見出し画像

ザッツ・エンタテインメント! MGMミュージカルを支えた人々 アーサー・フリードとその時代 PART1


佐藤利明(娯楽映画研究家)


*1995年レーザーディスク「ザッツ・エンタテインメント !スペシャル・コレクターズセット」のブックレット解説に加筆修正しました。

名曲“SINGIN’IN THE RAIN”誕生の瞬間 1929〜1935年

 1929年のある昼過ぎ、作曲家ナシオ・ハーブ・ブラウンはパートナーで作詞家のアーサー・フリードを訪ね、新しいメロディーを聞かせた。やや古めかしいスタイルの、その曲には「スリルとサムシング」があった。しばらくしてフリードはブラウンに「例の曲だけど、ちょっと手を加えれば良くなると思うんだ。僕が作詞をしてみるよ」と話した。しばらくして、その曲は“SINGIN’IN THE RAIN”となった。
 “SINGIN’IN THE RAIN”は『ホリウッド・レヴュー』(1929年・T E1)で、ウクレレ・アイクことクリフ・エドワーズによって正式に発表され、大きな鼻で一世を風靡したコメディアンのジミー・デュランティが『キートンの歌劇王』(1932年・T E1)で歌い、8年後、ジュディ・ガーランドがスゥインギーに『リトル・ネリー・ケリー』(1940年・未公開・T E1)でシャウトした。

ホリウッド・レヴュー(1929)

リトル・ネリー・ケリー(1940)

    やがて1952年。M G Mミュージカルを支えた脚本家チーム、べティ・コムデンとアドルフ・グリーンは、フリードとブラウンの曲をフィーチャーしたシネ・ミュージカルを企画。というのも、アカデミー作品賞を受賞した『巴里のアメリカ人』(1951年・TE1)がジョージ&アイラ・ガーシュウィン兄弟のソング・ブック映画だったこともあり、M G Mミュージカル黄金時代を築いたプロデューサー・アーサー・フリードに、彼のソング・ブック映画をプレゼントしようという発想だった。
 それが、『雨に唄えば』(1952年)だった。M G Mマークが明けて、ジーン・ケリー、デビー・レイノルズ、ドナルド・オコナーが土砂降りの中で歌うオープニング(T E1)の楽しさは、映画史上屈指のアイコンとなり、名場面の一つとなった。


雨に唄えば(1952)

 M G Mミュージカル王国を作った男・アーサー・フリード。ヴォードヴィル芸人、キャバレーやブロードウェイ・ショウの脚本家を経て、ハリウッドのオレンジ・グローブ劇場の支配人となる。トーキー勃興期のMGMスタジオの門を叩いたフリードは、スタジオ専属の作詞家として、『ザッツ・エンタテイメントPART2』の『ソングライターズ・レビュー』(1929年・未公開)でも紹介されているように、相棒のナシオ・ハーブ・ブラウンとともに、およそ10年に渡って、ソングライターとして活動する。1930年代のM G Mミュージカル『虹の都へ』(1933年)に、ビング・クロスビーの“Temptation”(TE2)を書き、『踊るブロードウェイ』(1935年)では”You Are My Lucky Star”や”Broadway Rhythm”などの名曲を次々と提供、ソングライター、脚本家、ミュージカル・シーンのアイデアマンとしても活躍。しかし作詞家としての活動はあくまでもフリードにとってワン・ステップに過ぎなかった。

虹の都へ(1933)♪Temptation

踊るブロードウェイ(1935)♪You Are My Lucky Star

それは『オズの魔法使』から始まった 1939年

 1938年、M G Mスタジオのトップ、ルイス・B・メイヤーはフリードをテクニカラー・ミュージカル大作『オズの魔法使』(1939年)のアソシエイト・プロデューサーに任命する。すでに1903年にブロードウェイで上演されていた、ライマン・フランク・ボームの童話を、全く新しい、映画のためのミュージカルとして製作するM G Mの意気込みには相当なものがあった。
 その背景には、ディズニー初の長編テクニカラー漫画映画『白雪姫』(1937年)の大ヒットの影響もあった。製作日数は当時としては破格の108日。製作費はなんと276万9,230ドルと3セントだった。キャストの変更、相次ぐ監督の交代など、スタジオにとってもリスキーなプロジェクトだったが、ついに完成。フリードはノン・クレジットだがその舞台裏を支えていた。
 試写の評判で、テンポが遅いという理由で首脳陣により、ジュディ・ガーランドの主題歌“Over The Rainbow”(TE1)がカットされそうになった時、フリードは「この曲をカットすると、作品のパワーが半減する」と強硬に反対した。フリードの言葉は、作曲のハロルド・アレンと作詞のイップ・ハーバーグが、1939年度アカデミー最優秀主題歌賞受賞で証明された。


 アシスタントとしてスタートしたフリードのプロデューサー人生だが、ルイス・B・メイヤーは、ロジャース&ハートのブロードウェイ・ミュージカルの映画化『青春一座』(1939年)のプロデューサーにアーサー・フリードを抜擢する。ジュディ・ガーランドとミッキー・ルーニーの青春コンビによる「裏庭ミュージカル」だった。ハイスクール生のミッキーが、ガールフレンドのジュディや級友たちと「ミュージカルを作ろう!」と、懸命にステージを成功させる。いわゆるハイティーン向けの青春映画だが、『オズの魔法使』で人気絶頂のジュディと、「アンディ・ハーディ」役で国民的アイドルだったミッキーの顔合わせは大成功で、以後『ストライク・アップ・ザ・バンド』(1941年・未公開)、『ガール・クレイジー』(1943年・未公開)と次々とコンビ作が作られた(T E1・T E2)。
 それらの「裏庭ミュージカル」のミュージカル・シークエンスを支えたのがバズビー・バークレイ監督である。バークレイはもともとブロードウェイの演出家で、1930年代初めにサミュエル・ゴールドウインにハリウッドに招かれ、エディ・キャンター主演のミュージカル喜劇の舞踊監督として活躍後、ワーナーへ移籍。『四十二番街』(1933年)や『フットライト・パレード』(1933年)などの、万華鏡のようなスペクタクル・シークエンスは、それまでレビュー・ショウ丸撮りの感があったシネ・ミュージカルに一大変革をもたらした。
 青春ミュージカルとはいえ、異才・バークレイと組んだフリードは次々と映画をヒットさせ、ジュディ・ガーランドをトップ・スターにした。低予算で高収益を上げる「裏庭ミュージカル」の功績で、フリードはプロデューサーとして、成功の階段を着実に昇り始める。

ブロードウェイからハリウッドへ 1940〜1943年

 新人プロデューサーのフリードを支えたのが、優秀なスタッフたち。最も信頼を置いたプロデューサーが作曲家であり、M G Mの音楽監督出会ったロジャー・イーデンス。バズビー・バークレイもそうだが、フリードは外部の才能を取り入れることに長けていた。
 1930年代M G Mで、クイーン・オブ・タップと呼ばれた天才的ダンサー、エレノア・パウエル主演の『レディ・ビー・グッド』(1941年・未公開)は、フリードにとっても初の大作映画。パウエルのスペクタクル・ナンバーをバークレイに演出させるという戦略は、見事に成功した(T E2・3)

 のちにフリード・ユニットと呼ばれる精鋭メンバーのほとんどが、ブロードウェイで活薬中の逸材ばかり。当時、ニューヨークからパサディナ行きの急行列車には、次から次へとM G Mミュージカルに参加する演劇人が乗りこんでいた。
 ジーグフェルド劇場やラジオ・シティ・ミュージック・ホールの美術監督出身の演出家・ヴィンセント・ミネリ、衣裳デザイナーのアイリーン・シャラフ、脚本家のフレッド・ウィンクルホフ、ガイ・ボルトン、それにミュージカル演出家のアドルフ・ドイッチとレニー・ヘイトンがいた。
 フリード・ユニットと呼ばれることになるチームの筆頭となるジーン・ケリーは、ブロードウェイ・ミュージカル「パル・ジョーイ」で頭角を現した人気ダンサーだった。実は、最初、20世紀フォックスのデビッド・O・セルズニックに招聘されてキャメラテストを受けていた。そのフィルムを観たフリードは、ケリーの健康的なルックスと類稀なるダンスの才能に注目。結局、金銭トレードでM G Mはケリーと契約を結ぶことに。
 1942年、スタジオがチャーターしたリムジン列車には、ジーン・ケリーが乗車しており、彼のアドレス帳には、親友でコーラス・ダンサーのスタンリー・ドネン、ダンサーで振付師のチャールズ・ウォルターズ、ダンス監督のロバート・アルトン、劇作家コンビのべティ・コムデンとアドルフ・グリーン、ソングライターではヒュー・マーチンとラルフ・ブレインらの名前がずらりと記載されていた。フリードはすぐに、全員を呼んで契約することにした。

世界大戦とミュージカル 1943年

 フリードが声をかけた逸材たちは、1940年代から50年代にかけて、M G Mミュージカルのスターとして、監督として、コレオグラファーとして主力をなしてくる。時はあたかも第二次世界大戦。戦地に赴く兵士の慰問や、本国に残された家族の気持ちを慰撫し、国債を購入させる目的からも、オールスターのミュージカル映画が数多く作られていた。
 ワーナーの『ハリウッド玉手箱』(1944年)、ユナイトの『ステージ・ドア・キャンティーン』(1944年・未公開)、パラマウントの『スタア・スパングルド・リズム』(1942年・未公開)・・・。フォックスの『ピンナップ・ガール』(1944年・未公開)のべティ・グレイブルの、B 29の機体にも描かれたナイスバディが兵隊の心を慰撫し、チーズケーキのような肢体のダンサーたちや、ブロンド歌手のスマイルが戦地の兵士たちを慰め、市民にもオールスター映画は格好の現実逃避、エスケープ・ムービーだった。国策映画にはミュージカル映画はもってこいだった。
 アーサー・フリードもブロードウエイの若手スターだったジーン・ケリーのハリウッド・デビューのために、大人の魅力も漂い始めたジュディ・ガーランドを相手役にして、第一次大戦を舞台にした『フォー・ミー・アンド・マイ・ギャル』(1942年・未公開・T E2・3)をプロデュース。監督は、引き続きバズビー・バークレイ。
 20歳を迎えたばかりのガーランドは、ケリーにとってはスタジオの大先輩。映画初出演で緊張気味のケリーを、励まし、フォローしたという。


 さて、時局柄、M G Mスタジオは、黒人兵慰問の意味もあって、オール黒人キャスとのミュージカルを制作することに。同時期、20世紀フォックスでは、リナ・ホーン、ビル“ボージャングル”ロビンソン、キャブ・キャロウェイ、ファッツ・ウォーラーなど、黒人エンタテイナー勢揃いの慰問映画『ストーミー・ウエザー』(1943年)を製作している。それまで、ハリウッドが無視してきたブラック・パワーと真剣に取り組まなければならなくなってきたのだ。

 そこでフリードは、1940年にブロードウェイで大ヒットしていたミュージカル「キャビン・イン・ザ・スカイ」の完全映画化を企画した。舞台に出縁していたエセル・ウォルターズ、演出家のヴィンセント・ミネリは、この作品のためにハリウッドに招聘された。
 同時にミネリが、ニューヨークで目をつけていた美人歌手のリナ・ホーンもM G Mと契約。彼らの腕慣らしを兼ねて制作したのが、コール・ポーターの同名舞台の映画化『パナマ・ハッティー』(1942年・未公開)だった。アン・サザーン、レッド・スケルトン主演の低予算ミュージカル喜劇だが、ポーターの“JUST ONE OF THOSE THINGS”をチャーミングに歌うリナ・ホーン(T E3)に、観客は釘付けとなった。

 リナの歌のシーンを演出したのが、ヴィンセント・ミネリ。さらにエセル・ウォルターズのお披露目として、スパイ映画『カイロ』(1942年・未公開)で、“BUDS WON’T BUD“を歌うシーンが挿入された。


 それだけ周到な準備をして『キャビン・イン・ザ・スカイ』(1943年・未公開・T E1・3)の撮影がスタートした。MG Mでは、オール黒人キャストは1929年のキング・ビドァ監督のミュージカル映画『ハレルヤ』以来のこと。
 フリードは、メインキャストに加えて、ルイ・アームストロング、デューク・エリントンといったジャズ・ミュージシャン、タップ・ダンサーのバッグス・バブルスらをキャスティング。さらに、とぼけた味のエンタティなー、エディ・“ロチェスター”・アンダーソンをエセル・ウォルターズの相手役に迎えた。こうして、ヴィンセント・ミネリ監督の喜年すべきデビュー超大作が完成。ちなみにドラマ部分は、ヴェテラン監督のアンドリュー・マートンが、ミネリの演出補佐をしている。


  フリードは引き続き、時局コメディ『アイ・ドゥード・イット』(1943年・未公開)にヴィンセント・ミネリ監督を抜擢する。これはエレノア・パウエルとレッド・スケルトンの主演で、プロダクション・ナンバーは『踊るアメリカ艦隊』(1936年)のクライマックスを流用した低予算作品だった。それでもミネリは、パウエルに投げ縄スタイルでタップを踏ませたり、ジャズ・ピアニストのヘイゼル・スコットとリナ・ホーンによるスペクタクル・ナンバー“JERICHO”を挿入。ブロードウェイの演出家らしいバランス感覚で、優れたエンタテインメントをバラエティ・ショウとして扱う、フリード・ユニットの特長がここにある。


  1930年代から40年代半ばにかけてのミュージカル映画は、いわば「芸人ミュージカル」ともいうべきもので、華麗なテクニックを持つダンサーや、美しい歌声の歌い手のパフォーマンスを主軸に置いた音楽映画中心だった。
 やがて、ドラマチック・ミュージカルともいうべきジャンルが、フリード・ユニットから生まれることとなる。(PART2へと続く)


よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。