく玲香。

「あらあら、まーくん、どうしたの? そんなにお目目をぎゅーっとつぶって」

 玲香が聖人を抱き上げてあやすと、聖人はぱっちり目を開け、玲香をジーと見つめて「あー」と声を出す。

「あら?」玲香が、聖人の靴下の辺りに何か違和感を感じ、一度聖人をベッドに寝かせると、その足元を確認した。

「賢児さま、これ…」

「どうした?」

「アンクレットです。アメジストが付いた」

「アメジスト?」賢児が真琴の足も確認した。「おい。まこにも付いてるぞ」

「何かお聞きになってます?」

「いや、何も…」

 二人がしばし考え込んでいると、玲香の携帯が鳴った。

「…メールです。翔太から。来週、探偵事務所の会議に呼ばれているから、こっちに来るって。まーくんとまこちゃんにも出て欲しいと紗由ちゃんが言っているそうですから、会場はうちになりそうだけど、よろしくって」

「二人に会議って言われてもなあ」苦笑する賢児。

「うー。あうー」真琴が声を出す。

「あら。まこちゃんは、やる気満々みたいですよ、賢児さま」

「あー。あー」

「お。聖人もか」

 賢児が覗き込んで頬を撫でると、聖人は嬉しそうに手をばたつかせた。

  *  *  *

「ねえ、たろちゃん。なんだか、いそがしくなりそうだねえ」

 太郎にペット用のクッキーを食べさせながら、話しかける紗由。

「あたらしいおともだち…どんな子かなあ。にいさまは、どうしてさっき、さゆのあたまのなか、のぞこうとしたんだろうね?」

「くぅーん」太郎が尻尾を振る。

「あたらしいおともだちのこと、しりたいのかなあ。だったら、おじさまにきけばいいのに」

 太郎がクッキーを催促するように、紗由の指をなめるが、前足ですでに2枚目のクッキーをつかんでいる。

「たろちゃんて、そういうとこ、にいさまにそっくり。こっそり、いろんなことして」

 紗由は太郎からクッキーを取り上げると、彼の頭をくしゃくしゃに撫で回した。

  *  *  *

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