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 田村泰次郎原作「肉体の門」は、戦後間もなくセンセーショナルな話題と共にベストセラーとなった風俗小説。昭和22(1947)年5月に風雪社から出版され、11月には劇団「空気座」で舞台公演が行われている。このときの脚色は小澤不二夫。伊吹新太郎役には田中実(後の田崎潤)が演じ、昭和23(1948)年に吉本映画でマキノ正博監督によって映画化されている。ちなみにこの時の関東小政(浅田セン)には轟夕起子、ボルネオならぬ山猫マヤには月丘千秋、伊吹新太郎には舞台版と同じ田中実が演じていた。

 焼け跡のニッポンで生活のために春をひさぐ女性達の生態をナマナマしく描いた小説、舞台、映画は一大ムーブメントを興し、エログロ趣味が横溢し、カストリ雑誌が撩乱していた時代の象徴ともなっている。

 都合五回映画化されている『肉体の門』の二度目の映画化が、昭和39(1964)年5月31日に封切られた鈴木清順監督による本作である。東京オリンピックを控え、戦後の総決算的な気分に溢れていた高度成長まっただなかの頃。戦後ニッポンの原点ともいうべき『肉体の門』を鈴木清順がどう描いたか。前作『悪太郎』で初めてコンビを組み、以後清順映画には欠かせない美術の木村威夫が創出した敗戦間もない東京の風景。大胆な色彩感覚で色分けされたヒロインたち。豊かなイメージで紡ぎ出される清純版『肉体の門』はエポック的な作品となった。

 日活マークに流れる空襲のイメージ。タイトルバックに描かれる戦災を受けた人々の姿。主人公たちが体験した「戦争」を観客に提示し、タイトル開け、モンペ姿のヒロイン、ボルネオ・マヤが有楽町界隈を歩いているところから映画は始まる。流れているのは「♪星の流れに」。パンパンと呼ばれる夜の女たちが、警察の刈り込みを受けて連行されていくショットがスローモーションで捉えられる。この「星の流れに」は、昭和22年に菊地章子が歌って大ヒットした清水みのる作詞、利根一郎作曲の流行歌。「こんな女に誰がした」とは、夜の街角で生活のために娼婦となっていた女性の心情をうたったもの。

 ボルネオ・マヤを演じたのは、本作が映画デビューとなった野川由美子。撮影当時18歳の大抜擢だったが、体当たりの演技は後に大女優となる彼女の大器を感じさせる。焼け跡、焦土と化したニッポンで、何もかも失い、その貞操すらも米兵に奪われてしまったヒロインの悲しみ。そして体一つで、生き抜いていくパワフルさ。彼女が娼婦となって、次第に精気がみなぎっていくプロセス。

 マヤの仲間たちも実にチャーミングだ。自分たちには「愛」は必要がない。「肉体」は生活の糧だといいきかすリーダーの関東小政こと「せん(=赤)」を演じた河西郁子(かさいさとこ)の圧倒的な魅力。日活のフレッシュな若手として活躍していた松尾嘉代の「ジープのお美乃(=紫)」。ユーモラスでどこか愛嬌のある石井富子の「ふうてんのお六(=黄)」。そしてマヤは緑と、色分けされた彼女たちのなかで、黒の着物を着ている町子だけが異質である。町子には富永美沙子。彼女は貞淑な人妻に見えるが、セックスの喜びを知っている唯一の女でもある。町子は「男と女の関係はカラダだけ」と肉体の喜びを知っている。それがやがて不協和音となり、リンチへと発展する。

 そうした女たちの前に現れた「野獣のような男」伊吹新太郎。宍戸錠の鍛え抜かれた肉体とギラギラした男性の魅力は、彼女たちの共同体に「生命力」をもたらす。傷ついた体を彼女たちの塒で癒し、復活していくプロセスはハードボイルド的でもある。

 共産党の「♪インターナショナル」が流れるなか、なぜか銀座界隈にあるという設定の米軍キャンプへ、洋パン(外国人専用パンパン)たちを運搬する男たち。かつて敵だった米兵と寄り添う事で生計を立てるという皮肉。そうした卑屈な男たちに対し、「リンゴの唄」を口ずさみながら、はち切れそうな肉体を売って生きていく女たちの生命力。

 後半、新太郎が荷車の牛を掠奪してきて、屠殺するシーンにあふれる「生命力」。このクライマックスの宴で、伊吹がうたう「♪麦と兵隊」の哀切さ。戦争文学を歌にした「麦と兵隊」は、兵隊愛唱歌として親しまれたもの。そこに幽霊のように現れるマヤの兄のイメージ。その伊吹とマヤが初めて「愛」を確認するシーンは、男と女の体液をどう表現するかを宍戸や、監督たちでディスカッションしたという。

 ラスト近く、伊吹がふと視る母子のイメージショットは、木村威夫のアイデアによるもの。翩翻とひるがえる星条旗。チコ・ローランドの牧師の挿話。随所にちりばめられたユーモア。『肉体の門』は鈴木清順=木村威夫コンビのベストワークの一つといえるだろう。

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