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『幕末太陽傳』(1957年・川島雄三)


                     佐藤利明(娯楽映画研究家)

フランキー堺が駆け抜けた川島映画

フランキー堺という不世出のコメディアンのベスト・パフォーマンスをフィルム焼き付けたということでも、『幕末太陽傳』は、日本の喜劇映画史上に残る傑作として認知されている。落語の「居残り」をベースに、「品川心中」「三枚起請」などを巧みに盛り込んだシナリオの妙。「太陽族」ブームを巻き起こし、再開日活の新しいドル箱となった石原裕次郎、そして小林旭、二谷英明らを「幕末太陽族」と見立てたセンス。まるで落語の主人公が抜け出してきたような、フランキー堺の抜群の動き。この映画の翌昭和33(1958)年に、施行されることになる売春防止法で消えてしまう遊郭への哀惜。イキイキとした登場人物たちの狂騒曲と、ドライな中に垣間見える人情と風情・・・ 戯作者・川島雄三の魅力のすべてが凝縮されている文字通りの傑作である。

 業病といわれた結核を患いながら、その転地療養を決め込んで「居残り」稼業を天職のようにこなした左平次。咳もひどくなり、狂騒曲から一転、画面全体にシンとした死の匂いが漂い始めるラストシークエンス。市村俊幸の田舎大尽、杢兵衛に墓案内を頼まれた左平次が、墓石につまずきながら駆け抜けて行くのがラストカットとなるが、川島はさらなる展開を考えていた。墓から街道に出たフランキー堺が、そのまま撮影所のステージから抜け出し、タイトルバックにも紹介された、現代の品川へと走り抜けるというアイデアだった。しかし、リアリズムにこだわるキャストやスタッフは反対。その説得には、助監督だった浦山桐郎から頼まれたフランキー堺自らがあたったという。しかし、貸本屋の金ちゃんを演じた小沢昭一は、川島のアイデアに賛同。左平次が現代の北品川カフェー街にあらわれ、娼婦スタイルの左幸子や南田洋子、貸本屋の小沢が、唖然と見送る予定だったという。

 労咳を背負いながら左平次は「首が飛んでも動いてみせまサァ」とうそぶくニヒリストでもある。死の影におびえながら、すべてを洒落のめし、粋人として人生を駆け抜けた左平次に、進行性筋萎縮症という病気を抱えながら、生きいそいだ川島雄三のイメージをダブらせる人も多い。

 この『幕末太陽傳』を最期に、川島は日活を退社。活動の場を東宝傍系の東京映画へと移すことになる。昭和30(1955)年3月公開の『愛のお荷物』から二年半の間に、日活に残した作品は9本。退社の理由については諸説あるが、石原裕次郎の人気による製作路線の変更。東宝系のプロデューサー滝村和男による移籍へのラブコール。川島自身の新天地への意欲もあって、移籍を決意したと思われる。

 東京映画で手掛けた最初の作品は、原節子、久我美子、香川京子といったトップ女優が顔をそろえた女性映画『女であること』(58年)。やはり日活を退社したばかりの、川島組の常連である三橋達也も出演している。続く『暖簾』(58年)は、やはり東宝傍系の宝塚映画の製作で、プロデューサーは滝村和男。大阪の老舗の佃煮屋創業者父子を森繁久彌が好演。余談だが、森繁は日活の『銀座二十四帖』(55年)で「歌とジョッキー」を担当し、挿入歌「銀座の雀」を披露。『暖簾』は前半、しっとりとした文芸映画の香りを出しつつ、後半、戦後の息子の世代になると喜劇映画的なユーモアをちりばめた娯楽作品となった。

 この昭和33年には、フランキー堺も川島の後を追うように日活を退社。森繁、伴淳三郎との『喜劇 駅前旅館』(58年)に始まる「駅前シリーズ」で、東宝のスクリーンの顔となる。移籍の理由は「川島雄三の映画に出たかったから」。

 そのフランキー堺が久々に出演したのが、飯沢匡作の喜劇『グラマ島の誘惑』(59年)だった。川島としても初のカラーワイド作品で、森繁とフランキーが演じたのは、宮様の兄弟。太平洋の孤島を舞台に痛烈な天皇制と民主主義をカリカチュアした傑作喜劇となった。こうしたシチュエーション・コメディは、松竹の『シミキンのオオ!市民諸君』(48年)以来でもあり、戯作者としての才気煥発で、コマ落としなどのサイレント喜劇の手法なども多用。三橋達也はターザンのような半裸の現地人をユーモラスに演じていた。

 フランキー=川島コンビは、藤本義一が助監督としてついた風俗喜劇『貸間あり』(59年)、スラップスティック要素あふれる『人も歩けば』(60年)、『赤坂の姉妹 夜の肌』(60年)、『縞の背広の親分衆』(61年)、『特急にっぽん』(61年)など、さまざまな作品を生み出すことになる。特に、小品ながら評価される機会の少ない『人も歩けば』のユーモアは、喜劇作家としての川島雄三の資質が随所に現れる佳作である。また『赤坂の姉妹 夜の肌』での、ただひたすら調子の良い、しかし悪気はまったくない詐欺師的な、新珠三千代の内縁の夫は、フランキーの持つ「得体の知れなさ」の魅力に溢れている。その「得体の知れなさ」は、『幕末太陽伝』の左平次を彷彿とさせる。

 余談だが、そのフランキーの持つ『幕末太陽伝』のイメージと、「得体の知れなさ」を、現代に置き換えて作られたのが植木等の『ニッポン無責任時代』の原案である「無責任社員」。脚本家の田波靖男がフランキーのために暖めていた企画を、「スーダラ節」でブレイクした植木等が演じ「クレージー映画」というジャンルがスタート。川島の遺作となった城山三郎原作『イチかバチか』(63年)は、そのクレイジーキャッツのハナ肇と谷啓が出演。『ニッポン無責任時代』に始まるドライ喜劇の延長線上として企画されたものだった。

 さて、東京映画在籍のまま大映に招かれた『女は二度生まれる』(61年)、『雁の寺』(61年)、『しとやかな獣』(62年)の若尾文子の艶かしさは、川島映画のヒロインの特徴でもある成熟した「おとなの女性」の集大成の感もある。

 池内淳子をヒロインに、バーのマダムをつとめながら男運に恵まれなかった女性の「死」の直前を描いた『花影』(61年)は、名手・岡崎宏三のキャメラの見事さが印象的だが、作品全体を貫く「死」のイメージが強烈である。

 山本周五郎原作の『青べか物語』(62年)、獅子文六原作の『箱根山』(62年)、駅前シリーズに対抗して企画された「職人」シリーズ第一作『喜劇 とんかつ一代』(63年)と、文芸作からプログラムピクチャーまで、さまざまなタイプの企画をこなしていったが、いずれも風俗喜劇、シチュエーション・コメディとしてのクオリティは高い。喜劇人やベテラン俳優を自在に使いこなす川島映画の充実ぶりがフィルモグラフィからも伺える。

 その間にも病気の進行は進み、症状を緩和させるための薬を常用しつつ、夜のバーで過ごす状況は変わらなかった。「生きるための薬です」と川島は酒席でも薬を服用していたという。『貸間あり』の助監督として川島に師事した作家の藤本義一による「川島雄三、サヨナラだけが人生だ」(河出書房新社)所載の小説「生きいそぎの記」に、東京映画時代の川島の姿が活写されている。

 昭和38(1963)年6月11日。新作『イチかバチか』の公開5日前、普段と同じように銀座のバー「エスポワール」で過ごし、東京都港区芝公園にあった日活アパートの自室で床に入ったまま、川島雄三は還らぬ人となった。枕元には、企画中であった『寛政太陽傳』のための資料が拡げられたままだった。その資料を検討している姿勢のまま息を引き取ったという。

 その『寛政太陽傳』のタイトルは、昭和38年の東宝映画のラインナップに「駅前シリーズ」の新作などと共に、燦然と輝いている。主演の写楽を演じる予定だったフランキー堺は、その映画化のために奔走。川島雄三の意志を継いで、ライフワークともいうべき『写楽 Sharaku』を1995年に完成させた。

 川島雄三のメガホンで、品川宿を駆け抜けた左平次ことフランキー堺は、監督と共に東京映画に移籍し、川島とともに映画人生を駆け抜けた。フランキー堺が亡くなったのは、ちょうど『写楽 Sharaku』を完成させた一年後の1996年6月10日。川島雄三33回忌の前日のことだった。

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