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『還って来た男』(1944年・川島雄三)

川島雄三のデビュー作!

 川島雄三監督。戦時中から戦後日本映画黄金時代にかけて、松竹、日活、東宝(東京映画)、大映の各社で、戯作精神溢れる娯楽映画を次々と発表。昭和38(1963)年、ハナ肇と伴淳三郎のピカレスク喜劇『イチかバチか』公開直前の6月10日に急逝。山口瞳のユーモア小説「江分利満氏の優雅な生活」の映画化直前のことだった。

 大正7(1918)年2月4日。青森県下北郡田名部町に生まれ、明治大学専門部文芸科在学中に映画研究会に所属、卒業後に松竹大船撮影所監督部に入所。これが初めてとなる助監督公募で、二千人の応募者のなかから最後の八人に選ばれた。助監督時代は、大庭秀雄、島津保次郎、吉村公三郎、小津安二郎、野村弘将、木下惠介に師事。戦時下の昭和19(1944)年、監督昇進試験を首席合格して、手掛けたのがデビュー作『還って来た男』。

 原作・脚本は織田作之助。もとは「四つの都」と題していた織田作のオリジナル・シナリオ。織田作は川島より5歳年上で、大阪市南区生玉前町、現在の天王寺区上汐4丁目に生まれた生粋の大阪っ子。昭和10(1935)年頃から、劇作家を目指して戯曲、小説を執筆。処女作「雨」は武田麟太郎の目に留まり、高い評価を受ける。その後新聞記者を経て、昭和14(1939)年、「俗臭」で芥川賞候補に、同年7月「夫婦善哉」で本格的作家となる。

 青森生まれの川島は、大阪の町場の風俗を、男女の機微を描く織田作之助に憧憬を抱いていた。この『還って来た男』は、大阪、京都、奈良、名古屋を舞台に、マレーで軍医をしていた中瀬古庄平(佐野周二)が内地へ還って、父・庄造(笠智衆)のすすめるお見合いまでの一週間を、微苦笑のなかに描いている。戦時下にもかかわらず、リベラルな空気が全編に漂っている。明朗で快活な佐野周二の主人公は、ちょっと風変わり。持論を喋りだすと止まらなくなる。すこぶる好人物。

 昭和19(1944)年6月28日完成とタイトルにある。6月15日には、米軍がサイパンに上陸、北九州八幡にB 29による初の本土空襲が始まっていた。太平洋ではマリアナ沖海戦で日本は劣勢となっていた。この年の秋からは本土空襲が本格化、翌、昭和20(1945)年3月10日には東京大空襲、3月12日には名古屋大空襲、3月13日には大阪大空襲で、無辜の市民の命が失われることとなる。

 この頃、映画は時局迎合を余儀なくされ「国民精神総動員」をスローガンに、ホームドラマでも「忠君愛国」の美名のもとに自己犠牲を奨励する教条的な作品ばかり。脚本はクランクイン前に、内務省の検閲を受け、登場人物の行動やセリフがいちいちチェックされ、時局にそぐわないものは「却下」「差し戻し」を受けた。時局に迎合しているかどうか、それだけに腐心しているものばかり。

 この『還って来た男』も、マレー帰りの軍医が、現地で貧しい子供たちが満足な医療を受けていないことに気付いて、内地で施設を作ろうと猛然と決意をする。父のすすめる見合いを受け、戦地で治療した般山上等兵(山路義人)の健康を気遣い、困った人を助ける。父を亡くしてハワイから交換船で帰国した辻節子(三浦光子)は、最初派手な出立ちのお嬢さんだが、最後には軍需工場に住み込みで勤めて国のために増産に励む。

 さらに、元船乗りで気ままに生きて来たレコード屋の親父・矢野鶴三(小堀誠)は、それまでの人生を反省し、小学生の息子・新吉(辻照八)を名古屋の軍需工場に働きに出し、最後は店を畳んで娘・葉子(文谷千代子)とともに、自分も名古屋の工場で働くことに。

 また南方帰りの新聞記者・峰谷重吉(日守新一)も、意中の国民学校教師・尾形清子(草島競子)が南方での勤務試験を受けていることを知ると応援する。庄吉の見合いの相手は、誰からも慕われている国民学校の教師・小谷初枝(田中絹代)で、子供たちを思いやり、明日の日本を担う小国民を立派に育てている姿を描いている。

 とまあこんな感じで、登場人物の行動は、国策に沿ったものなので、検閲では問題がない。このままだと、時局迎合の国民精神教育映画となる。ところが、完成作品を見ると、全編を漂うユーモア、登場人物の行動原理、さわやかな恋、そしてささやかな楽しみと、人生の喜びに溢れていて、戦時下の映画とは思えないほどリベラルである。

 マレー帰りの庄吉(佐野周二)が大阪への汽車で洋装の美人と出会う。彼女はハワイ帰りのお嬢さん・節子(三浦光子)で、二人で仲良く将棋をする。その翌日、奈良の大仏見物に行った庄吉は、またしても節子にバッタリ。節子は運命を感じて、庄吉にほのかな思いを抱く。節子と庄吉の運命の再会は、二度、三度重なり、ほとんどラブコメ的な展開。様々な登場人物が、どこかで繋がっていて、それが見ていて心地よい。

 ハワイ帰りの節子、レコード屋の娘・葉子、戦死した親友の妹・清子、そして国民学校の教師・初枝。松竹大船作品らしく、誰もが庄平に心をときめかせる。まるでハリウッドのスクリューボールコメディのようなテンポの良さ、細かいカットを重ね、大胆な省略をしながら、庄平の明るく魅力的なキャラクターを際立たせていく。

 面白いのは、庄平の見合いの相手が誰か?を最後の最後まで伏せておいて、鮮やかなオチとして用意している。結果的に見合いをするだけで、ちゃんと出会いがあって、お互いに惹かれ田上で結婚を決意する。つまり恋愛映画でもあるのだ。

 若い頃から好き勝手やって船乗りになった、レコード屋の親父も、その日々を反省して国のために身を捧げる行動に出るのだが、むしろ自由人としての描写にウエイトが置かれていて、小堀誠のユーモラスな演技で、観客は救われる。頑固親父の設定なのに、どうしても好人物に見えてくる。

 川島映画の常連となる日守新一の新聞記者も風変わりで楽しい。さまざまなサイドストーリーが、どれも微笑ましく、楽しく描かれているので、戦時下の映画とは思えない。ハリウッドのコメディを見るような快作となっている。

 織田作之助原作・脚本らしく、京阪神のおっとりとした文化風俗の匂いも全編に漂う。いつも雨に悩まされている「夜店出し」のおじさんも町場のアクセントとなっている。ラブコメディであり、スクリューボールコメディであり、ユーモア映画でもある時局迎合映画。前年の木下恵介のデビュー作『花咲く港』とともに、戦時下の明るい光のような佳作である。

 昭和20年3月8日、東京大空襲の二日前、川島雄三は織田に「戦争が終わったら、軽佻派を立ち上げよう」と手紙を出している。川島と織田の映画と小説による「軽佻派」。考えただけでもワクワクする。川島は「日本軽佻派」を意識して、その後も戯作精神溢れる映画を作り続けていくこととなる。一方、織田作之助は、戯作派として文壇の期待を集めるが、敗戦後、昭和21(1946)年12月に33歳の若さで病没。川島雄三は気鋭の監督として戦後を駆け抜けていくことになるが、昭和31(1956)年、織田作之助の『わが町」を日活で映画化、生涯の代表作の一つとなる。



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