ダジャレが楽しい
現在42歳。
加齢のためだろう。最近ダジャレをつい口にしてしまう。よく人に指摘される。こんなにダジャレを口にしてたっけと。
自覚はある。前頭葉のブレーキがかからなくなっているのだ。側頭連合野は活性化し、連想記憶の能力は高まっているから、厄介だ。
思いついた後、言った後に達成感を感じる。ダジャレを口走った後、脳のどこかが光ってるのは快楽を感じている証拠、と言う趣旨の実験をテレビで見て、心底恥ずかしくなった。きっと私の脳も赤々と光っているのだろう。逆に誰かがダジャレを言って、赤々光っているのが見えたら、それはそれで面白い気がする。
本来ダジャレというのは、言葉を使ったクリエティブな遊びであり、明るい性格や、頭の柔らかさを証明できる。
そう思わないでもないが、そんなにポジティブに受け止めてくれる人はいないだろう。そんなことを期待して、日々ダジャレを口にしているわけではない。この歳になってくると、恥ずかしさよりも、思いついたことを言う刹那の快楽が勝るのだ。
だが、もちろん私も誰彼ところ構わずのたまうわけではない。TPOも多少わきまえているし、葬式のような深刻な場でダジャレは言わない(本当は言いたいが)。そういえば昔、友達の岡くんが葬式で何かジョークを言っていて、ちょっと尊敬したが、心底呆れた覚えがある。TPOは大事だ。
ただ、ダジャレを言うダジャラーたちには、ヒエラルキーがあると思う。ダジャレ有段者(上手いと言う意味ではない)は、人の反応を気にしない。人の目を気にしているレベルではダジャレ強者ではない。だから、中級者以下の自覚がある人は自然とTPOを弁える、とも言える。
私がダジャレを言うのは、仲が良い人、笑ってくれる人、突っ込んでくれる人、捌いてくれる人がいる時に限る。コミュニケーションの一環だと思っているからだ。親しくもない人に、いきなりダジャレは言わない。
ただ問題は、仲が良い人の場合だ。仲が良いというのは、ダジャレに対して寛容、という意味ではない。仲が良くても、ダジャレに厳しい人はいっぱいいる。ダジャレは常に絶対評価であり、おじさん達は押し並べて皆、一家言あるダジャレ批評家だ。他人が何と言おうと、自分なりの評価基準がある。
私の統計上だと、私と同年代かそれより上の男性が一番ダジャレに対して反応が大きい。またダジャレに対して、一番冷淡な反応をするのも、意外とこの層だったりする。思いついていたけど敢えて言わなかったのに、と良く言われる。ひょっとして羨ましいのだろうか。強い拒否反応をみるにつれ、本当は貴方もダジャレを言いたいのでは?と勘ぐってしまう。
かく言う私も、かつてはダジャレに対しては冷たい時期があった。
那由多という友達の女の子がいて、彼女のダジャレには悩まされた。仲が良かったので、しょっちゅう彼女のダジャレを聞かされていたのだ。ダジャレを言うのは誰じゃ、と言うレベルのダジャレを頻繁に口にしていた。高校生の頃からの筋金入りのダジャラーだった。
私は彼女の捻りのなさにうんざりしていた。ダジャレを思いついた時、少しでいいから我慢してほしい。それを発言する前に、一瞬でも良いから推敲してほしい。もっとマシな言い方があるはずなのだ。だが、彼女は根が素直なためか、畑の野菜をそのまま食卓に上げてしまうように、ダジャレを口にした。鮮度が命だと思っていたのだろうか?
彼女のダジャレには閉口していたが、しかし、おそらく羨ましくもあったのだろう。彼女の天真爛漫さ、回転の良さ、へこたれなさ、何よりダジャレを言っても許される立場に。
やがて加齢とともに、私も彼女の後を追いかけることになる。近年はいよいよ体重とともに、ダジャレの頻度も増加傾向にある。
私がずっと後悔しているダジャレが一つある。
ピアニストのトウヤマタケオさんとライブをした時のこと。これから家族の待つニューヨークに行くんだと言われ、咄嗟に
「じゃあ、向こうに着いたらゆっくり入浴するんですね」
と返してしまった。当然苦笑いされた。つまらない返し方だったな、と猛省している。
せめて
「じゃあ、向こうに着いたらゆっくりお風呂にでも浸かってください」
とか、少しだけ捻りを加えるべきだった。
洗い流したい過去だ。
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