■第2回江戸文化サロン「九品の追求―数寄屋造と御成門―」

「江戸文化サロン」が8月27日夜、東京・神保町区民館にて開催されました。2回目 となるこの日は「九品の追求―数寄屋造と御成門―」 のタイトルで行われ、予習課題を 果たした申し込み者16名が参加しました。

冒頭挨拶に立った当会理事 木川靜雄氏は、「双方向でいろいろなお話や交流ができれ ばいいなという思いで人数を絞り込みました。お顔がよく見える雰囲気で進めていきた い」と、このサロン設置の趣旨を述べられました。

前回基調講演を務めた当会顧問 西川壽麿氏(総合文化研究所代表)を主宰役に、ファ シリテーター(黒田裕治氏)の誘導で参加者の自己紹介や質問など織りまぜ、打ち解けた 和やかな雰囲気で進められました。

特に、前半の解説で紹介された築城時の算法(数学)能力のお話や、後半で語られた 「外国人に日本の住宅史を 40 分で説明する」設定での解説には、参加者から「眼から 鱗」の声が上がりました。

参加者からの熱気に満ちた感想が述べられたあと再び挨拶に立った木川氏は、「日本人 なのに、このように素晴らしい伝統なり文化がありながら、今までなぜ何処においても教 わることがなかったのか実に不思議です。日本文化についてもっと深く知りたいですし、 研究したいという気持ちが起こって来ます」と語り、今後の同サロンの活動に手応えを感 じている様子でした。

●この日の内容構成

「前回の復習」→「今後の予定」→「皆さまからの自己紹介(ファシリテーター:黒田 裕治氏)」→「『江戸図屏風』には何が描かれているか?」→「御成御門(御成門)には 何が彫られているのか」→「戦国大名・近世大名に不可欠な能力とは?」→〈休憩 10 分〉→「書院造と数寄屋造」→「外国人に日本の住宅史を 40 分で説明する」→「質疑応 答」→「参加者の感想」

※ なお、参加者の自己紹介、講師とのやりとりなどの部分は省略してあります。 また、文中の〈〉は、その場面の状況を描写しております。


第2回江戸文化サロン「九品の追求—数寄屋造と御成門—」 記録

講師(サロン主宰役):西川壽麿氏

◯プロフィール◯ シンクタンカー(文化,文化設計,文化戦略,地域づくり) 総合文化研究所代表,日本文化フォーラム代表,神保町シンクタンク座長

■今日の内容構成■

前回ご出席いただいた方、ちょっとお手を挙げていただけますか?〈2/3 ほどが手を挙 げる〉はい、ありがとうございます。前回の要約は、『かわら版』9 月号に掲載されま す。それからすでに「江戸城天守を再建する会」のホームページには、前回内容をテープ 起こしいたしました前半部分が載っておりますので、ご覧いただければと思います。

前回お越しいただけなかった方にも、今日はお楽しみいただけるように工夫しておりま すのでご安心ください。

今日は、次のような話題をお話ししたいと思っております。

「前回の復習」→「今後の予定」→「皆さまからの自己紹介」→「『江戸図屏風』には 何が描かれているか?」→「御成御門(御成門)には何が彫られているのか」→「戦国大 名・近世大名に不可欠な能力とは?」→〈休憩 10 分〉→「書院造と数寄屋造」→「外国 人に日本の住宅史を 40 分で説明する」→「質疑応答」→「参加者の感想」の順に、お時 間を見ながら適宜調整しながら進めてまいります。

■今後の予定■

まず、今後の予定をお話しします。もちろん皆さまからご要望があれば藤山寛美ではあ りませんがいくらでも差し替えるつもりではございますが、現在のところの予定は、次回 は 10 月 15 日「天海と寛永寺」、次々回が 12 月 3 日「徳川三代の人生」となっておりま す。いずれも水曜日です。

それでは、きょうからは双方向のやりとりですので、さっそく皆さまからの自己紹介を 頂戴してまいります。

いま「ファシリテーター」という職業が有りまして、いってみれば皆さんの本音トーク を上手く引き出しながらまとめていく司会者の国際版みたいなお仕事ですけれども、黒田 裕治さんにファシリテートしていただきながら、皆さんに自己紹介していただきます。で は黒田さん、お願いいたします。

■参加者自己紹介■

〈黒田裕治ファシリテーター〉

皆さんこんにちは、黒田と申します、よろしくお願いいたします。

「ファシリテーション」ということばは、まだ皆さん聞きなれないと思いますけれど も、司会者でもない、コメンテーターでもない、分かりにくい部分があります。簡単に言 えば「気持ち」について調整する仕事です。皆さん今日入ってこられた時にとりあえずお 面を付けて入ってくる訳ですね、それをとりあえず下げて、交流のしやすい雰囲気をつ くって行く、とりあえずそれがファシリテーション、それを行うのがファシリテーターで す。

自己紹介は緊張して長く喋ってしまう人が多いのですけども、次の 3 つのことだけを簡 単にお話ししてください。

それはいま西川先生がおっしゃたように、このあと双方向でいろいろ話をするときに名 前がわからないと進められないので、まずは、お名前を。例えば私の場合ですと「黒田裕 治です」と。

それから皆さんからなんと呼ばれたいか、小さいころ、幼稚園生とか小学生の頃、例え ば下の名前とかニックネームなどで「ひこニャン」とか、黒田裕治であれば「裕ちゃん」とか、「裕ちゃんこれはね」とか呼んでもらうと嬉しいとかそれを皆さんに話してもらい ます。

それから今の気持ちです。今ここに入ってきてこれから講座を聞く前の気持ちを簡単に 「わくわくしてます」とか「なんか緊張してます」とか「さっき食べたものが出てきそう です」とか「宿題やってない、どうしようか」とか...。

その3つをおよそ一人 1 分間ぐらいでお話しください。それでは早速そちらからお願い します。

〈※参加メンバーの自己紹介が始まりました。講師から糊つき付箋が配られ、参加者の記 名を集めてホワイトボードに貼り、横に各参加者のニックネームが書かれました。参加者 の方々の個人情報ともなるので、ここでは公開を控えますが、場の雰囲気が一気に和みました。〉

■『江戸図屏風』には何が描かれているか?■

〈西川講師〉 では「『江戸図屏風』には何が描かれているか?」という話題から入ります。なお、今日は屏風左隻だけを取り上げ、次回の「天海と寛永寺」のときに、上野や川越が書かれて いる右隻をもう一度眺めることにいたします。 〈『江戸図屏風』がスクリーンに投影される〉

まず屏風(左隻)の左端に「富士山」が描かれています。これがとても重要です。

この富士山が、ご城下にはもちろんですが、本丸「大広間」前の「能舞台」にどのよう に映りこみ、また天守はそこにどの様な気韻と品格を与えるのか、どのような能を演ずる つもりなのかということを、徳川三代それぞれが工夫したわけです。実際「富士山」とい う金春(こんぱる)・金剛(こんごう)流の脇能物がございまして、それが最初に舞われ るプログラム構成が好まれました。

そして、屏風右端には寛永度の天守が描かれています。ところで、家光が塀の外からこ の天守を見て「少し石垣が見え過ぎる。もうちょっと石垣を低くしたほうが良かったな」 と言ったとか。そのためいま東御苑のところにある天守台は若干低くなっているのではと の話もあります。現在東御苑にある天守台は、加賀藩主・前田綱紀(つなのり)が 16 歳 のとき担当し造ったものとして知られます。

似たようなエピソードとして、むかし桓武天皇が造営中の平安京の羅城門について「あ の門があと5寸(約 15 センチ)低いのが正しい」と語った件が浮かびます。

さて、「大手門」前のこのお屋敷は、前回の講演でご紹介した松平伊予守忠昌(福井藩 主)上屋敷ですが、このように門があります。これこそ正に「御成門」なんですね。黒塗 で金銀の装飾をほどこした華麗な門です。

前回も解説していますが、これは正確には「藩邸」と呼んではいけないものでして、い ま学校の教科書には江戸時代には「藩」がなかったということが普通に書かれています。 そしてそれは正しいのです。当時徳川幕府は公的に「藩」という名称は全く遣っておりま せん。「藩」という語を遣っていたのは江戸時代の儒学者たちでして、江戸時代幕府は 「藩」という言葉は全く遣っておりませんのでその点はよくご承知おきください。ですか らここも、「松平伊予守」の屋敷であって、「福井藩邸」というわけではなく、もしほか の領地に転封、つまり転勤になったとしてもこの屋敷はずっとこの「家」の屋敷としてそ の後もここに在るわけです。

なぜ「御成門」と言うか、それは事前にお調べ頂いたかと思いますが、殿が「御成り」 になるわけです。ここに訪ねて来るってわけです。「お前たちの屋敷に行くぞ」と。「御 成御門(おなりごもん)」あるいは「御成門(おなりもん)」とは、寺院や大名の家で、 宮家、摂家、将軍などを迎えるときに使用する門を言います。殿がおくぐりになる門です から、最高の格式と縁起と美を備えた門でなければなりません。

●上屋敷の接客用空間●

 さらに、こういうところに必ず能舞台があります。狭い敷地に、御成座敷は用意しなくてはいけない、能舞台も用意しなければいけない、茶室も用意しなければいけない。そう すると各お屋敷とも、非常に窮屈な設計となります。

 寛永9年に江戸幕府作事方大棟梁となった平内(へいのうち)政信が、少し前の慶長 13 年に書いた秘伝書『匠明(しょうめい)』には、当時の武家住宅の標準となる配置図 が載っております。東南の 1/4 の敷地が接客用空間に当てられています。東に面したやや 南側のところに「御成門」があり「中門」「広間」に入って、その「広間」前には「能舞 台」「楽屋」が在ります。そのほか「御成御殿」「書院」「クサリの間」...。この「クサ リの間」というのは、上から釣釜を掛けるための鎖(くさり)が下がっているお部屋で す。茶室の勝手に接続し、炉が切られておりまして、夏冬関係なく釣釜を使えるように なっています。そして、茶室である「スキヤ(数寄屋)」もレイアウトされています。

各家とも他に、中屋敷とか下屋敷の敷地を賜っておりますので、そちらは敷地も広いの で、もっと「数寄屋造」の建物がございます。

しかし、御成門が目立つこの屏風中の上屋敷も丹念に見てまいりますと、二階が数寄屋 風書院のものがあります。数寄屋風の屋根が幾つか見受けられます。

●平安京の都づくりと同じ● 

 そして、大手門のある道三堀近辺など「本町(ほんちょう)」と呼ばれるところは、平安京と同じく一町(いっちょう)を 40 丈(約 121.2m)四方に区画しています。道路幅 も日本橋通りは 6 丈(18.2m)となっています。家康としては平安京の都づくりと同じよ うな意識でスタートしていることがここからも窺えます。

●卯建(うだつ)が上がる● 

 屏風の左下の方に目を移しますと、町人地が描かれています。ここでは話題として、俗に「卯建(うだつ)が上がる」という言い回しの元となった火除けの壁が立っているのが 分かります。隣家との境に卯(う)の字形の防火壁(袖壁)をつけ、これを「卯建(うだ ち,うだつ)」と言います。

●別名「日暮門(ひぐらしもん)」● 

 目を屏風上方に転じますと、江戸城西の丸・吹上の上あたりに描かれているのは、尾張大納言上屋敷・水戸中納言上屋敷...と、御三家上屋敷が並んでいる状態になっています。 これはみな明暦の大火で消失し、移転させられることになります。

このあたりの御屋敷に描かれているのはまさに御成門で、ここにいろいろな彫り物が彫 られていました。街頭テレビよろしく、これを見て「あれはああだね、こうだね」と語り 合っている人達が描かれています。そうこうしている間に日が暮れてしまうと、別名「日 暮門」と言われました。

なお、江戸時代は桜田門および神田橋門に「御成門」という別称が付いていて、それは 芝の増上寺、上野の寛永寺参詣に行く時は必ずこの門から出入りしたからです。

●地下鉄「御成門」の由来は?● 

 ところで、現在の都営三田線の駅名でもある「御成門(おなりもん)」ですが、あれは芝増上寺の裏門の別称です。芝増上寺も徳川家菩提寺でしたから、将軍が詣でられるとき にこの裏門をくぐって来られるので「御成門」とも呼ばれるようになったわけです。

■御成御門(御成門)には何が彫られているのか?■

この屏風の絵だけではどういうものが彫ってあったのかということはわかりません。こ のあと、御成門にはどういうものが彫ってあったのかということを想像しながら、同時期 の門を見て行くことにいたします。

【二条城唐門】

 まず、「二条城」の「唐門(からもん)」をじっくり見てみましょう。 「唐門って何?」と外国人に訊かれたとします。日本建築における様式の一つです。この ように、上半が凸、下半が凹...というふうに反転する曲線となっている破風(はふ)を 「唐破風」と申します。例えばこれは「豊国神社」ですけども、正面から見ています。こ うなっている門を「向唐門」(むかいからもん)と言います。横から見てこうなっている 門は、「平唐門」(ひらからもん)です。

 二条城は、寛永三年(1626)の後水尾天皇の行幸にあたり、小堀遠州を作事奉行とし て大規模な修築工事が行われました。

ですから、外側には菊のご紋がこのように入っております。天皇が潜って行かれる門で すのでこうなるわけです。

では、いったい何が彫られているのでしょうか?

●胡蝶●

 はい、これは「蝶」です。日本では蝶は「胡蝶(こちょう)」という異名を用いて幾多 の作品があります。これを通して海外の方と様々な文化談義ができます。

道教始祖の一人とされる荘子(そうし)の、自分は蝶なのか人なのかと問う『胡蝶の 夢』という説話、宇多上皇が子供相撲のために作らせた雅楽『胡蝶(こちょう)』、源氏 物語 24 帖の表題も『胡蝶』です。そしてこれらの事柄をすべて文言に入れている能『胡 蝶』の話も関心を引くかも知れません。梅の枝に縁がないと悩む蝶の精が主人公の能で す。

●蓑亀● 

 こちらは「亀」です。亀はそれだけで縁起が良いのですが、この亀は緑藻が生えて蓑を羽織ったように見えるので「蓑亀(みのがめ)」というふうに呼んでおり一層の長寿を表 します。さらにこの亀の上に山があって松も生えており、海中の神山「蓬莱山(ほうらい さん)」を表しています。 〈中略:このあとも、「鶴」「龍」「虎」「唐獅子」などが紹介されました〉

●黄安仙人(盧敖)● 

 こちらは『盧敖(ろこう),黄安(こうあん)仙人』という方です。道教の思想を表しています。この方のエピソードをお伝えします。漢の武帝の時代といいますから紀元前 100 年前後の仙人です。大きさ3尺ぐらいの亀に乗っております。その亀は3千年に1度 首を出したと。そしていま首を出しているところです。そう、これはいま3千年に1度の シーンです。そして黄安は、今までにこの亀が5回首を出したところを見たと。はい、1 万5千歳ということになります。

【西本願寺の唐門】

 では、次に西本願寺の唐門を見てみましょう。大変立派ですね、ここは、最近の猫写真 ブームを彷彿させるように、大変に「唐獅子(からじし)」が多いことが特色です。

はい、先ずは「麒麟(きりん)」です。雄を「麒」、雌を「麟」と言います。聖天子の 治世に限って出現します。なぜか? 麒麟の角(つの)は、普段は肉で覆われており、相 手を傷つけない配慮があり「仁」の心を有するからです。剣で言えば峰打ちを心得ていま す。牛の尾、馬の蹄(ひづめ)を持ち、このように五色で彩られた体を持ちます。そこ で、質問が出ます。「ペガサスのように空を飛べるのか?」と。そうです、麒麟には翼も あります。空を飛びます。ただ、日頃から顔をよく見ておかないと、外国人たちをミスリ ードしがちです。なにが間違うかというと「龍」と顔がよく似ている点です。顔は非常に 「龍」に似ている。ただ、角が一本なので見分けが付きます。

●孔雀●

 次に行きますね。「孔雀」です。日本史の中では「日本書紀」にも記録がある鳥です。 推古天皇 6 年(598)新羅が孔雀一羽を天皇に貢献したことが記されています。日本に飛 来することもあります。それこそ、寛永期ごろから京の四条河原では、実物の孔雀が見世 物として人気を博したという記録もあります。

●唐獅子● 

 では「唐獅子」を紹介してまいりましょう。唐獅子というのは、外国からきた獅子の意味です。我が国の鹿や猪と区別するための名称です。安土桃山期から盛んに描かれるよう になりましたが、特に狩野永徳の「唐獅子図屏風」は有名ですね。

 とにかく、現在の猫ブームの原点はここにあったのではないかというぐらい、さまざま な唐獅子のパターンがこの門には彫られています。16 箇所に唐獅子が出てまいります。 これなんか、手塚治虫にヒントを与えたのではないかと思われるような絵柄です。

【陽明門】

 ではいよいよ日光の東照宮「陽明門」です。日光に行かれた方?〈参加者ほぼ全員が手 を挙げる〉

 それこそ「寛永度の天守」と人に語ったときに「日光の東照宮・陽明門のようなデザイ ンのものなの?」とたぶん皆さんも質問されたことがあるのではと思います。

これを見ておりますと日暮門なんてものではなく 2 泊 3 日でも足りないくらいかと思い ます。陽明門だけで、508 体の彫刻があるとのことですが、代表的なものを取り上げてま いります。皆さんの記憶をもう一度呼び起こしてみましょう。

●扁額● 

 まず「東照大権現」と神号が書かれた扁額がこのように門にあります。これは後水尾院による揮毫です。

●龍と息● 

 その下辺りに目を向けていただくと、早速ここで外国人に質問されて困るものが彫られています。このように上下組で正面向いて首を出しているのですが、これは上が「龍」で す。さて、問題はその下ですが「息」(いき)という想像の生き物です。これは突然この ようなものが出てきても全く何を説明して良いのか分からないと思いますが、一応「息」 (いき)という名前は付いているのです。

●鳳凰と龍馬●

そして、白いところが「鳳凰(ほうおう)」と「龍馬」(りゅうば)です。鳳凰は魔除けの役目です。 龍馬は、龍の顔に馬の胴体を持っている動物です。いずれも中国古代より守護神として用いられてきた架空の動物たちすなわち霊獣と呼ばれるものです。龍馬はこの陽明門にし か見られないもので、ここに 24 体おります。

●久しいかな、われまた夢に周公を見ず(論語)●

〈周公聴訴を描いた彫刻部分がスクリーンに投影される〉

さて、 陽明門には 156 人の人物彫刻があります。

中でもこの「周公(しゅうこう)」を描いたエピソードが目を引きます。「周公」と は、中国、周(西周)の政治家で、文王の子。名は旦(たん)と申します。兄の武王を助 けて殷(いん)を滅ぼし、その武王の死後、幼少の成王を支える摂政となり王族の反乱を鎮 圧しました。また、洛邑(洛陽)を建設するなど周王室の基礎を固めたほか、礼楽・制度 を定めたとされます。

孔子は周の文明を最も高く評価していて、論語には「子曰く、『甚だしいかな、わが衰 えたるや。久しいかな、われまた夢に周公を見ず』」とあります。周公は儒教で理想とさ れる「聖賢」の一人です。

これは、「握髪吐哺(あくはつとほ)」「周公聴訴(しゅうこうちょうそ)」と呼ばれる 有名なシーンを彫ったものです。「握髪吐哺(あくはつとほ)」とは、司馬遷の『史記』に 登場する、「訪問を受けたときは、洗髪の途中でもたびたびその髪を手に握ったまま出て 会い、また、いったん口に入れた食べ物でもそれを吐き出して会った」という周公にまつ わる故事です。「周公聴訴(しゅうこうちょうそ)」とは、正にこの彫刻が伝えようとす るエピソードです。中央に居るのが、髪を洗いながら訴えを聴いたと言われる周公、その 右側が訴人です。

日本は前回もご説明しましたように天智天皇のときに最初に学職(ふんやのつかさ)を 設け、その後の 701 年の大宝令において制定された大学寮「儒学科(のちの明経道)」の 教科書は『周易(しゅうえき)』『尚書(しょうしょ)』『周礼(しゅらい)』『儀礼 (ぎらい)』『礼記(らいき)』『毛詩(もうし)』『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしで ん)』『孝経(こうきょう)』『論語』と9部ありました。そうしたものを教養の基にし ております。いずれにしても文王・武王・周公という周(西周)の時代に詳しすぎて困る ことはないです。

例えば「雅楽」というのは、孔子は自分の生きていた時代の 700 年ほど前の文王・武王 の徳に満ちた御代の音曲を「雅楽」と名づけたものです。家光は寛永3年(1626)9 月の 自分の上洛時に新しくこの雅楽保護の制度を定めました。京都の御所に「御所楽人」を、 江戸城中には「紅葉山楽人(もみじやまがくにん)」を置き、宮廷儀式や江戸での幕府祭 祀、そしてこの日光東照宮での祭祀の折に演奏をさせています。

■戦国大名・近世大名に不可欠な能力とは?■

さて、ここで改めて「戦国大名」に必要な能力というものをまとめてみましょう。

先ず本人の「身体能力」ということが挙げられます。身体表現、武道、乗馬、能表現、 茶の湯などです。

そして「軍事力」。これは兵法、騎馬、鉄砲、具足(ぐそく)ですね。具足というのは 鎧のことです。いまでも「具足」とか「具足屋」さんとか、大阪に普通に苗字でそういう 方が居られますね。そして、間(かん)です。間(かん)と言うのは諜報員の使い方で す。 兵法についてですが、家康の場合、武田軍との戦いには懲りまして、1572 年 12 月 の三方原の戦では信玄に大敗し、馬に乗って馬任せに浜松城に逃げ帰ってくるわけです が、山岡荘八の小説では、馬の上で脱糞をしてしまうぐらいビビっていたと描写します。 実際、城に戻った家康は、すぐさま絵師を呼んで画を描かせ、これが現在、徳川美術館に 「徳川家康三方ヶ原戦役画像」、通称「顰(しかみ)像」として遺っています。

1575 年長篠の戦では家康・信長連合軍が勝頼の軍に大勝したわけですが、武田軍との 戦いを通じて、武田の武将たちが『孫子』はじめ幾つもの兵法を心得ていたことに感じ 入っていた家康は、武田の牢人たちを次々と召し抱えて行きます。

それから、「アート力」。これには、いま我々が想像する以上に強いこだわりと意欲が あり、旗、兜、数寄屋、茶器、絵師、屏風製作などに反映されています。

そして、「文芸教養力」。これは和歌、漢詩、有職故実、能などです。ここで実力を発 揮していた方が、寛永年間ですと、今日のウラのキーワードになります小堀遠州という方 ですね、藤堂高虎の娘婿にあたります。また、論語・神仏・禅などへの理解力もここに入 れておいて良いかもしれません。

そして、「歴史教養・分析力」と申しますか、今日でも国家戦略部署にはヒストリアン (歴史家)が不可欠ですが、当時も同様です。例えば、徳川家康は鎌倉幕府の公式記録 『吾妻鏡(あずまかがみ)』を愛読していました。そして自ら蒐集した書籍と黒田長政か ら贈られた北条氏直旧蔵本とを合わせて古活字版の出版までさせています。

次に取り上げたいのが、「数学能力」です。これは、兵力・税収把握、商業・貿易など に不可欠です。

更に関連しますが、「土木・作事技術力」これは築城・橋梁・鉱山開発などに不可欠で す。

また、「語学能力」も必要です。貿易・商業・外交などに不可欠です。対南蛮交易に於 いて遅れをとることはできませんでしたから。

加えて「近世大名」になりますと、領地は遠くにあるのに、大坂・江戸などに屋敷を構 えて天下人のそば近くで奉公することも求められます。秀吉の時代は朝鮮出兵にも参加さ せられ、一方で所領の施策もしなければいけないと大変でした。まちづくり(城下町)、 流通網(道路・海運)整備、商業・農業振興施策などの能力が問われます。

時代下って元和偃武、一国一城令は、そうした知行地基盤を、幕府も一緒に協力して体 制を作ろうというものでしたが、今度は「行政能力」がなければ容赦なく改易させられま す。

●算学は出世の道具● 

 そこで先ほど話題に出した「数学能力」の視点から眺めてみますと、特に戦国から織豊期は「算学」は出世の道具であり、江戸幕府開府後はさらに必要能力となりました。 不時に備えての築城・軍備のための土木工事と測量、資材・人夫の手配りや見積、兵糧 の手当、諸経費の会計・見積り、徴税など、計算能力がなければ確かな決断もできませ ん。前回の講演でも触れましたように、藤吉郎の出世物語の前半は特に彼のその側面の能力が見え隠れします。

●我が国、現存最古の算盤は?● 

 さて、そこで我が国現存最古の算盤(そろばん)というのをご紹介しますと、それは前田利家使用のものです。日本最古の算盤といわれ、縦 7cm、横 13cm の小型です。桁(け た)は銅線、玉は獣の骨でできています。前田利家が 1592 年、肥前名護屋城陣中で用い ていたとされるものです。

●秀吉より拝領の算盤か?●

ところが今年、1ヶ月前の 7 月 26 日「大阪日日新聞」に次のような記事が掲載されました。「『幻のそろばん』由来判明 秀吉が家臣に授ける」という見出しです。この算盤 は、銀製の中桁の片面には米の単位となる「石」「斗」「升」、反対面には重さの単位 「貫」「匁(もんめ)」など2種類の単位が記され、両面使用できるものだそうでして、両 面使用が可能なものは現存しない珍しいものとのことです。

大阪の老舗算盤メーカー「雲州堂」のコレクションとのことで、これまで由来が不明 だったけれども、古文書を調べてもらったところ、豊臣秀吉が九州平定(1587 年)後 「博多などで見事な都市設計をした久野四兵衛(ひさの・しべい)に対し、褒美として銀 の金具を使った唐木製算盤を授けていた」という記述が見つかったという記事です。

20 桁で、両面に単位が刻まれている 二重木箱は錠前付きで、表面には「四兵衛重勝拝 領算盤」の文字があるそうでして、「雲州堂」提供の写真が掲載されています。

これはこれからあの『黒田官兵衛』で描かれる九州攻めシーンの後の出来事ですネ。黒 田官兵衛の新たな領地となる博多などで見事な都市計画をした黒田官兵衛の家臣久野四兵 衛に、秀吉が褒美じゃといって取らした算盤、これがそれではと古文書で推論されるとい うニュースです。

●算盤を用いての工事風景●

〈『築城図屏風』の画像が映し出される〉

こちらは名古屋市博物館所蔵の愛知県指定文化財で『築城図屏風』と言われるもので す。これまで仮説としては 1607 年(慶長 12)駿府城を作った時の様子を表したものとされて来たのですが、駿府城の実際の縄張りと異なるので、違うお城の築城風景ではないか と昨今言われています。

〈しだいに画像を拡大していく〉 そこに描かれた光景を丹念に見てまいりますと、この ように盤を用いて工事を打ち合わせる光景が描かれています。

●前半のまとめ● 

 いずれにしてもこの時代、算法は非常に重要な能力でした。これはもういくら強調しても、し過ぎることはないです。 江戸時代、「規矩術(きくじゅつ)」といいまして非常に土木職人や大工さんが理系知識を身に付け、また「算法」「算盤」も前回ご紹介したベストセラー本『塵劫記(じんこ うき)』などを通じて大いに普及して行きます。

「夢をかたちに」というキャッチコピーを以前から使っておられるのは富士通ですが、 最初に御覧頂いた『江戸図屏風』からも、夢や願いをあの世で叶えるのではなくて現世で 叶えようという頼もしい気運がそこに満ちているのが窺えたと思います。

※ このあと休憩を挟んで後半へと続きました。ここまでお読みいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?