渋家が手元に戻ってきた話
2021年7月18日にいったん体制を解体した渋家。
Twitterから夏休みという名のほぼ休止状態になった。
南平台から初台に引っ越し、その後新宿らへんのエアビーをうろうろし
そのまま解体になった。2017年くらいに初期メンバーが運営から完全に離れて4年くらい経ったころだ。
今思えば渋家は2014年後半くらいから勢いは落ちていた。
売れるやつは売れていき、自分の仕事場や新しい住処、家族などを形成し
気づけば勢いのある奴なんてほぼいなくなっていた。
そんな中、新世代と呼ばれる上記の記事のメンバーに運営からすべて渡し
大がかりな世代交代をした。
最初は勢いがあったものの時代のながれ、コロナもあってなのか4年で解体、渋家の象徴でもあった「家」はなくなった。SNSなどは残っていたが活動自体は完全に衰退したといってもいいくらいなんもおきなくなった。
僕自身、会社の経営がなかなか忙しかったのもありその衰退を横目で
眺めつつなにか切ないというか諦めというか、とにかくふんわりとした「oh…」みたいな感情で見ていた。
そしていろんな人から
「渋家ってもうやんないの??」と聞かれるようになった。聞かれるたびに
僕は「どうしようかなと思ってる」みたいな曖昧な返答をしていた。
渋家が衰退していく中で僕に何か謎のフラストレーションがたまっていることに気づいた。最初はよくわからなかったが日を追うごとにそれはどうやら
渋家で味わっていた「カオスな空間、コミュニティ」なんじゃないかと思い始めた。現状、会社の経営もある中で自分がもう一度「家」を借りて渋家をやることはぶっちゃけ無理だなとフラストレーションためつつその感情を放置する方向で決めていた。でも着々とゆっくりと何かがたまっていくのは感じていた。
そんな中、変わらず東京でホームパーティー的なことをしたりどんちゃん騒ぎをするやつがいた。
元factory kyotoの松山(関西在住)である。
ここ自体はもう2016年に解体になってしまっているのだが
松山は終わってもずっと何かしらのコミュニティを続けていた。
続けていたというより、こういうのを続けないと死んでしまうタイプの人間である種呼吸をするようにやっていたんだろうなと思う。
ただ実際は相当きつかったらしく、東京でイベントをし、終わるとほぼうつ病みたいな感じになっていた。
僕はそんな松山の旅行企画みたいなのにきまぐれで参加した。
東京からマイクロバスを借り、そのまま熱海のホテルで泊まって
どんちゃん騒ぎのパーティーみたいな企画である。
これが、死ぬほど楽しかった。
たった1日だけだったが「カオスな空間、コミュニティ」みたいなものを感じることができた。その時の松山への感謝は下記に綴っている。
ここから1年、会社の忙しさもあり僕は松山の企画に参加できなくなる。
なんとかしてこういうことを続けていけないか悩みながらもできず相変わらずフラストレーションはたまっていく。
そして松山は関西から東京にきて企画をやっていたのもあり、呼吸をするような頻度で企画を打てずどんどん鬱っぽさが増していった。
そして2022年の夏ごろ、松山は限界に達しているように僕は感じた。
たぶんその限界は僕自身にも遅かれ早かれ来ていたとも思い
別件の関係ない相談したいこともあって僕は松山を東京に呼んだ。
そこで僕は松山に「東京にすんでこっちで企画やりまくってくれ」という説得をする。
さっきのnoteにも書いてあるのだが僕が楽しいコミュニティ運営、企画など基本的に儲からない。盛り上げるには自腹をきりまくるしかない。(参加費などをもらってないってことではない)その割に結構忙しい。
そのへんは松山もわかっていてそこに関してかなり不安を覚えていた気がする。
なので僕は松山をうちの会社で雇うことにする。
うちの会社が人手が若干足りてなかったのもあるが
感情だけで言えば松山に東京で企画をやりまくってほしかった。
自分が楽しいと思えることをやってほしかった。
松山は東京に住むことになった。
そしてどうせやるなら「渋家」でということで
僕、渋家立ち上げの斎藤けーた、松山で渋家を改めて始めることにした。
家はまだない。
これからまた借りるのかもわからない。
ただ僕にはカオスな緩いコミュニティが必要だ。
いろいろと言われているが僕は今も昔も渋家というコミュニティは個人的に必要だ。それは企画に参加してくれる人たちもそうなのかもしれない。
とにかくパーティーを続けたいのだ。
そんな渋家が手元に戻ってきた話。