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小難しさ、いらない

話す訓練をしなくても
聞く訓練をしなくても
書く訓練をしなくても
人は話せるし、聞くことができるし、書ける。

極めて当たり前のことでしょ?

でも、私には分からなかった。
ひょっとしたら忘れていたのかな。
先月地域で一般の方に講座をするまでは。最近の出来事の中で最も自分の愚かさを痛感したことであり、学んだことだ。

講師になってから無力さを恥じたり、良く見られようとして伝えよう、教えようとばかりしてきた。相手にその能力があると認めながら、より良いコミュニケーションを追求し、受講者のコミュニケーションを追及し、変化を追究してきた。普通のことはダメで、自分なりの工夫やエッジを効かせるよう努力してきた。しかしコロナ禍で仕事が無くなり、地域講座で話させてもらい一番感じたこと。

小難しさ、要らない

私が思うほど人生や生活は小難しくない。話す、聞く、書く、ふるまう、普通の生活をしていくのに必要なのは知識や技術ではない。

その場に適当にいることだ。
適度に周りに興味や関心を持つことだ。
何となく話したいことを話し、聞いていることだ。
すべて『ある程度』でいい。
望むレベルによって違うじゃないかと言われそうだが、そんなの当たり前だ。普通の生活や人生の中で、必死に聞き、話し、相手も自分も変容する必要なんてそんなにない。
相応にできる、それを体得するのが人生だ。
これに尽きる。普通の当たり前の人生を生きたい、そう在りたいと思うならね。 

自分にもヒトにも厳しすぎず、構いすぎない。自分の発言にも相手の発言にも、ある程度共感ができる。それが出来るのは、基本的に相手が自立していることを認めているからだ。相手の責任を相手に委ねられるからだ。
講座に来ていた人達の話す普通のことば、普通に聞く姿勢、普通に書く内容、最強だったな。
一般人最強、これは間違いない。

最近特に、コロナ禍で他人をジャッジしたいヒトが増えてきた。話す言葉じゃなく、打つ言葉で。
それは発言する場にいないヒトが、無責任に発言できる機会や道具を開発するヒトがいるからだろうな。用途が違うのにね。それを無責任に認めながら、飛び火しそうだと突き放すヒトもいる。ああ、めんどくさい。
確実にヒトがヒトを小難しくしている。

もう一度言う。
小難しさは要らない。
適度、適当、相応、普通でいい。