東京五輪

教科書で1964年のオリンピックを見て、漠然とめちゃくちゃ盛り上がってる国中の姿を想像していたのが良くなかったのかもしれないし、
コロナが無かったら2020の東京五輪も同じように盛り上がったのかもしれない。

たらればはさて置き、
結果的に全然盛り上がらなかったし、むしろグダグダだったと思う東京五輪、(これからパラリンピックだけどオリンピックが閉会式なのも当日知ったレベル)リアルタイムに個人的に感じたことを記録しておきたいなと思う。

まず、大きい組織は組織の内外両面で求心力を持てないんだな という事を一番強く感じた。
オリンピックほどなら、誰もが一致団結して最高の日本を見せつけたい心意気で動くのだと思ってた。
結果、企画者側でも割れ、見守る大衆も批判ばかり言って、引きずり降ろしたり降ろされたり。開会式と閉会式に感動は無かった。
「昭和の発展を支えた自己中心的業界文化」と「不満を無責任に叫べる便利さだけ得た大衆」の相性の悪さが目立った結果なのだと思う。
大手広告代理店や過去首相が自分の名誉優先で動いた事でメンバーにいたアーティストを潰した。
もうオリンピックという国を挙げてのお祭り・事業でさえも、我々は何も満たされないんだと感じた。
それは「自分の愉しみは自分でつくれ」と明確に言われた気がした。(そんな予感がしてて、既に金沢で自分なりのイベントを起こした訳だけど。)

そして、オリンピック実施に伴う負担は都民や国民に請求される。年金みたいな社会構造上発生する負担も捌けない国なので、当然と受け止める事もできるが、勝手に受注して勝手にコケたイベントのお金も請求されるのはたまらないなと思う。

文句を言わず、娯楽も生活資金も自分で用意できるように工夫は試みるけど、国とは何なの?何のためにあるの?と思ってしまう。
2020年の東京五輪と同時期をターゲットに走らせた真逆の試み(金沢での住宅づくり)は、めでたく身近な仲間の協力だけで、金沢の業者では実現不可な品質で新しい暮らしを提唱するスタートを切れたと思ってる。
それをきっかけに東京から遠隔で金沢にご近所さんをつくることも出来ている。祭りでなく日常の尊さも強く感じる。
そういう「共同体が出来た感触」と「共同体が崩れる感触」が同時に発生した時に、"個人が時間やお金を捧げるに値する対象"というのは「身近な仲間」であって、国ではないんだなという結論になってしまう。
悲しい感想だが、今は素直にそう感じる。

また、競技の内容から感じた事として、
国同士の競争に対して全然盛り上がらないという事を感じた。
(あまりちゃんと競技を見ていないが。。)「日本頑張れ!」という気持ちが沸き上がった記憶が無い。代わりに、「この人素敵だ!」と感じた記憶はある。
この見方で競技を見ていると、伝統的な競技よりも、新たに加わったBMXやスケートボードに胸を打たれた。
点数でなく、競技の魅力自体を伝えようとする選手の心意気と、それを称える他国の選手達の姿に、今我々が地球で示すべき態度が詰まっているような気がした。(具体的には女子スケートボードでメダルを逃した岡本選手、BMX女子で優勝したイギリスの選手に感じた。)
ここに感動するというのは前述の”国の崩壊・個人ベースの共同体”の話とも繋がると思う。

総じて、
・自分で生きていくための最低限の稼ぎ方
・人生の満足度を高めるための娯楽
これら両方について、自分で保証できる方法を考えないといけないなと感じた。
このタイミングで東京でなく地方都市、組織でなく個人で、暮らしに関する作品をつくり、それを起点にコミュニティ創出を包括するアウトプットができていてよかった。
それが無かったら、オリンピックは国に裏切られたような謎の喪失感に襲われて終わりだった。
これから地方の暮らしについての解像度を上げ、具体的なアウトプットを増やしていきたい。