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ザ・ワンダフル・ワールド・オブ・鈴木清順!

●日活初期の鈴木清順

 それこそ最晩年になるが、日活映画のDVDや「オペレッタ狸御殿」の仕事で、鈴木清順監督にインタビューや対談する機会が度々あった。聞き手の質問に対してはぐらかすように受け流す好々爺というイメージがあるが、どうしても知りたいことがあると、こちらも食い下がる。「この人しつこいんだよ」とニコニコしながら、ようやく応えてくれる。そんなやりとりが続いた。

 驚いたのは『関東無宿』(63年)のオーディオ・コメンタリーの時、監督に撮影台本を持参していただいた。表紙は「関東無宿」だが、中身はなんと師・野口博志監督の『地底の歌』(56年)の台本に、書き込みをしたものだった。リメイクとはいえ、オリジナル作品の台本のまま現場に望んでいたんですか? と訊いたら「そうだよ」とニヤニヤ。

 そんな鈴木清順監督は、大正12(1923)年、東京市日本橋区の呉服屋の長男として生まれた。弟はNHKアナウンサーで「クイズ面白ゼミナール」の鈴木健二。旧制の弘前高校在学中に友人から北一輝の「支那革命外史」を勧められたことが、はるかのちの『けんかえれじい』(66年)に繋がる。学徒動員で陸軍に応召され、フィリピン、台湾へと転戦。この時の体験が『春婦傳』(65年)になったんですね。と伺うと「日本の男はみんな体験したんだよ」と否定しつつ肯定。これが自身と作品の距離感でもあった。

 余談だが『オペレッタ狸御殿』(05年)の時「なぜ、狸御殿を?」の愚問に、「それはね、宮城千賀子だよ。それだけ」と呵々大笑。清順監督のアイドル的存在だった宮城千賀子は『宮本武蔵』(40年)のお通であると同時に『歌ふ狸御殿』(42年)の男装の麗人・狸吉郎だから。彼女への思いが動機だと、またまた呵々大笑。

 さて戦後、鎌倉アカデミアの映画科に入学するも、すぐに松竹大船撮影所の助監督試験に合格。松竹では岩間鶴夫監督の専属助監督となるが、清順監督曰く「メロドラマの大船調にどっぷりと浸った」日々だとか。

 そして昭和29(1954)年、製作再開を果たした日活に、西河克己監督の進めで「助監督動員」として移籍。俳優・山村聰が「下山事件」に材をとった社会派作品『黒い潮』(54年)のチーフ助監督をつとめた。また日活アクションの始原ともいうべき河津清三郎主演の“志津野一平”シリーズ第1作『俺の拳銃は素早い』(54年)、『坊ちゃん記者』『落日の決闘』(55年)などで野口博志監督に師事。

 石原裕次郎が『太陽の季節』で颯爽と登場する直前、昭和31年3月に「約束通り」監督デビューを果たす。作品はコロムビアの流行歌手、青木光一をフィーチャーした『港の乾杯 勝利をわが手に』。当時は、本名の鈴木清太郎を名乗り、清順と改名したのは『暗黒街の美女』(58年)から。鈴木清太郎名義の初期作品で忘れられないのが『8時間の恐怖』(57年)。様々な事情を持つ登場人物たちが、事故で運行がストップしてしまった汽車の代行としてチャーターされたバスに登場する。いわゆる「グランドホテル形式」のサスペンス。

 さて、文芸作中心だった「信用ある日活映画」では給料遅配も日常だったが、石原裕次郎の人気上昇とともに、日活はアクション帝国となっていく。裕次郎映画をメインストリームとするなら、清順監督曰く「自分は日活の裏街道で裏町人生を描いていた」とか。

 とはいえ、小林旭のナイーブな個性が光る『踏みはずした春』(58年)や『青い乳房』(58年)などの叙情性。駆け出しの赤木圭一郎を売り出すべく企画された『素っ裸の年齢』(59年)ではハイティーンの主人公が、大人に抗いながらも、自らが大人の季節を迎える直前の焦燥感などを描いている。

 川地民夫の『すべてが狂ってる』(60年)や『ハイティーンやくざ』(62年)も、無軌道でオフビートな青春を描きながら、その季節の終焉も描いて、それがセンチメンタルな味となっている。

 のちの清順美学と呼ばれるケレンや、気をてらった演出は見られないが、和田浩二の『くたばれ愚連隊』(60年)は、のちの「東京流れ者」の原曲となる「純情愚連隊」が「♪関東流れ者〜」と主題歌として流れる。清順映画には「唄はつきもの」だがが、歌謡映画やアクション映画の中に、こうした俗謡が流れ、観客とともに監督自身も楽しんでいた。

● 日活後期の鈴木清順

 さて「日活の裏街道」を歩いてきた鈴木清順監督の独特の美学が、展開されるようになったのは、石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩二に続いて、日活ダイヤモンドライン入りを果たした宍戸錠主演『探偵事務所23 くたばれ悪党ども』(63年)あたりから。開館の派手な銃撃戦。宍戸錠の登場場面は、007もかくやのカジノで踊り子・星ナオミがよろしくやっているところから。劇中、二人がチャールストンを歌って踊る「1963年のダンディ」のナンバーは、眼福であり至福の瞬間。

 続く『野獣の青春』(63年)では、日活アクションが培ってきたプログラムピクチャーの“面白さ”と、これから大爆発する清順監督の“遊び”が幸福に融合したハードボイルドの佳作となった。開巻、モノクロ映像で刑事とコールガールの心中現場が登場するが、花瓶の椿だけがカラー。『椿三十郎』(62年)で黒澤明が断念した“手”でもある。

 昔気質のヤクザ・信欣三の事務所が映画館のスクリーンの裏手にあり、中盤では『けものの眠り』(60年)の予告篇が上映され、信欣三の名前が裏返しに映る。こうした楽屋オチが楽しい。また、神戸の組織と小林昭二の組織が麻薬取引をするのが、のちに『男はつらいよ』の舞台となる、江戸川の矢切の渡し。寅さんよりも錠さんが早かった。途中は奥多摩の方で撮影しているけど、ちゃんと松戸と柴又でロケーション。

 清順監督のお気に入りは、ボスの小林昭二が愛人・香月美奈子の裏切りを知って怒り狂うシーン。部屋の外が、砂塵が渦巻く真っ黄色な世界となる。愛人を鞭でサディスティックに打ち、それに興奮したボスが彼女を抱く。

 小林旭の任侠映画『関東無宿』は、清順監督の師匠・野口博志の『地底の歌』のリメイクだが、基本線はオリジナルを踏襲しつつ、清順美学の象徴とされている名場面の数々は、シナリオへの書き込みから生まれた。賭場のある土蔵で
“緊張の糸”がプツンと切れるショット、アパートでの小林旭と伊藤弘子の心理描写を、ホリゾントの色の変化で表現したシーンなど、アイデアメモが残されている。何と言っても賭場で、鶴田(小林旭)がテキ屋の河野弘を叩き斬る場面は、台本にはなく、上書きされたメモに記されている。

 <前の二人を斬る。一人、襖の方によろけて、襖に倒れかかる。襖一度に倒れる。赤の中に立つ、鶴田の刺青>。

 木村威夫の美術、峰重義のキャメラで、プログラムピクチャーではありえない、ケレンが展開される。このショットで、鈴木清順監督は世界映画史で語られる存在となった。同時に「わからない映画を撮る」とも。

 カラフルということでは、戦後の焼け跡の闇市にうごめく“夜の女”たちの生態を描いた田村泰次郎原作、3度目の映画化となる『肉体の門』(64年)も忘れがたい。本作が映画デビューとなった野川由美子の体当たりの演技と、木村威夫美術による様式美。戦後の焼け跡をここまでカラフルに描いた作品はこれが初めて。

 その野川由美子と、清順作品では常連の川地民夫による『春婦傳』(64年)は、同じ田村泰次郎原作で、谷口千吉監督の『暁の脱走』(50年)のリメイク。清順監督によると、当初はカラー撮影の予定で、中国の「黄土」の世界を黄色を基調にした色彩で描く狙いがあったとか。しかし、モノクロでも本作からは色を感じることができる。

 続いて野川由美子との三部作となった、今東光原作の『河内カルメン』(66年)もモノクロだが、もしもカラーだったら?と夢想すると楽しい。ヒロインが佐野浅夫扮するうだつの上がらない信用金庫の職員と同棲するアパートは、美術の木村威夫が、わざと縦長に設計。木村は「ひょろ長いセット。おかしくないんだよね、変なことやっても。演出に当てはまっているから、見てられる。あれ、普通のリアルな演出やったんだったら、見てらんないよ」と清順監督との対談(聞き手は筆者)で回想している。

 このケレンが、日活アクションのファンタジー化という方向で花開いたのが、渡哲也主演『東京流れ者』(66年)。清順監督の台本の冒頭には「望遠レンズ。赤ペンキ、赤いポスト、ライト、提灯の電球、窓の雪」というメモがあるが、『東京流れ者』とはそういう映画になっている。ここまでくるともう何でもありの清順ワールドになってきた。

 映画は渡哲也の主題歌で終わるが、実際には横たわる枯れ木の真っ赤な切り株と、空に昇る緑の月のなかに、渡哲也が佇むシーンが撮影された。しかしラッシュをみた日活上層部がカットを指示、幻のラストとなった。

 そして、これは実際に体感していただくのが一番だが、日活最後の作品となった『殺しの烙印』(67年)。これに上層部が激怒して、昭和43(1968)年4月「わからない映画を撮る監督は日活にはいらない」と解雇。それに反発した人々による「鈴木清順問題共闘会議」が結成され、映画界を揺るがす問題に発展することとなる。

●清順俳優の魅力

 ある時、美術の木村威夫氏、鈴木清順監督と雑談をしていて、常連俳優の話になった。「僕が好きなのは川地民夫、それに野呂圭介かな」。そこで木村氏が「清順俳優だね」と。日活には様々なタイプの俳優がいるが、清順監督が惚れ込み、清順監督に惚れ込んだ俳優たちがいる。それを「清順俳優」とその時から呼ぶことにした。

 『野獣の青春』(63年)の渡辺美佐子は、映画ファンや外国人から素晴らしかった!と賞賛されても、映画そのものの記憶はあまりなく、むしろ清順監督のことをよく覚えておられる。後年、TBSで久世光彦のドラマ「ムー一族」で清順監督が“ホームレス風の老人”で実は資産家のお爺さんを演じた時には、久世命令で、清順監督のアテンドをしたという。

『関東無宿』(63年)で小林旭の子分・びっくり鉄を演じた野呂圭介もまた、清順監督に惚れ込んで、それこそ晩年まで交流を続けていた。野呂は『青い乳房』『影なき声』(58年)、『暗黒の旅券』(59年)など初期から、後期の『けんかえれじい』(66年)まで清順作品の顔として、時にはシリアスに、時にはコメディ・リリーフを演じた。

 清順好みの俳優としては、やはり川地民夫。ヌーベルバーグ・ブームに乗じて作られたハイティーン映画『すべてが狂ってる』(60年)の無軌道な若者が時折見せる狂気は、のちの『野獣の青春』(63年)で手にしたカミソリで相手の顔をすだれ状に斬る“すだれの秀”の狂気に昇華する。

 川地といえば『花と怒涛』(63年)で小林旭を付け狙う刺客のスタイルがユニーク。ルドルフ・バレンチノ風の帽子にマントのペラゴロ・スタイルは、川地も積極的にアイデアを出したという。

 石原裕次郎を演出することがなかった清順だが、小林旭とは相性が良く、裕次郎の『明日は明日の風が吹く』(58年)を真逆に展開させたリメイク『俺たちの血が許さない』(63年)の無口なアキラは実にカッコいい。小林旭といえば、渡哲也の『東京流れ者』(66年)で二谷英明が演じた“流れ星の健”は、山崎徳次郎監督の「流れ者シリーズ」を演じていた、初代・流れ者の小林旭が予定されていた。

 忘れてならないのは宍戸錠。7本の作品に出演しているが『肉体の門』(64年)で演じた中国からの復員兵・伊吹新太郎が素晴らしい。鍛え抜かれた肉体とギラギラした男の欲望。ヒロインたちの共同体に「生命力」をもたらす。様式美の清順映画に、血を通わせ、肉を感じさせたのが宍戸錠と、女優では野川由美子。

 もちろん『刺青一代』(65年)や『けんかえれじい』(66年)の高橋英樹や、『悪太郎』(63年)や『悪太郎伝 悪い星の下でも』(65年)の山内賢も、忘れてはならない清順俳優だった。

●「ラ・ラ・ランド」に影響を与えた鈴木清順

 第89回アカデミー賞では史上最多14ノミネートをされた、ミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』。作品賞は逃したものの、プレゼンターのウォレン・ベイティによる作品賞発表の手違いで話題騒然。久しぶりのシネ・ミュージカル(映画のためのオリジナルという意)としては大ヒットしている。

 巷で言われているように、デミアン・チャゼル監督は、ハリウッドのみならzフランス映画など、名作や好きな作品から自由にインスパイアされて、オマージュ、またオマージュでコラージュ的に映画を構成。それゆえバランスが微妙であるが、オタクとしては十分に共感できる。

 そのチャゼルが公言しているのが鈴木清順監督の影響。絵コンテ段階から『東京流れ者』のワイド画面の構成を意識して、プロダクション・ナンバーで突然、雪が降り出す効果など、清順映画のケレンへのオマージュが散見される。

 中でも、エマ・ストーンのヒロイン・ミアが、ルームメイトとセレブのクリスマス・パーティに出かけるナンバー"Someone in the Crowd"で、四人の女の子の衣装の色が『肉体の門』の野川由美子(緑)、石井富美子(黄)、松尾嘉代(紫)、河西郁子(赤)と同じ。まさしく“Gate of Fresh”なナンバーとなっている。また主人公が車で去っていく上に花びらが落ちていたのは『けんかえれじい』かもしれないと、とある批評家が指摘している。

 そんな風に意識していたかどうかはともかく、清順作品だけでなくクライマックスのMGMミュージカルのリスペクトは、井上梅次監督が『お転婆三人姉妹・踊る太陽』(57年)で試みたスペクタクルと同じアプローチだし、着地点も同じような“微妙な味わい”が微笑ましくもある。
 



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