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『新東京行進曲』(1953年・川島雄三)

 川島雄三作品を観るたのしみの一つに、映画で描かれている時代の「街並み」や「風俗」描写にもある。眺めているだけで、ぼくたちは『還って来た男』(1944年・松竹)での戦時中の大阪や、『ニコニコ大会 追ひつ追はれつ』(1946年・松竹)の焼け跡の浅草、遺作『イチかバチか』(1963年)での東京五輪直前のスクラップ・アンド・ビルドによる銀座再開発の瞬間にタイムスリップできる。

 日活で撮った『銀座二十四帖』(1956年)の主役は銀座そのもの。三橋達也や北原三枝たちが織りなす、少しファンタジックな物語に、当時の銀座風景の細やかな描写がリアリズムを与えている。それをぼくは「映画による考現学」と名付けたことがある。

 川島雄三、松竹での19本目となる『新東京行進曲』もまた、銀座という街の戦前と戦後が主役の「映画による考現学」作品である。原作は東京日日新聞社会部長で後の動物作家・戸川幸夫、朝日新聞記者で「ノモンハン事件」従軍記者体験もある入江徳郎、読売新聞記者だった辻本芳雄が原作者としてクレジットされている。雑誌平凡に連載とあるが、もとはコロムビアから発売される「新東京行進曲」(作詞・西条八十 作曲・古賀政男 歌・藤山一郎、奈良光枝)プロジェクトの一環として企画されたタイアップ映画である。

 昭和4(1929)年公開の日活映画『東京行進曲』のために佐藤千夜子が歌い、大流行した「東京行進曲」(作詞・西条八十 作曲・中山晋平)の戦後版として企画された「新東京行進曲」をフィーチャーした映画だが、歌謡映画ではない。むしろ歌の舞台となった「銀座と、銀座で生きる人々」の戦前と戦後を描いて、すぐれた風俗映画となっている。

 松竹マークがあけて、毎日新聞の飛行機「デ・ハヴィランド・ダヴ明星号」が大東京の上空を飛んでいる。機内には安井東京都知事が記者に「だいたいあんたたちはね、東京が30年の間に、二度も焼け野原になっちまったことを忘れてるんじゃないですか?」と話す。大正12年の関東大震災、昭和20年の東京大空襲の映像がインサートされる。「あの焼け野原の東京が、今日こうして復興したと思いませんか?」と知事の声に「新東京行進曲」のタイトルがインされる。

 タイトルバックの空撮に、前年、サンフランシスコ講和条約が発効され、連合軍による占領時代が終わり、経済的に立ち上がってゆく東京の風景がイキイキと映し出される。これを眺めているだけでも楽しい。隅田川にかかる勝鬨橋が開いている! この勝鬨橋は、川島雄三の『深夜の市長』(1947年)でもキーとなる風景として、主人公の安倍徹とヒロイン・空あけみが再会するシーンに登場する。

 明星号からのキャメラは、隅田川から晴海通り、銀座四丁目の服部時計店、数寄屋橋近くの朝日新聞東京本社、日劇、その手前のマツダビルを捉え、東京駅丸の内口、新丸ビル、丸ビル、皇居二重橋付近を捉える。さらに桜田門の警視庁、国会議事堂、東京湾と、空による東京漫遊を体感させてくれる。

 さて、明星号の機内で知事の相手をしているのは川島映画でおなじみ増田順二。そして取材しているのは新聞記者・真砂隆(高橋貞二)が、ふと左の窓に目をやる。「一ノ瀬くん、見たまえ」と同僚記者・一ノ瀬文子(小林トシ子)を促す。

「あれが僕の出た小学校だよ」

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 中央区銀座にある泰明小学校である。関東大震災後にコンクリートで再建された「復興小学校」で、昭和20年1月の銀座空襲にも耐えた堅牢な建物である。「懐かしいなぁ」と真砂記者。「江戸っ子って思ったよりロマンチストね」と一ノ瀬記者。高橋貞二の晴れがましい表情が実にいい。
 
 かくいうぼくも、泰明小学校の卒業生。昭和51年卒業なので、この映画の真砂記者は昭和10年卒業なので、41年前の大先輩ということになる。銀座で生まれ育ち、戦前、泰明小学校に通った真砂たちの同級生との現在が描かれていく。川島雄三は、卒業生たちの「その後」を通して、戦前と戦後の銀座に生きる人々を活写する。しかも単なるノスタルジーではなく、彼らが直面する現実を、清濁交えて綴っていくのだ。

 昭和10(1935)年、泰明小学校を卒業した新聞記者・真砂隆(高橋貞二)、都庁の建築技師・林三郎(北上弥太朗)、新聞社の発送部員・桐山一夫(三橋達也)、都電の運転手・遠藤良雄(大坂志郎)、ボクサー・北野広(沼尾均)、そして銀座の寿司屋の主人・小川金一(桂小金治)たち、かつての仲良したちの現在の物語。

 賭博場に潜入取材をしていた一ノ瀬と真砂が、悪漢に追いかけられて銀座の路地を逃げる。昭和2年創業、金春通りの老舗居酒屋「樽平」の路地などでロケーション。土地勘のある真砂は、外濠の山下橋のたもとから、母校・泰明小学校の校舎に逃げ込む。夜の小学校でロケーション。僕が通った頃も、この映画が作られた昭和28年のままだった。忘れ物を取りに夜8時に戻ったときのことを思い出す。夜の校舎は真っ暗で、窓に差し込むネオンの光だけが頼りだった。その時の感覚が蘇る。
 
 屋上から、校庭を走りまわる追手たちの動きを見る二人の記者。この屋上は大船撮影所に再現されたセット。「締め切り大丈夫かしら?」「様子みようか?」ふと子供の頃のことを思い出す真砂。「親しかった友達のこと。可愛がってくれた友達のこと・・・」。一ノ瀬がないナイトクラブで話をしていた男が「むかし、この学校で習った先生に、とっても良く似ていたんだ。須田先生といって、とっても良い人だった。僕はその先生ととても強いつながりがあったんだ」

 そこから、昭和10年の泰明小学校の回想シーンとなる。子供たちの歌声で校歌「み空の星」が流れる。

 休み時間、校庭と屋上で遊ぶ子供たち。正義漢の一夫(のちの三橋達也)が、ノッポに「広ちゃん(のちの沼尾均)がいじめられていると、仲良しに声をかける。「よし、殴り込みだ」と血気盛んな金ちゃん(のちの桂小金治)たちが、屋上階段近くで広ちゃんをいじめているノッポに挑む。一夫はのちにボクシングを始めるだけあって、喧嘩術を心得ている。この子供たちの喧嘩シーンのアクションも手を抜いていない。そこへ須田先生(須賀不二夫)が止めにやってくる。喧嘩の原因は、ノッポが隆ちゃん(のちの高橋貞二)の姉がダンサーであることを罵ったからだった。

 それを聞いて「畜生!ダンサーの何が悪いんだ!」と隆が、ノッポに飛びかかる。次のシーンは、屋上ではなく、三階の理科室の前にあったバルコニーで撮影。隆をなだめる須田先生。「なあ、真砂、職業に貴賎はない。ただ人が、その職業を立派に勤めるかどうかで、価値が決まってくる。先生はそう教えた筈だよ」この先生の言葉が、クライマックスに効いてくる。

 この泰明小学校の回想シーンは、昭和28年、5年生たちが一ヶ月近くかけて撮影に参加したと、昭和29年卒業の先輩たちから伺った。この年の卒業生には、のちにジャッキー吉川とブルーコメッツで人気となる井上大輔先輩もいた。先輩たちによると、川島雄三監督はやさしい人で、演技や動き、立ち位置についても、スタッフとともに丁寧に指導してくれたという。

 この時のチーフ助監督は井上和男。「蛮さん」と呼ばれ、松竹大船から東京映画へ移籍、「駅前シリーズ」などを手がけることになる。余談だが、須川栄三監督の「お別れの会」が日比谷公園の松本楼で開催されたとき、出席していた団令子さんに『縞の背広の親分衆』(1961年)や『喜劇とんかつ一代』(1962年)のエピソードを雑談で伺っていたら、井上和男監督が「川島さんの映画でこの近くの泰明小学校に撮影に通ったよ」と『新東京行進曲』の話をしてくださった。

 さて、映画に戻ろう。実は須田先生の内縁の妻もダンサーで、娘もいるのに入籍もしていなかったと、学校を停職となってしまう。隆は卒業後、昭和11年2月4日、日比谷公会堂でのオペラ歌手、フョードル・シャリアピン来日公演に、ダンサーの姉に連れられて出かけた時のこと。客席に、妻と娘と一緒の須田先生が楽しそうにしているのを目撃する。

 昭和11年、シャリアピンが来日して東京、名古屋、大阪で公演をしているが、この時、日比谷公会堂での公演の際に、丸ビルの歯科で歯の治療をしたシャリアピンだったが、調子が悪く、うまく食事ができない。そこで宿泊先の帝国ホテルのレストラン「ニューグリル」の料理長・筒井福夫が考案したのが「シャリアピン・ステーキ」。川島がなぜ「シャリアピン公演の日」にしたのか? 公演日の2月4日がちょうど川島雄三の誕生日だったからではないかと思う。

 そして映画は、現在の同級生たちの再会が様々なエピソードのなかで描かれていく。事件記者として取材中、小松川に住む都電の運転士・遠藤良雄(大坂志郎)と再会をきっかけに、同級生の金一(桂小金治)の寿司屋「金すし」で十何年ぶりの同窓会に集まる。

 久しぶりの再会で、小学校時代に戻る仲間たち。歌の上手い、金ちゃんの新妻(久保幸子)が挿入歌「東京夜景」(作詞・西条八十 作曲・古賀政男)を披露すると、歌詞の「銀座の柳」から、同級生たちが「昔恋しい銀座の柳」と彼らにとっては思い出深い「東京行進曲」のコーラスとなる。

 雪が降る冬、泰明小学校の理科の時間。実験中に、みんなで「東京行進曲」を歌っている。「チャン、チャン、チャラララ〜」と間奏までコーラスしているのがおかしい。そこへ須田先生が「コラッ!」。シーンとなる生徒たち。セットではなく本当の理科室で撮影しているので、卒業生としてはたまらない(笑)正直に「僕がやりました」と謝る。須田先生「よし、正直なのはいい。いいか、みんな嘘をついちゃいけないよ。嘘を。嘘のなかで一番いけないのは自分の心に嘘をつくことだ。自分自身を欺くことだ。先生は今週限りで学校を辞めます」と告白する。

 最後の言葉として「嘘をつくな、自分の心にも嘘をつくな。それから自分の仕事を大切にする。いい加減なことや不真面目な態度で、自分の仕事を汚してはいけない」。いい言葉だなぁ。脚本は川島雄三の盟友・柳沢類寿。この須田先生のことばが、同級生たちの心の拠り所となり、戦後、みんな仕事に励んでいる。

 子供たちが「不真面目な気持ちで流行歌を歌ってごめんなさい」と実験器具に謝ると、須田先生「こんどは、みんなで歌おう」と「東京行進曲」を大合唱する。良いシーンである。

 同窓会で盛り上がっているところに、金ちゃんの母・とし(望月優子)が帰ってきて、懐かしの再会となる。友達のお母さんとの距離感がリアルで、このシーンも微笑ましい。「懐かしい歌、歌ってたね。あの晩もみな集まって、この唄歌ってたね」と、昭和11年2月の卒業後初めての同窓会の晩を思い出す。

 ちょうどその日、2.26事件の当日で、騒然とするなか、金ちゃんの父(坂本武)は子供たちのために寿司を握っている。こうして銀座が直面してきた時代が象徴的にインサートされる。「子供たちはどうなっちゃうかね」と心配するとし。この後、日本が待ち受けている運命を考えていると、こちらも心配になってくる。

座敷で「東京行進曲」を歌う子供たち。カウンターで飲んでる憂国の学生たちが「国家の非常時に際し、流行歌を歌うとはけしからん!」と怒鳴る。見事な時代の切り取りである。
とはいえ、子供たちが気になるのは「東京行進曲」の「あだな年増を誰が知ろ」の「あだな年増」のこと。金ちゃんが「ねえ、母さん、あだな年増ってどんな人?」「それはね、あたしみたいな人のことを言うんです」。

 そのセリフから同ポジで、昭和28年の同窓会へ戻っていく。巧みな編集で、観客もタイムトリップを味わうことができる。

 やがて、真砂記者が追っている汚職事件に、戦後、苦労を重ねている須田先生が絡んでいることを知って、真砂は苦悩する。しかも、真砂が心を寄せている、都庁の職員・美代子はなんと、シャリアピン公演にきていた、須田先生の娘であるという運命の皮肉。

 銀座だけでなく、昭和28年の東京風景が活写されているのも楽しい。真砂の馴染みの警視庁捜査二課の刑事・桶詮造(日守新一)が住んでいるのは、錦糸町の近く。その娘・昭子(北原三枝)は、上野公園、西郷像のある聚楽台の「上野デパート」。通勤には国電ではなく「五円安いから」と都電に乗っている。実は、都電の運転士・良雄(大坂志郎)と付き合っているので、彼の運転する都電に毎日乗っている。

 須田町行きの都電は、錦糸町から上野、そして国電秋葉原へと向かう。秋葉原駅の高架下にあった「アキハバラデパート」(現・アトレ)、そして数寄屋橋と、東京風景が堪能できる。良雄が昭子を尋ねて「上野デパート」のティールームで待ち合わせをする。二人が話すのは、西郷像前、向いのビルは軍艦ビルと呼ばれた「京成聚楽ビル」。昭和11年に竣工した、アメ横と中央通りの角地に立っていた。平成になるとヨドバシカメラが入っていたが、2005年に解体された。

 北原三枝は、日劇ダンシングチームの出身。松竹の若手女優として活躍していた。この作品では、新聞社主宰の「ミス職場」のグランプリとなり、後楽園球場での授賞式がクライマックス。そこで、藤山一郎と奈良光枝が「新東京行進曲」を披露して、映画はエンドマークとなる。川島雄三の銀座を舞台にした「映画による考現学」は、三年後の『銀座二十四帖』に続くが、この作品にも北原三枝が出演している。




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