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黄金の1960年代、子どもたちのサブカルチャー PART2

正義を教えてくれたSFアニメ

 どこの家のアルバムにも、昭和30年代後半から40年代前半にかけて撮られた写真には、"シェー”をしているスナップがあるはずだ。それほど赤塚不二夫の『おそ松くん』はポピュラーな存在だった。おそ松、イヤミ、チビ太、それにデカバン、ダョーンの面々が繰り広げる珍騒動の数々。何かというとすぐに下剤が出てくるし、海へ行けば六つ子は商売をする。失業した父親は、家を改造して"かき氷屋”の社長に収まったこともある。「イヤミのおフランス軒の巻」ではお腹を空かせたチピ太の出前持ちが、下げたドンプリのスープをすする。売り上げが少なく、材料を買うお金のないイヤミのマスターは、古雑巾を″おフランスの肉”と称してトンカツにしてしまう。「おそ松くん」には食べ物に関するエピソードが多い。

 『おそ松くん』というと”粉末ジュースの〃とともに″チュープ入りのチョコレート〃のやや金属がかった味を連想してしまう。テレビ版の提供をしていたコビトというメーカーの商品でチュープ入りのチョコがあった。そういえば丸美屋わの”おそ松くんふりかけ〃も、乾物屋の店頭にプロマイドよろしくぶら下がっていた。

 アニメ『おそ松くん』以外に実写版が存在することをご存じだろうか?  それも藤子不二雄の「オバケのQ太郎』とダブル原作による映画なのである。イヤミには山茶花究、おそ松くんには「コメットさん』のタケシ君を演じていた蔵忠芳。おまけに黒澤明の『どですかでん』(1970年)で"電車の六ちゃんを演じる頭師佳孝が、Qちやん役で登場する。その父親には伴淳三郎。でもX蔵ではない。なんと森繁久彌もフランキー堺も出演する東宝映画なのだ。

 そのタイトルは『喜劇・駅前漫画』(1966年)。タイトルバックには〈『おそ松くん』『オバケのQ太郎』より〉とクレジットされている。伴淳とオバQがシネスコのカラー場面いつばいに竸演する、夢のようなアニメ・シーンは、映画ならではのお楽しみだった。オバQが登場する東宝映画がもう1本ある。『日本一のゴリガン男』(1966年)の日本等 (植木等)はタイアップ第一主義のゴリガン男。われらが植木さんは、業者接待の会場・船橋ヘルスセンターで、オバQのコスブレをしてくれる。この頃に少年時代を過ごした者にとってはたまらない名シーンである。それほど、昭和40年代の漫画プームはすさまじいいものだった。

 テレビは毎夕、毎晩、 SF漫画を放映しており、なかでも『宇宙少年ソラン』『スーパージェッター』『レインポー戦隊ロビン』かお気に入りだった。 14インチでしかも白黒テレビの画面は極彩色のように感じられ、独特の丸っこいタッチのラインで描かれた未来世界は夢のパラダイスでもあった。『スーパージェッター』 の流星号は、まるで生き物のようにしなやかに大空を舞い、『レインポー戦隊ロビン』のべンケイはロケット人間ながら頼もしい相棒で、『字宙少年ソラン』のリス型ロポットのチャッピーは"バビューン”とソランとともに未来都市を闊歩していた。

   この頃のSF漫画は、 いずれも〈科学万能の理想的な未来〉をテーマにしており、後の『字宙戦艦ヤマト』に代表されるような、破滅志向も悲壮感もなく、ひたすら〈明るく元気な少年ヒーロー〉が、科学を悪用する者や秩序を乱す悪党をやつつけるという勧善懲悪パターンだった。 『スーパージェッター』の主題歌にあるとおり"知恵と力と勇気の子”が僕らに正義を(正しいかどうかは別にして)教えてくれていたのだ。この頃の〈宇宙少年〉や〈遊星少年〉は、 1990年代の〈自閉症の14歳ヒーロー〉の複雑な心理などとは無縁の〈明るく、元気な正しい心の、まことの少年の姿〉だったのである。

 理想的な未来世界といえば、ゴジラ映画のなかで唯一の近未来 だった『怪獣総進撃』(1968年)のイメージも強烈。 1980年代、人類は"科学の力”でそれまで脅威だった怪獣たちのコントロールが可能となり、月面に基地を設置していた。怒れる大自然の象徴だったゴジラですら、人類は克服しているのだった。『怪獣総進撃』には2年後に控えた国家的大イベント「日本万国博覧会」への期待のようなものが感じられる。

バラ色の未来は万博で終わった

 1996年、映像監督の河崎実と組んで日本テレビ『ネオ・ハイハー・キッズ』の枠で「バラ色の未来」という番組の構成をさせていただいた。 1990年代の少年・黒田勇樹くんが、1960年代に少年だった河崎カントクの手によって〈黄金の1960年代〉にタイムスリップ。黒田くんは、あの時代が空想し、夢見ていた〈バラ色の未来〉を追体験する、という の少年ドラマ風の設定に、『ウルトラマン』『サンダーバード』などの特撮 、『エイトマン』『鉄人28号』などのSFアニメ、 SFジュブナイル小説、大伴昌司の仕事などなどの映像素材を絡めた、アンソロジーだった。3回連続の最終回、〈バラ色の未来〉を 年代で夢見た黒田くんは、現実の世界に戻りたくないと置き手紙を残し、行方不明になる。彼を探して河崎カントクは1970年の「日本万国博覧会」会場へとタイムスリップする。

 そう、僕らにとっての〈バラ色の未来〉は万博までだったと、今では断言できる。幼い頃に見た『鉄腕アトム』や『鉄人28号』、『光速エスパー』などのテレビ番組で描かれていた世界は、まさしく<バラ色の未来>だった。空には摩天楼がそびえたち、エアカーが飛び交う、科学万能の〈バラ色の未来〉が来るものと、僕らは確信していた。小松崎茂や真鍋博のイラストが予見した未来、東宝特撮映画に出てくる超兵器、そうした世界が現実に目の前に現れたのが「人類の進歩と調和」をテーマにした「万国博覧会」だった。

 1970年に小学校に入学した僕は、入学式の日に「万博へ行く予定があるのか?」というへンな質問を担任の先生からされた記憶がある。メーデーのために学校を休んでしまうような、日教組の先生にとっても、高度経済成長の集大成のような万博は一大関心事だったのだろう。

 小学館の学年誌、学研の「科学と学習」には万博の特集がなされ、『ニャロメの万国博ガイド』を手に、生まれて初めての新幹線に乗って、家族総出で大阪千里丘の日本万国博覧会会場に向かった。とにかく、人、人、人・・・。生まれて初めて、黒人を見たり、ネイティブ・アメリカンと写真を撮ったり、 ハンバーガーを初めて食べたのも万博だった。

万博最高のパビリオンは三菱未来館だった

 その万博最高のパビリオンが「三菱未来館」。製作総指揮・田中友幸、音楽・伊福部昭、特技監督・円谷英二という、今思えば東宝特撮映画の黄金時代を作ったトリオによる、夢のパピリオンだった。僕らが行ったのは夏の暑い日。2時間以上並んで、パビリオンの中に入ると、トラベータというエスカレータに乗る。ホリー・ミラー・スクリーンによって360度、映像の洪水を浴びることになる。そこに伊福部サウンドがガンガンに流れ、円谷特撮が眼前に広がる。そこで展開されるテーマは〈50年後の日本〉だった。台風を制圧するためにジェット機が台風の目にミサイルを撃つ。すると、たちまち台風は消え去る。人類は月に居住区を作って移住し、人口対策のために海底の奥深くに水中都市が建設される。『スペース1999』や『シークエスト』が放映されるはるか前に、そんな空想科学めいたことが<現実に起こる>と本当に感じさせてくれる。バーチャル・リアリティの初体験が「三菱未来館」だった。

 万博はそうした〈科学技術による明るい未来〉の見本市会場であり、電気自動車に、動く歩道、人間洗濯機・・・。それらのアイテムがすべて、見て、触って、体験できるのだ。長蛇の列もなんのその。1970年の夏、僕は確実に1980年代に来るべき〈バラ色の未来〉を体感していたのだ。僕がディズニーランドに飽きずに出かけて2時間待ちでも平気なのは、あの〈夢と魔法の世界〉に万博のイメージを重ね合わせているからなのかもしれない。

 〈お祭り広場〉には巨大口ポットのデメ君がいたし、〈フジパン・ロポット館〉では力レル・チャベックの「ロポット三原則」が高らかに謳われ、100体以上のロポットが僕たちを迎え入れてくれた。ロポットといっても、現在実用化されている工業用ロポットではなく、『キャプテン・ウルトラ』のロポット・ハックや『丸出だめ夫』のボロット、なかには『ロボット三等兵』のようなものまで、いわゆる”絵に描いたような”興業用のロボットばかり。大人になるまでに、家庭にはそうしたロボットが一台ずつ常備され、不可能を可能にしてくれる、などということを真剣に信じていた僕にとって、<フジパン・ロボット館>は夢を実現してくれた、驚異の空間だった。

 万国博覧会がどれだけ国家的なイベントだったか。 1964年の東京オリンピックが終了してからの6年間にさまざまなメディアが万博を取り上げている。『ウルトラマン』の「怪獣殿下」の回では、大阪万博に出品するために〈ゴモラ〉が捕獲され、『ガメラ対大魔獣ジャイガー』(1970年)では南の島の守り神を万博会場に移送したために、ジャイガーが大阪に上陸、ガメラと万博会場で死闘を繰り広げる。ミニチュアで作られたソ連館や古河パピリオンなどの建造物の配置こそメチャクチャだったが(万博キッズの頭の中にはパビリオンの配置がインブットされているのだ!)、ガメラと大魔獣が万博会場で暴れる絵というのは、かなりソソった。というのも映画が公開されたのが、万博が開催されてすぐの3月。

 僕の近所では、まだ誰も万博に行った者がいなかったから、なおさら特撮映画で登場する万博会場は空想力をかきたてた。万博そのものを取り上げた映画では、山田洋次の『家族』(1970年)がある。炭鉱生活に見切りをつけて、長崎から北海道まで移民する倍賞千恵子一家が、立ち寄るのが万国博会場。隠し撮りに近い形で撮影されているため、万博に来てハイな状態のニッポン人が活写されている。みんなニコニコしていて、長蛇の列にも平気で耐えている。映画では批判的に描かれているが、万博のドキュメントとしては最高の映像資料である。

黄金の1960年代、僕の”幼年期の終わり”

 1970年9月、半年間の開催期間を終え、世紀のイベントが幕を閉じた。僕は7歳、まだ小学1年生だった。けれども、それからの1970年代の想い出はあまりよいものではないし、正直ってあまり覚えていない。石油ショックに、トイレット・ペーパー騒動。

 店頭からは洗剤がなくなった。とくに紙なんていうものは、水や空気と同じように、漠然と無尽蔵なものだと思っていたから、おふくろや近所のおばさんたちが、目の色を変えて、ティッシュやトイレット・ペーパー、洗剤を追っかけて、あっちのスーパー、こっちの薬局に殺到している姿に、言葉葉こそ知らなかったが〈世紀末〉というような薄ら寒さを感じていた。

 さらに『日本沈没』プーム、某月某日に関東大震災がやってくるというまことしやかな噂が飛び交うなか、ノストラダムスの″1999年に人類は滅亡する。という予言は、絶望を感じさせた。テレピでも連日そんな特集ばかり。そうした殺伐とした間年代に、僕はもう〈バラ色の未来〉を夢見ることはできなかった。思えばそれが僕の"幼年期の終わり。だったのだ。

 それから半世紀。東京の空にはエアカーの姿などなく、万能ロボットは僕らの生活をサポートしてくれるわけでもない。科学は万能ではないと身を以て感じている。でも、もしもドラえもんがいてタイム・マシンに乗せてくれるとしたら、どこへ行きたいか? やっぱり<バラ色の未来>を体感させてくれたあの万国博覧会の会場へ連れて行って欲しいと頼むだろう。それほど<黄金の1960年代>は子どもにとって、魅惑的で甘美で、素敵な時代だったのだ。

別冊宝島360「レトロおもちゃ大図鑑」(1998年)掲載原稿を加筆修正しました。

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