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 石坂洋次郎は、青森県弘前市に明治33(1900)年に生まれ、慶應義塾大学文学部を卒業後、郷里に戻り、青森県立弘前高等女学校(現・弘前中央高等学校)勤務を経て、秋田県立横手高等女学校(現・横手高等学校)での教員生活中に小説を執筆。「三田文学」に昭和8(1933)年8月から昭和12(1937)年12月にかけて、断続掲載した「若い人」は昭和12年2月に改造社から単行本前半、12月に後半が刊行され、高い評価を受ける。

 石坂は、この「若い人」で、教員のまま人気作家となった。北国の港町のミッションスクールを舞台に、若き男性教師と女学生、そして女性教師の揺れ動く心を描いた内容は、当時としてはセンセーショナルだった。しかし日中戦争が激化しつつある時代、こうした内容はけしからんと、右翼が一部内容が不敬にあたると検事局に告訴。「軍人の剣は鉛筆を削ったり果物の皮を剥くのにも使われる」と言う表現が問題とされるが、結果的には不起訴となる。

軍国主義のなか、リベラルな石坂文学は、それ自体がセンセーショナルだった。

 「若い人」が三田文学に掲載中に、東京発声映画製作所が映画化を企画。八田尚之が脚色、豊田四郎が演出にあたった。昭和12(1937)年11月17日に、東宝映画の配給で、東京日比谷の洋画ロードショー館・日比谷映画で封切られた。

 東京発声映画製作所は、昭和10(1935)年、松竹出身の日活の監督・重宗務が、日活資本で設立したトーキー専門会社。本作の脚本を手掛けた八田尚之も日活出身で、企画製作部長を務めていた。豊田四郎も、松竹蒲田から設立と同時に移籍してきた。いわば新進気鋭の映画会社だった。だからこそ、石坂洋次郎の「若い人」を選んだのだろう。

 北海道・函館にあるミッション・スクールに勤める、28歳の青年教師・間崎慎太郎(大日向傳)は、女生徒・江波恵子(市川春代)の奔放さに振り回されながらも、次第に惹かれてゆく。恵子は、料亭の女将・江波ハツ(英百合子)の一人娘だが、酒にだらしなく、男関係も多いハツの私生児として、強烈なコンプレックスを抱いている。それゆえ、間崎に父性を求め、問題行動を次々と起こして、注意を引いて、その愛情を求める。一方、同僚教師・橋本スミ(夏川静江)も間崎に惹かれているが、間崎の江波の指導に対して痛烈な批判をする。

 日活出身のチャーミングな市川春代は、僕らの世代でもマキノ雅弘監督『鴛鴦歌合戦』(1939年・日活)などでお馴染み。日活のスターだったが、昭和10(1935)年、東京発声映画製作所の設立に加わって、トーキーの時代を担っていく。この年2月公開のアーノルド・ファンクと伊丹万作の日独合作『新しき土』、豊田四郎の『オヤケアカハチ』(6月)出演後に、『若い人』のヒロインを演じた。

 ここでも、市川春代のベビーヴォイスが堪能できる。ミッションスクールの女の子たちの日常は、当時の女学生たちのリアルな感じを見せてくれる。戦前の学校というとどこかスクエアなイメージがあるが、ミッションスクールの女の子たちは、極めて現代的である。

 その女学生の憧れの的である青年教師を演じた大日向傳は、松竹蒲田の若手スターとして、田中絹代との『恋の花咲く 伊豆の踊子』(1933年・五所平之助)や小津安二郎の『出来ごころ』(1933年)などで大人気となる。

 また、当時としても「新しい女性」を演じた夏川静江は、大正12(1923)年、14歳で日活向島撮影所の作品に出演、『街の子』(1924年)の主演となり、その後日活京都で活躍。トーキー専門スタジオ、京都のJ. O.スタジオに移籍して、第1作『百万人の合唱』(1935年)に出演している。

 原作やその後のリメイクでも物語の中心となる、東京への修学旅行のシークエンス。間崎先生が引率役となり、東京への夜汽車の車掌室で、恵子が声を上げて泣くシーンもあるが、彼女の複雑な心境を映像化するまでには至っていない。特に、恵子の情熱が恋愛感情となっていくプロセスは、流石に描かれていない。

 後半、母・ハツと喧嘩した恵子が、間崎の下宿に転がり込んでからの展開は、パッションがセックスに結びつかないので、未消化の印象を受けるが、当時としてはこれでもギリギリだろう。

 間崎は恵子を下宿に泊めるわけにもいかないので、橋本スミに頼んで、彼女の下宿に連れてってもらおうとするが、橋本先生は、恵子が間崎を愛していることを知り、間崎に恵子との結婚をすすめるために、嵐のなか、恵子を外に待たせて、間崎の下宿に戻る。なんともモヤモヤする結末となっている。

 原作では、ハツの料亭で初の内縁の夫と酔客たちの喧嘩の仲裁に入って大怪我を負う。このシーンは石原裕次郎版にもあったが、原作ではその後、江南宅で療養していた間崎は恵子と結ばれる。その後も恵子の行動はどんどんエスカレートしていく。また橋本先生は、自宅の勉強会が左翼集会にあたるということで検挙されてしまう。そこから二転三転して、恵子は間崎に「私たちは終わった」「これからは橋本先生との関係が始まる」と告げる。

 その後の映画化でも、恵子の行動は、母親の愛を求めても得られない感情を、若い先生にぶつける「青春の感情」として描かれ、それゆえ恵子を演じた女優が輝く、という黄金律となっていく。

その後の映画化作品は次の通り。

昭和27(1952)年、市川崑監督、和田夏十脚本。島崎雪子(江南恵子)、池部良(間崎慎太郎)、久慈あさみ(橋本スミ)。

昭和37(1962)年、西河克己監督、三木克己脚本。吉永小百合(江南恵子)、石原裕次郎(間崎慎太郎)、浅丘ルリ子(橋本スミ)。

昭和52(1977)年、河崎義祐監督、長野洋脚本。桜田淳子(江南恵子)、小野寺昭(間崎慎太郎)、光林京子(橋本スミ)。





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