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出て来る言葉 モノクロ手焼きプリント#14

他にもいろいろ書きかけの投稿があったのだが、ちょっと思ったことがあったので中断して内容を変えている。
あまり深い意味はない内容なのだが、しかし何だか書きたくなってしまったので仕方がない。

とりあえず何があったかを簡単に言えば「そうする必要もないのに他人にわざわざつっかかる人ってどんな人なんだろう」と気になった話。
私がnoteをフォローしている方に、毎回示唆に富む素晴らしい内容を投稿されている方がいて、ある投稿もソクラテス的対話のような、哲学的な要素も含む個人的にはとても面白い内容だった。
いつもはわざわざ見る事はないのだが、たまたまその投稿のコメント欄を見てみると(おそらく)否定的なニュアンスを込めた頓珍漢なコメント書いている方がいた。「ちゃんと読んだならその感想は多分出ない」という頓珍漢な内容だったので、まぁおそらくちゃんと読んではいないと信じているのだが、しかし世の中にはそういった人がいるのだなぁと思ってしまう。そして実はそういった人が多数を占めているからこそ、日本は肩身の狭い世の中になっているのだと思うが。

そして、「じゃあこの人は普段どんな言葉を語っているのだろうか」とふと好奇心が生まれる。人にわざわざ頓珍漢な嫌味を言う人なのだから、普段の言葉も頓珍漢な嫌味に溢れているのだろうか、などと邪推してしまう。しかしその人のnoteには比較的耳障りのいい言葉が並んでいた。「心の洗濯」という言葉も使っていたのだが、洗濯槽の洗浄を10年ぐらいやってないまま洗濯しているのだろうなと思ってしまった。

洗濯槽がカビだらけなのはどうでもいいとして、思ったのはnoteやブログでどれだけそれっぽい事を書いたとしても、「自分は本当にその言葉に見合った人間なのか?」と常に問わなければならないなという事。
写真を撮るにしても、文章を撮るにしても、基本は真似をする事にある。写真なら写真集や雑誌、ネットなどで作品を見て真似をするし、物書きなら好きな小説だったりエッセイだったりを真似して自分のスタイルを確立していく。
しかしそれを真似してそれっぽい文章を書いたとして、じゃあそれが本当に自分に見合っているのか、というのは常に客観的に見る必要があるな、と。
真似をするのは大事だが、核にある部分は自分の言葉でないとちぐはぐな文章になってしまうのだろう。
まぁ完璧な人間なんていないし、「そうありたい」という意味を込めて文章を書くこともあるのでそれはそれでいいし、こうして私が書いているのもまた意味のないことでもある。


camera : LEICA M2
lens : Carl Zeiss planar 50mm F2 ZM
film : MARIX400
paper : Ilford MGRC


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