町はぼくらのもの|1985年のまちづくり宣言

この前の連休、ぼくは大阪への一人旅を経験した。「うわっ、かっこいい」というのが第一印象だった。道路のそばにぽつぽつと木が植えてあるくらいで、緑なんてほとんど無かったが、きたない町だなんて全然思わなかった。それは時代の移り変りと、近代的建物にあこがれているぼくがあるからかもしれない。ぼくたち現代っ子としては、ぼくの町基山にも、もうちょっと大きな店などもふやしてもらいたいし、かっこいい建物も立ててもらいたいのだ。

ぼくの住んでいる基山も見方を変えれば緑も多いし自然のあふれる良い町だと思うけど、大阪のような大都市になってもらいたい。と言っても、近代的な町になりすぎてもいけない。どんどん意味もなく都市化していくと、公害もおこるし東京みたいにスモッグが発生するおそれもあるだろうから、いくら近代的になってもそんな事がおこるならだめだ。未来の町は、ぼくらがせおっているのだから目を皿のようにして世の中を見守ってぼくたちみんなが幸福になれるようにしないといけないと思う。そう考えると、やっぱり緑が必要になってくる。

結局、ぼくが考えるには、市がい地と緑地を半々位に分けて、町作りを行っていけばいいのではなかろうか。工場などの害を出すおそれがある所には特に念入りに緑で工場をかこむ位のことをしないといけないと思う。緑は、この世の中から消すことはできないしこの世の中に必要なものなのだ。近代的な建物も時代が変るにつれてどんどんもちこまれて、基山も大阪のように大都市の仲間入りをするだろう。しかしそれにつれて緑もふやしていかなければならない。まちがえても基山を公害の町にしてもらいたくない。しかし「家の近くのあき地に大きな店などを建ててもらいたい。」というのがぼくの本音だ。町はぼくはぼくらのものだから。

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・・・いきなりなにかと思われるだろうが、これは僕が小学校6年生の夏に書いた作文なのだそうだ。先日突然、実家のある佐賀県基山町の松田一也町長から「偶然こんなのを見つけたばい!」というメッセージと写真が届いた(松田町長は何をしていてこれを見つけたのでしょうか)。そこには口が半開きのメガネ坊主の写真、そしてこの文章が僕の名前とともに載っていた。僕は「まちづくり月間」作文コンクールで “優秀賞” を受賞し表彰されたらしい。その作文が町の広報に掲載されたのだ。

広報に記された日付は昭和60年7月13日、西暦でいうと1985年だから、今から36年前の今日、ということになる。僕はどれだけ記憶を手繰り寄せても、表彰されたことも、この作文を書いたことも、ほんの少しも思い出せないのだからとても不思議だ。作文冒頭に出てくる大阪への一人旅というのは、父が当時住んでいた大阪の天下茶屋へ遊びにいったことだというのはわかるんだけど(父に見せたかったな、これ)。とにかくこの「まちづくり」に関しての文章を読み解いて、11歳のトシアキ少年と36年ぶりに再会したみたいな気持ちになっている。このとき君は将来どうなりたかったかな。今みたいになってるなんて想像もしなかっただろうな。この文を読むにつけ「こういうことを書いたら大人は簡単に喜ぶのよね」みたいな姑息な感じすら伺えるが、文章の書き方やコラムの組み立て方が今とあんまり変わってないところが、すごい。大したものだなと思う。

僕はそれから15年後にGOMES THE HITMANというバンドでデビューして「まちづくり三部作」という作品群を作ることになる。架空の街を舞台に「僕」「君」「彼」「彼女」が物語を紡ぐ『new atlas ep』『cobblestone』『maybe someday ep』の3作だ。果たして、この作文は「まちづくり」の序章ープロローグだと言えよう。三部作から21年経った2021年、あらためて僕はそのエピローグをしたためるべきときなのかもしれない。コロナとかオリンピックとか緊急事態宣言とか、去年からの散々な日々を過ごしてみんなこの町の暮らしにうんざりしている。

いい加減もうわかったよね?秋の選挙でしっかり民意を示して、またこの町を好きになろうよ、というのが僕の本音だ。町はぼくらのものだから。

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