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『すべてが狂ってる』(1960年・鈴木清順)


 『すべてが狂ってる』が封切られたのは昭和35(1960)年10月8日。鈴木清順監督としては、長門裕之の『密航0ライン』(6月25日)と、和田浩治の『くたばれ愚連隊』(11月23日)の間の作品となる。日活映画では、同日封切りが、和田浩治の『英雄候補生』(牛原陽一監督)、四日後の10月12日には小林旭の『大草原の渡り鳥』(齋藤武市監督)が封切られている。いわゆるダイヤモンドラインのアクション映画のローテーションのなかに作られた青春映画である。

 日活は裕次郎の『狂った果実』から藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』まで、一貫して、その時代の若者の生態をセンセーショナルに描く青春映画を作り続けていた。この時期、川地民夫は『狂熱の季節』(9月3日・蔵原惟繕)で、こうした反抗する若者を好演。松竹では大島渚がヌーベルバーグとして気を吐き、本作と同日には大島の『日本の夜と霧』(松竹)、吉田喜重の『血は乾いている』(松竹)が封切られている。世はまさにヌーベルバーグ・ブーム。本作のプレスにも「日本に押し寄せたヌーベルバーグを追求する異色作」とある。原作は、大衆小説所載の一条明の「ハイティーン情婦」。脚本は星川清司。

 清順監督にはヌーベルバーグという意識はなかったようで、当時の風俗を記録するという意味合いで撮影に望んだという。タイトルバックの戦闘シーンは、それが『最後の突撃』という映画だったというオチがついて、1960年夏の新宿歌舞伎町を、映画館から出て来た主人公たち不良高校生が闊歩する。三保敬太郎、前田憲男によるファンキーなジャズ。リズミカルなカッティングが実に心地よい。東京の街角にキャメラをしつらえて、生き生きとした会話が時代を切り取っていく。

 ジャズ喫茶では、ダニー飯田とパラダイスキングのリードボーカルとして、坂本九が登場する。不良の匂いのする九ちゃんは、後年の爽やかなイメージとは一線を画す。これも時代の記録となっている。

 川地民夫が扮する高校生・杉田次郎は、不良グループにいるとはいえ、母思いの優等生でもある。その母親・奈良岡朋子は、芦田紳介の世話を受けている。いわば愛人としての報酬が、一家の収入となっている。それに反発する次郎。やがて運命の歯車が狂って悲劇的な結末を迎えることになる。

 この母子関係と対比されているのが、初井言栄の母と守屋徹扮する保の母子関係。保は中学卒業後、芦田紳介が重役をつとめる会社の工場で働いている。保と次郎はかつての親友同士。「妾の子」と蔑まれた保を次郎がかばったというエピソードが披露される。

 次郎に心惹かれる谷敏美に扮したのは新人の禰津良子。ファッションモデル出身の禰津は実にチャーミング。次郎の気を引くため「コールマン・ホーキンス」のポスターをプレゼントするシーンがあるが、ファンキー族と呼ばれた若い世代が憧れたのが、ホーキンスのサックスだった。次郎とのセックスが終わった後、敏美が洗面台で髪を洗うシーンが印象的。心ならず不良グループに入ってしまった心情を吐露する場面のシャープなモンタージュの哀切さ。清順監督は「少女になりきらぬ少女の印象を受けた」(「ユリイカ」1976年6月号)と禰津を大層気に入っていたという。

 その敏美の友人で、中絶費用を工面することで必死なのが、中川姿子扮する悦子。彼女は、苦学生の安夫(上野山功一)と同棲しているが、そのことを安夫に告げることができない。

 数シーンの出番だが、新人クレジットで吉永小百合が出演している。清順作品では後にも先にもこれ一本だけ。小百合が演じたのは、芦田紳介の娘で、次郎の親友である保と交際している。

 戦後15年。次郎の父親は戦争で亡くなっている。穂積隆信扮する新聞記者と宮城千賀子のママが若い頃に「勤労動員」をしていたという会話がある。まだ戦争の記憶が生々しかった時代でもある。

 1時間ちょっとの小品にも関わらず、登場人物が多いのもこの作品の特徴。それぞれが、少しだけの関わりを持っているが、それほどの面識があるわけでもない。それぞれのドラマが交錯するシーンが緻密に計算されて、ロケーションが最大の効果を上げている。盗んだスポーツカーを疾走させるシーンで描写される1960年の東京。都電が走り、人々がせわしなく生活をしている。「時代の風景を撮るというのも映画の価値」(「清順スタイル」ワイズ出版)と清順監督が述懐しているように、この映画の、現在から見たもう一つの主役は、1960年の街の風景に他ならない。

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