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北海道遠征3日目 ~小樽のまちに迫る~

行くぞ小樽!!!! (文責:2G)


9:03 小樽へGO

おはようございます! 北海道遠征3日目スタートです!
昨日は札幌のまちをこれでもかというほど味わい尽くしましたね.…
野球観戦に行ったメンバーもいるなど、各々ここまで充実した(し過ぎるくらい?)遠征にできているようです。わたしはもうフラフラです。

↓↓↓2日目の様子はこちらから↓↓↓

一行は本日の目的地である小樽へ向けて、函館本線の電車に乗り、札幌駅を発ちました!

10:05 小樽 着!

私は電車に乗り込んですぐ寝てしまい、気づいたら小樽に着いていました!
通ってきた路線は、小樽の歴史上重要な鉄道路線なので、解説を入れますね.…

☆道内初の鉄道区間

札幌から小樽までは、1880年に北海道で鉄道が最初に開通した区間(札幌~手宮)であり、国内で見てもかなり早い段階で整備された路線です。現在でも、札幌~南小樽間が函館本線として営業しており(我々も通って来た区間)、残りの南小樽~手宮間は廃線化、遊歩道として整備されています。

鉄道の開通が早かったということは、それだけ小樽というまちが重要だったという証。江戸時代から漁や交易の拠点であった小樽の港は、開拓使が置かれた札幌へ物資を供給し、道内の炭鉱から得られる石炭を送出するための拠点港に選ばれ、結果、明治から大正年間にかけて大いに発展することになります。
現在の小樽のまちは、港湾都市から転換し、観光都市として名をはせています。この転換に際し、どのようなまちづくりの変化があったのか、とても気になりますね。
本日は、小樽というまちの変遷を辿り、まちづくりの特徴を探ることを目標にします。

歴史を感じさせるレトロな内装
小樽駅舎 全景

小樽の玄関口、小樽駅。レトロな駅舎がまちを表現しているように見えます。駅前から海岸まで大通り(中央通り)がまっすぐ伸びており、そこを進めば小樽の顔、「小樽運河」まで直接行けます。ですが、さすがに勿体ない。もちろん寄り道していきます。
一行は通りに面したアーケードの中へ。

商店街へ寄り道

ここは「小樽都通り商店街」。北海道で2番目に古い歴史をもつアーケード商店街で、2021年に100周年を迎えました(ちなみに最古参は昨日訪れた札幌の狸小路商店街です)。
まるで時が止まったかのような昔ながらの雰囲気を感じながら、商店街を練り歩きます。午前中ということもあってか、大半のお店は閉まっており、人もまばらでした。せっかくの古き良き雰囲気も、寂しく映ってしまいます。地方都市の商店街、さすがに苦戦しているのでしょうか。

10:25 北のウォール街!

都通り商店街を抜け、日銀通りと呼ばれる通りに出ました。この通りを南下し、海に向かっていきます。

日銀通りを進む

この「日銀通り」は、その名前に違わず、かつて日本銀行の支店をはじめ、金融機関が集積していました。現在では、その銀行の建物が資料館や美術館などの形で残され、往時の銀行街の様子を伝えています。

☆かつては金融のまち、今は観光のまち

小樽港が北海道の物流の要として機能し始めてから、それに付随する金回りを支えるための金融業も発展したのです。多くの銀行が立ち並んだ通りは「北のウォール街」と形容され、明治から大正にかけて、金融のまちとして隆盛を築いた姿を象徴していました。その後、小樽を中心とした海運の重要性が薄れると、銀行の撤退が相次ぎ、金融業も縮退。金融都市・小樽の立場は失われてしまいました。
しかし、歴史のある絢爛豪華な銀行の建物はそのまま残されました。ここに希望の光を見出したようです。市民の動きによって(後述)、小樽運河とともに「北のウォール街」の街並みが保存されると、徐々に観光の拠点として知名度を上げ、現在のように多くの人々が訪れるエリアとなりました。
小樽が物流の拠点から観光都市へ転換することができた、大きな要因の一つといえます。観光を主軸に置き、街並みを保全するまちづくりの成果を見ることができました。

旧日本銀行小樽支店(金融資料館)
辰野金吾らが設計
旧第一銀行小樽支店
田辺淳吉らが設計
旧北海道拓殖銀行小樽支店(似鳥美術館)
矢橋賢吉らが設計

11:26 小樽運河!

日銀通りを抜けると、いよいよ小樽運河が見えてきました!

観光客でいっぱい

やっぱりここに来ると、小樽に来たなぁ~という実感が湧くような気がしますよね。小樽観光とは切っても切り離せない場所です。ちなみに、2023年は小樽運河完成から100周年のメモリアルイヤーだったようです。

1世紀という歴史を誇る小樽運河を、我々としけんは”観光スポット”では済ませません。小樽の”まちづくり”という視点から、この場所を眺めてみましょう。

☆小樽運河の本来の役割

小樽が港湾都市として栄えていた時代、大型の船舶は水深の浅い港湾部に入れなかったため、沖合で”はしけ”と呼ばれる平底の船舶に貨物を積み替えて、陸地まで送り届けていました。小樽運河は、その”はしけ”(艀)を倉庫の近くまで通すための水路として整備されました。船と倉庫を”はしけ”を介して最短で結ぶ運河の整備によって、輸送の効率化を図っています。港湾都市としてのまちづくりの一環だったのですね。
運河の完成後、小樽港は最盛期を迎えます。1925年には、沖合の船と運河を行き交う”はしけ”が約600隻、沖仲仕と呼ばれた港湾労働者は1300人以上にも及んだとされています。

☆運河の価値の低下&小樽の衰退

そんな小樽運河の隆盛の時期も長くは続きませんでした。
小樽港の沖合に埠頭が建設されると、船舶はそこに接岸して直接貨物の積み下ろしを行うようになり、”はしけ”の出番が激減。小樽運河は役割を失い、1930年代半ばごろから既に「無用の長物」となってしまいました。
そして戦後に入ると、小樽港そのものの重要性が低下していきます。石炭から石油へのエネルギー転換に伴い、小樽港を拠点とする石炭輸送の需要が低下し、そして苫小牧をはじめとする他都市の港湾施設の整備が進んだことで、小樽港の利用が低迷したためです。海運中心の産業が斜陽化した小樽のまちでは、自動車による物流の整備に注目が集まりました。当時はモータリゼーション真っ只中。日本各地で自動車輸送を中心としたまちづくりの機運が高まっていました。小樽も例外でなく、車中心のまちづくりを行う方針を定め、まちの再興を目指します。その施策の一つとして計画された、港湾部の片側3車線の幹線道路の整備計画において、無用の長物と化していた小樽運河を埋め立てて用地をねん出する案が浮上し、これが1966年に都市計画で決定されます。

☆運河の危機に立ち上がる市民

この決定に対し、「運河が無くなれば、港湾都市として栄えた小樽の歴史は無に帰してしまう」と、数多くの小樽市民が反対の声をあげました。
運河の埋め立て計画が行政主導で進む中、1973年に市民主導で「小樽運河を守る会」が立ち上げられると、以後十数年にも及ぶ行政と市民の戦いが始まります。

「小樽運河を守る会」の資料
小樽日本遺産地域プロデューサー育成セミナーHPより
https://otaru-heartpro.jp/

行政は、市議会や商工会議所、港湾業者という強力なバックボーンを基に、小樽運河の埋め立てを推進していきました。一方の市民も、10万人
を超える埋め立て反対署名を集めるなど、運河の保全活動を徐々に拡大していき、全国的にも知られるようになりました。
この活動の注目すべき点は、運河をはじめとする歴史遺産を守り、それを生かした小樽独自のまちづくりを目指すという、運河の保全だけでなく、その先のまちづくりを見据えた活動であったことです。「無用の長物」だった小樽運河をはじめとする数多くの遺産は、市民にとっては小樽のまちの隆盛を思わせる大切な場所であり、決して不要なものではなかったのです。
「歴史を守り、それを生かしてまちを再興する」という市民の熱意は、徐々に埋め立てありきの情勢を変え、最終的に運河の半分を保存するという折衷案にこぎつけました。1986年に運河一帯の整備が完了し、運河の周囲の風景も保存されました。埋め立てを完全に阻止することはかなわなかったものの、市民が心の拠り所としていた風景は守られ、のちに行政の考え方をも改めることになります。

☆運河整備を契機に、市民の声が生きる観光都市へ

運河整備以後、小樽のまちは観光都市に舵を切り替え、復活していきます。市民の声を聞き、考えを改めた行政は、先陣を切って街並み保全の条例を定め、市民が訴えてきた「歴史を守り、それを生かしたまちの再興」を、運河をはじめとする遺産を観光地として整備・保全する、観光まちづくりの形で体現していきます。
市民と行政の足並みがそろうと、歯車がかみ合い出します。小樽運河以外にも、銀行街や商店街、廃線跡など、小樽の発展を見守ってきた財産を、市民の声をもとに保全し、レトロなまちの雰囲気を創り出していきました。こうしてまち全体で創られた「小樽の世界観」は人々にエキゾチックな印象を与え、徐々に観光地としての認知度を高めていきました。そして現在にかけて、年間800万人を超える観光客が訪れるまでに成長し、観光都市・小樽はその地位を確固たるものにしたのです。

☆小樽運河と小樽のまちづくりの関係

以上の内容をまとめると、小樽運河は小樽のまちづくりにおいて、以下のように影響を与えていることがわかります。

  • 港湾都市・小樽を支える運河として建設(港湾機能を主眼に置いたまちづくり)

  • すぐに利用機会を失い、無用の長物化。小樽港の低迷の末、道路建設のため埋め立て計画が浮上(モータリゼーションを意識し、経済性を求めたまちづくり)

  • 市民による反対活動によって北半分が保存される(行政主導のまちづくりに対する、市民の抵抗)

  • 運河保存を契機とする、歴史遺産を生かした観光まちづくりが奏功、現在に至る(市民と行政が足並みを揃えた観光まちづくり)

このようになります。
小樽運河が保存されたこと、小樽のまちが観光都市として再興したこと、どちらにおいても市民の尽力が最大の要因だったというのが注目すべきところです。
高度経済成長期において、日本全国で経済性を求めた画一的なまちづくりが行われる中、その流れに負けじと、市民が自らのまちの魅力(歴史)を認識し、魅力を伸ばすスタイルのまちづくりの価値に注目したことで、運河の保存、そして行政と足並みを揃えた観光まちづくりを実現したのです。
現代日本においては、地域の魅力を伸ばす、地域住民主体のまちづくりの重要性が叫ばれています。このようなまちづくりの形が早期に実現されていたことには、目を見張るものがあるでしょう。
そして、この小樽独自のまちづくりの契機となった場所が、まさにこの小樽運河なのです。

名実ともに「小樽の顔」だ

ただ雰囲気がオシャレなだけじゃない。この運河をきっかけに、小樽のまちの在り方が大きく変化したということを知ってもらいたいですね。

11:51 旧手宮線跡!

運河周辺の遺産も見つつ、小樽駅に戻ります。

旧大家倉庫
なかなかの存在感

小樽運河を離れてしばらく歩いていると、廃線跡を発見しました!

唐突に現れた

しかも、どうやら遊歩道が整備されていて、普通に歩けるようです.…
行ってみましょう。

鉄分をチャージ!

こちらの廃線遊歩道、元々は国鉄手宮線という鉄道路線でした。冒頭に話した「北海道最初の鉄道開通区間」の、小樽側の末端部です。現在の南小樽駅から海に向かって線路を伸ばし、手宮駅で終点となっています。その一部は遊歩道として整備されています。

Google map を用いて作成
オレンジが旧手宮線、緑は函館本線

北海道最初の鉄道路線として、手宮~札幌の区間が「官営幌内鉄道」として1880年に開業。お雇い外国人のジョセフ・U・クロフォードの指導の下、着工からわずか11か月で開業したという異例のスピードでの開通となっています。その2年後には、札幌~幌内間が開通。空知地方で産出される石炭を鉄路で輸送し、手宮で船舶に積み替えるというルートが確立されました。

小樽市HPより
https://www.city.otaru.lg.jp/docs/2020111400153/

その後、1906年に国有化されて「国鉄手宮線」となり、貨物線として活躍しましたが、小樽港の低迷に伴ってこちらも1985年に廃止されました。廃線後、その跡地の利活用について市民と行政が話し合いを重ね、2016年に遊歩道が開放されました。

ここでも「歴史を守り、それを生かしたまちの再興」を果たす、観光まちづくりの成果が表れています。

近代化産業遺産にも指定されている


12:16 小樽駅着! 解散!

さあ、いよいよ小樽FWも終わりです。2時間少々の散策でしたが、小樽というまちの移り変わりを感じることができたのではないでしょうか。

物流の拠点である港湾都市から、現在の観光都市としての姿に至るまで、市民による相当の努力がなされてきたことと思います。我々が小樽のまちを巡って楽しむことができるのも、市民の尽力があってこそなのです。まちの命運を握るのは、やはり市民のまちに対する思いの強さ、なのでしょうかね。
小樽というまちがただの観光都市ではなく、市民の力で衰退からのし上がってきた、力強いまちであることを実感しました。

小樽駅も登録有形文化財、歴史のある建物だ

この後、メンバーは解散し、帰りの仙台行きフェリーの時間まで思い思いの時間を過ごしました。

小樽駅のすぐそばにある三角市場


らーめん 西や こってり味噌らーめん
やっぱ味噌バターだべ
船見坂
坂が多い小樽の地形を実感(15%!?)

19:00 苫小牧港 発!

小樽から札幌を経由して苫小牧へ。太平洋フェリーに乗船し、仙台へと帰ります。名残惜しいですが、北の大地とはお別れ。
3日間という短い時間ながらも、個性豊かな”まち”の姿を楽しむことができました!そして、まちづくりという目線から、いろいろな都市がどのような道を辿ってきたのかを探ることができた、としけん的にとても充実した遠征になったのではないかと思います。

翌10:00 仙台港 着! 

2023夏の北海道遠征、これにて完結!!!


参考文献







(番外編)前日22:37 深夜の積丹ドライブ

実は3日目の行動は2日目の深夜から始まっていた。(どういうこと)
エスコンフィールドでの野球観戦から札幌に戻ってきた私に、部員Iから深夜ドライブのお誘いが届いたのだ。テンションが高めだったため、あれよあれよと話が進み、気づけばレンタカーを予約していた。

余力ありすぎで怖いです
な阪関無

目指すは「神威岬」。積丹半島の東の果ての地で、「シャコタンブルー」と称される美しい日本海を拝むのだ。
目的地はすすきのから約100km。高速で約2時間だから、日の出を5時半ごろに拝み、8時ごろには札幌に戻れる。そしてそのまま3日目の活動にダイブできるだろう、と考えていた。

Google mapより

私はすすきののホテルを後にし、車を待った。深夜になっても、すすきのの街は眠らない。郷に入っては郷に従え、遠征の夜を楽しもうじゃないか。
車がやってきた。昨晩、北大のクラーク像前で別れた体力お化け二人が乗っている。彼らは私がエスコンで試合を観ている間、高級すし屋で舌鼓を打っていたらしい。車内に乗り込み、夜のすすきのに別れを告げる。
元々少なかった(当たり前)車通りも、国道5号に入り、札幌市街を抜けるとほぼ無くなった。

(番外編)3:03 神威岬着…しかし

一行は、小樽、余市、古平、積丹と、次々と市街地を通過し(だんだん街の規模も縮小していった…)、神威岬まで問題なく到着。

しかし、ここで想定外の問題が発生。

なんと神威岬に通じる唯一のアクセス道路が閉鎖されていたのであった。
夜間はゲートが閉じていて、朝8:00にならないと開かないということだった。仕方なく神威岬を諦め、来た道を戻って積丹町の黄金岬で日の出を拝むことに。

ふと空を見上げると、壮大な星空が広がっていた。

写真だと伝わらないが、天の川銀河がハッキリわかるほどによく見えた

遠征の最大瞬間風速をマーク。
こんな素晴らしい星空は、もう一生見られないんじゃないかと思う。
流れ星も20個以上観測した。煩悩まみれな私は何度も星に願いを託した。
人里離れた海岸、天体観測にはオススメだ。

天然のプラネタリウムに目を奪われていると、朝の足音が近づいていた。車を動かし、日の出の時刻に合わせて黄金岬に到着。
既に海はシャコタンブルーに染まりだしていた。

(番外編)5:23 日の出

おはよ

シャコタンブルーを貫く黄金色の陽光が、筆舌しがたいほどに神秘的だった。

贅沢な日の出を拝んだ後は、札幌にとんぼ返り。
札幌駅に9時集合。車を返し、ホテルのチェックアウトもしなければならない。写真撮影もそこそこに、帰路へとついた。

途中、北海道が誇るコンビニ、セイコーマートで朝飯にしたのだが、とんでもない安さだった。道民がうらやましい。

100円パスタ コスパ最強すぎて感涙

恐れていた渋滞はなく、すすきのには8時半ごろに到着。無事、札幌駅に時間通りに集まることができた。

皆はぐっすり眠り2日目の疲れを癒してやって来たのだろうが、こちらは深夜33時の体である。もうフラフラですよ.…

(このページの先頭へ続く)



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