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ザッツ・エンタテインメント! MGMミュージカルを支えた人々 アーサー・フリードとその時代 PART5

佐藤利明(娯楽映画研究家)

*1995年レーザーディスク「ザッツ・エンタテインメント !スペシャル・コレクターズセット」のブックレット解説に加筆修正しました。

『雨に唄えば』誕生

 ブロードウェイからの人材を次々とハリウッドに招聘したアーサー・フリードの“ブロードウェイ−ハリウッド・コネクション”は、ついに『雨に唄えば』(1952年)という傑作を誕生させる。

雨に唄えば(1952)予告


 この映画のルーツは、ジョージ・F・カウフマンとモス・ハンターの戯曲“Once In A Lifetime”である。トーキー初期のドタバタをテーマにしたコメディだが、ブロードウェイ出身の脚本家・ベティ・コムデンとアドルフ・グリーンは、ハリウッド黄金時代へのリスペクトを込めて、シネ・ミュージカル化を進めた。さらに二人は、アーサー・フリードとナシオ・ハーブ・ブラウンの『巴里のアメリカ人』(1951年)のようなソング・ブック映画にしようと思いつく。
 『若草の頃』がフリード・ユニットのスタートなら、『雨に唄えば』はその頂点であり、ブロードウェイとMGMのジョイントが実を結んだ記念すべき作品となった。
 “Broadway Melody Ballet”(TE2)のナンバーは、1929〜1940年にかけてMGM名物だった「ブロードウェイ・メロディ」シリーズへのオマージュとなっている。このシークエンスのスタッフは、全てブロードウェイ出身者。べティ・コムデン&アドルフ・グリーン、レニー・ヘイトン、ロジャー・イーデンス、ウォルター・ブランケット、そしてジーン・ケリーの振付補佐をしたキャロル・ヘイニーたち。
 もちろん、ケリーの劇場時代からのパートナー、スタンリー・ドネンが『踊る大紐育』(1949年)に続いて、共同監督をしている。フリードとハーブ・ブラウンの楽曲をロジャー・イーデンスとコムデン&グリーンがアレンジ。
 彼らは東海岸と西海岸の橋渡しを見事に成し遂げ、フリードは自らのソング・ブック映画を完成させることが出来た。この後、フリードはソング・ライター伝記映画のプロデュースをすることがなかった。シグモンド・ロンバーグの『我が心に君深く』(1954年)は、ロジャー・イーデンスの単独プロデュース作品となる。

雨に唄えば(1952年)“Broadway Melody Ballet”

我が心に君深く(1954)予告

フレッド・アステアと『バンド・ワゴン』

 『イースター・パレード』(1948年)で、見事スクリーンにカムバックしたフレッド・アステア。『ブロードウェイのバークレー夫妻』(1949年・未公開)では、往年のパートナーだったジンジャー・ロジャース、『恋愛準決勝戦』(1951年)ではジェーン・パウエル、『土曜は貴方に』(1950年)と『ニューヨーク美人』(1952年)ではヴェラ=エレンと共演。アステアも斬新なアイデアで驚異のダンス・シーンをスクリーンで披露。ジーン・ケリーともどもMGM黄金時代を支えた。
 フリード・ユニットにとっても最大の成功作は、そのフレッド・アステアの『バンド・ワゴン』(1953年)だろう。シネ・ミュージカルの傑作、というばかりではく、フリード・ユニットの「失敗からの成功」の物語でもある。

 オペレッタ志向の強い芸術家・ジェフリー・コルドヴァ(ジャック・ブキャナン)は、センスのかけらもなく、エレガントで洒脱なトニー・ハンター(フレッド・アステア)の存在が、そのスノビズムを批評する。その関係はパステルナックの「クラッシック・スタイル」に対する、フリード・ユニットの「コンテンポラリー」でもある。
 楽曲はハワード・デイツとアーサー・シュワルツ。脚本のコムデン&グリーンは、脚本家のリリー・マートン(ナネット・ファブレイ)とレッサー(オスカー・レヴァント)という狂言回し役のモデルでもある。振付はマイケル・キッド、ミュージカル監督にアドルフ・ドイッチ、セット・デザインはオリヴァー・スミス。そしてヴィンセント・ミネリ監督。

バンド・ワゴン(1953)予告

フリード・ユニットの成果

 MGMはフリード・ユニットを生み出し、フリード・ユニットがMGMに成功をもたらした。他のプロデューサーが製作した作品には、赤字のものもあったが、フリード・ユニットのミュージカルは、常に製作費の250%もの売り上げをキープした。『雨に唄えば』『バンド・ワゴン』などの傑作を生んだ、アーサー・フリードがプロデュースしたシネ・ミュージカルは38本。関わった作品を含めると、実に45本にものぼる。
 MGMミュージカル・スクールと呼ばれるほど、フリードの元に幾多の才能が集まった。彼らの仕事は映画史に残る素晴らしいものばかり。音楽監督では『イースター・パレード』のロジャー・イーデンスがフリード作品のうち、27本を手掛けている。『踊る大紐育』のレニー・ヘイトンは13本、『アニーよ銃をとれ』(1950年)のアドルフ・ドイッチは6本、『いつも上天気』(1955年)のアンドレ・プレヴィンは5本、『イースター・パレード』のジョニー・グリーンは4本担当しており、いずれもオスカー候補にノミネートされたり、オスカーを獲得している。
 『ザッツ・エンタテインメント』の序曲でも演奏される”Over The Rainbow” ”On The Atchison Topeka And The Santa Fe” “The Last Time I Saw Paris” “Gigi”などの名曲はアカデミー主題歌賞を受賞している。
 また『巴里のアメリカ人』でオスカーに輝いた美術監督のセドリック・ギボンズは37本。『グッド・ニューズ』の脚本家から参加したベティ・コムデン&アドルフ・グリーンは、後期フリード作品を7本担当している。
 フリード・ユニットの素晴らしさは『ザッツ・エンタテインメント』三部作に収録されている作品群が証明している。

黄金時代の終焉

 ヴィセント・ミネリ監督の『ブリガドーン』(1954年・T E3)の頃から、テレビに対抗するため映画界には、ワイド・スクリーン、ステレオフォニック・サウンドなど技術革新の波が訪れ、『キスミー・ケイト』(1953年・T E2・3)が3Dで製作された。MGMスタジオも揺れに揺れ、MGM首脳部の交代劇もあって、ミュージカル製作は難しくなりつつあった。
 フリードもジーン・ケリーとスタンリー・ドネンの『いつも上天気』(1955年)やミネリの『キスメット』(1955年・未公開)などを製作。アステアのMGMにおける最後のミュージカル『絹の靴下』(1957年・T E2・3)では、アーサー・フリード・プロダクションを主宰してプロデュースした。アステアが、エルヴィス・プレスリーの英教でロックン・ロールを踊るなど、確実に時代は変わりつつあった。

ブリガドーン(1954)予告


キスミー・ケイト(1953)予告

いつも上天気(1955)予告

キスメット(1955)予告

絹の靴下(1957)予告

フリードの白鳥の歌『恋の手ほどき』

 1958年、レスリー・キャロン、ルイ・ジュールダン、モーリス・シュヴァリエ主演、ヴィンセント・ミネリ監督『恋の手ほどき』(T E1・2・3)は、最優秀作品賞を始め全9部門(名誉賞を除く)のオスカーを受賞。この作品を最後に1928年から30年続いたM G Mミュージカルの時代は幕を閉じることになる。1957年、MGMスタジオは契約俳優とスタッフを大量解雇、映画産業にも陰りが見え始めていた。フリード・ユニットの成功は、永遠には続かなかった。

恋の手ほどき(1958)予告


 1963年、フリードは夢をもう一度とばかりに、最後のプロジェクトを計画していた。それは、前年に引退宣言をしたアメリカを代表するソングライター、アーヴィン・バーリンとその名曲を讃える大作映画の企画だった。フリードはバーリンを伴い、大々的な製作発表も行った。しかしハリウッドは、テレビの台頭によって変容し、撮影所システムは実質的に崩壊し、計画は頓挫。フリード・ユニットは、懐かしい家族のように、想い出の中に閉じ込められてしまった。
 「私は必ずハリウッドに戻るだろう」フリードは晩年のインタビューの一つでこう語っている。「なぜかって?私が見出した連中、アラン・J・ラーナーとフレデリック・ロウ、べティ・コムデンとアドルフ・グリーン、ジュディ・ガーランド、ヴィンセント・ミネリ・・・こんなすごい連中と映画を作ったんだよ。それも全部大成功したのさ!」

第40回アカデミー賞(1968)

アーサー・フリード。本名:アーサー・グロスマン。1894年9月9日生まれ。『ザッツ・エンタテインメント』(1974年)が公開される1年前の1973年4月12日没。


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