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黄金の1960年代、子どもたちのサブカルチャー PART1

 1960年代の東京は、少なくとも子どもたちの空想する〈バラ色の未来〉を夢見ることができる空間だったような気がする。

 1963年生まれの僕にとって、週末に出かける銀座や、池袋といった盛り場はなんだか晴れがましい空気に満ちた特別な場所だった。池袋の親戚に出かけるときは西新井から都営バスに乗る。王子、巣鴨を抜け、東池袋に差しかかると〈春日井のシトロン・ソーダ〉の大きな広告塔の偉容がバスの窓から見えてくる。すると条件反射的に”♪町にメロンがやってくる。シトロン・ソーダがやってくる”というコマーシャル・ソングがなんとなく頭の中に流れて、粉末状のシトロン・ソーダのやや塩っぽい重曹の味が口いっぱいに広がってくるのだ。

 あの頃、ジュースといえば粉末の<渡辺のジュースの素>や<春日井のシトロン・ソーダ>のことだった。1969年のチクロ騒動で駆逐されるまで、粉末ジュースは子どもがいる家庭での、味噌、砂糖、醤油同様の台所の常備品であった。東宝の特撮映画に必ずタイアップで登場する<バヤリース・オレンヂ>や、若大将映画の<コカ・コーラ>というのは、誕生日やクリスマスだとかの特別なときでないと、お目にかかれない代物だった。

西武池袋店の屋上にはヘリポートがあった

 さて、バスが終点・池袋に到着する直前、豊島区役所のあたりになると、壁面いっぱいに広がるタイル画が見えてくる。今は、池袋PARCOになってしまったが、そこは<丸物>という百貨店だった。丸物は、新宿や渋谷だけでなく京都などにもある大型チェーンだったが、1970年代に倒産してしまった。その隣にあるのが〈西武池袋店〉。

 横長のデパートの屋上には、当時、朝日航空というへリコプター会社のヘリポートがあった。小林旭の「都会の空の用心棒』 (1960年・日活・野村孝)という映画で、 マイトガイ・アキラが所属する航空会社が、池袋西武の屋上にあった。タイトル・バックは東京上空の空撮シーン。東京タワーや国会議事堂、東京のランドマークを空の上から眺めて、デパート以外には何ひとつ高い建物のなかつた池袋の西武百貨店の屋上に到着する。

 池袋西武といえば『ウルトラセプン』を思い出す。幼稚園の頃だったか、圧倒的な人気を誇ったウルトラセプンのサイン会が〈西武池袋店〉であるというので、母と小学生の兄と池袋に行った。到着したのは開店後すぐだったような気がする。ところが、現地に行くと長蛇の列。店員さんがマイクをつかって「今日のサイン会は中止です」とがなり立てている。あまりにも人が集まりすぎたので中止が決定されたという。僕は本当に口惜しかった。しかたなく丸物で、僕は『ゲゲゲの鬼太郎』の50円プラモ、兄は『サンダーバード2号』のコンテナのプラモを買ってもらったことを、いまだに覚えている。

大銀座まつりにやって来たクレージー・キャッツ

 気軽な池袋に対し、銀座は都会の中の都会という感じで、なんとなく緊張して出かけたものだった。銀座・松屋のおもちや売り場には、いつも新しいおもちゃが並んでいて、どれにしようか、本当に悩んだのだが、買ってもらえるのはせいぜい120円のミニカーどまり。公開されたばかりの〈チキ・チキ・バン・バン号〉や007愛用の〈アストン・マーチン〉など1000 円近くするものは高値の花。でも欲しかった。

 そういえば、幼心に色めき立ったのが『ウルトラマン』の『小さな英雄』の回だった。危機を告げに来たピグモンが現れるのが銀座・松屋のおもちゃ売り場。おそらく円谷プロと松屋の関係は『ウルトラQ』からだろう。怪獣ブームの1966年、松屋の催事場で『ウルトラQ』のイベントが行われている。モングラーやペギラが出現するシーンのジオラマが再現され、本物の着ぐるみの数々は迫力満点で、3歳児にはかなりオソロシイものだった。

 銀座といえば、明治百年にあたる1968 年の〈大銀座まつり〉が忘れられない。幼稚園から帰ってくると「今日は銀座まつりに行くのよ」とオフクロが、珍しく化粧をして待っていた。親戚のお姉さんも一緒である。京橋に勤めている父と待ち合わせて、松屋あたりの前に陣取ってパレードを待つ。タ闇がせまり、きらびやかな山車が目の前を通って行く。発売されたばかりの〈カネボウ・チューイングBON〉や、〈明治チョコバー〉のキャンペーン・カー、資生堂のカラフルな花電車など、おなじみのCMソングに乗って企業のキャンペーン山車が次々と登場する。そこへ、派手なサウンドのトレーラーがやって来た。

 〈ハナ肇とクレージー・キャツツ〉の面々だ。そのシーンが映画の一場面のように、脳裏に焼き付いている。それから10数年ほどして浅草東宝に"クレージー映画特集”を見にいったとき、たまらない懐かしさに包まれた。『クレージーのぶちやむくれ大発見』(1969年・東宝・古澤憲吾)のラスト・シーンで、僕は思わす声を上げてしまった。クレージーが「笑って笑って幸せに」をGS風のミリタリー・ルックで歌うシーンが、紛れもなく、あの日の大銀座まつりだったのだ。おそらくあれは銀座にあった渡辺プロの山車で、クレージー映画の一場面の撮影をかねての<大銀座まつり>参加だったのだろう。

1960年代のハイライト 東京オリンピックと新幹線

 そんなこんなで、子どもたちにとって〈黄金の60年代〉はわくわくするイベントか目白押しだった。その皮切りは1964年の〈東京オリンピック〉だろう。市川崑監督の秀作記録映画「東京オリンピック』(1965年・東宝)のアベべが裸足で独走するマラソン・シーンの沿道では、新聞社の旗を振る1964年の無邪気な子どもたちの姿がシネマスコープの画面いっぱいに広がる。1960年代前半、来るべき東京オリンピックに向けて東京の町は、大改造がなされた。青山通りの電車道は拡張され、歩道橋があちこちにかけられて、子どもたちが路上から締め出されつつあった。貸本版『墓場鬼太郎』の「ボクは新入生」で、新宿に出かけた鬼太郎親子は、あまりのエ事の騒音に音を上げる。

 鈴木英夫監督の『やぶにらみニッポン」( 1963年・東宝)という映画では、ジェリー伊藤が工事現場の穴に落ちてしまうし、川島雄三の遺作『イチかバチか』(同年) の冒頭では道路工事の影響で銀座は大渋滞、高島忠夫が大いにポヤくシーンがあった。外国からのお客様が来ても恥すかしくないように東京中に工事の槌音が響いていた。

 その〈東京オリンピック〉に間に合うように開業されたのが〈東海道新幹線〉だ。東京ー大阪間を3時間10分で走る″夢の超特急。は、スピード時代の象徴。2、3歳の頃、親戚の叔母から買ってもらったTVのおもちゃの画像は〈新幹線〉だった。横についているハンドルを回すと、絵が動き出すと同時に「新幹線ひかり1号、東京駅を出発しました」とナレーションが聞こえてくる。絵は巻き物状になっており、静岡を過ぎるとすぐに大阪に到着するというあっけないものだったが、繰り返し飽きずに遊んだお気に入りのおもちゃだった。

 新幹線といえば『マグマ大使』をすぐに連想する。宇市の帝王ゴアの放った大怪獣モグネスが出現し、村上記者(岡田真澄)が乗り合わせた新幹線が脱線する。ニュースを聞いた息子・マモル(江木俊夫)はその安否を気遣い、笛を一回鳴らし、ガム(二宮秀樹)とともに現場へ急行する。生まれて初めて新幹線に乗ったとき、僕はモグネスが現れるのではないかと内心ドキドキしていた。

(パート2へ続く)


別冊宝島360「レトロおもちゃ大図鑑」(1998年)掲載原稿を加筆修正しました。

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