『エノケンの青春酔虎傳』(1934年・山本嘉次郎)


 さて『青春酔虎傳』は、エノケンにとっても山本にとっても、初めてのトーキーであり、しかも音楽レビュー映画。「それまでのトーキーでは、音楽や舞踊の場面は、いつもセットにきまっているので、この映画では野外で歌ったり踊ったりさせたいと考えた」(「カツドオヤ紳士録」)という。

 エノケンと山本が目指したのはハリウッド映画のカレッジ・コメディ。特に、エノケンと風貌も良く似ていた、ブロードウェイ出身の人気コメディアン、エディ・キャンターの映画を意識していたと思われる。


 キャンターは、ブロードウェイの名プロデューサー、フローレンツ・ジーグフェルドのレビュー「ジーグフェルド・フォーリーズ」の大スター。「フーピー」というヒット作を引っさげてハリウッド映画に出演。一九三〇年に作られた映画版『フーピー』は、ハリウッドの大プロデューサー、サミュエル・ゴールドウインが製作したカラーの大作ミュージカル。トーキー三年目にしてカラーというところに、キャンターの大物ぶりがわかる。その後もゴールドウインのもとで、『突貫勘太』(一九三一年、昭和八年二月公開)や『カンターの闘牛士』(一九三二年、昭和八年八月公開)などのミュージカル・コメディに出演。エノケンが映画を志向したこと、キャンター喜劇は次々と日本で公開されていた。


 エノケンと山本が、明らかにキャンター喜劇を意識していたのは『青春酔虎伝』に登場する楽曲からも判る。
 オープニング、キャンパスから出てきた女子学生たちと、カレッジ・ユニフォーム姿のエノケン、二村定一、そして如月寛多が歌い出すのは「(My Baby Sayd)
Yes.Yes」。山本のエッセイに描かれているようにオープンエアで歌い踊るミュージカル場面である。この「Yes.Yes」という曲。コン・コンラッド作曲による『突貫勘太』の主題曲でもあり、オリジナルではクライマックスで、映像の魔術師と呼ばれるバズビー・バークレイが演出した絢爛たるシーンである。そのクライマックスに登場した曲から始まる『青春酔虎傳』には、エノケンと山本の本格的な音楽映画に対する強い思いが感じられる。


 夜の学生寮。卒業試験を前に「♪試験の勉強、ものすごい大変〜」とエノケンが歌う「ボクはユーウツだ」という曲もまた、キャンターの『フーピー』の「My Baby Just Cares For Me」(ウォルター・ドナルドソン作曲)というナンバー。この「My Baby Just Cares For Me」はエノケンの十八番でもあり、後の『エノケンの頑張り戦術』(一九三九年、中川信夫)でも「防弾チョッキ」会社のPRソングとして歌っている。


 劇中、エノモトが深窓の令嬢とお見合いをするシーン。開場して間もない東京宝塚劇場のステージの威容がスクリーン一杯に写される。昭和九年の東京の最新風俗を巧みに織り込んで、『ほろよひ人生』以上のモダンな都会派コメディが完成した。


 エノケンのジャズソングや、映画的ギャグもさることながら、観客を驚かせたのはそのアクション。クライマックス。親友の二村定一がオープンした銀座のビヤホールで、悪漢たちとエノモトが繰り広げる格闘場面。吹き抜けのセットを縦横に使って、その後のジーン・ケリーやジャッキー・チェンもかくやの身のこなしを見せてくれる。


 山本の回想によると、天井に釣ったシャンデリアにエノケンが二階の欄干から飛び移るシーンで、「シャンデリヤ(ママ)に塗ったペンキが乾いておらず、つかんだ手がヌルリと滑って、六七米もある高さから、コンクリートの床の上に、真っ逆さまに叩きつけられてしまった。」(『カツドオヤ紳士録』)という。


 エノケンはそのまま脳震盪を起こして病院に運ばれたが、キャメラの唐沢弘光は、その瞬間から担ぎ出されるまでをクランク(撮影)していた。完成した映画にもそのシーンは使われている。映像で確認してみると、確かにシャンデリアをつかみ損ねて、エノケンは落下。しかしその後、編集で何事もなかったかのように、アクションは小気味よいカッティングで続いてゆく。エノケンの運動神経と身のこなしの鮮やかさ。山本嘉次郎のリズミカルな編集によって、舞台での姿を知らぬ後の世代にも、エノケンの体技の素晴らしさがわかる。


 それまで、浅草、新宿の舞台でのみしか見ることができなかった「本物のエノケン」が映画というメディアによって、全国のファンを獲得していった。エノケン映画の登場で、エノケンは文字通り「昭和の喜劇王」の道を歩むことになるのである。

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