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娯楽映画の昭和史〜渥美清の肖像 喜劇人と国民的シリーズの間で

渥美清のルーツ
 渥美清こと田所康雄が生まれたのは昭和3年3月10日。東京市下谷区下谷車坂町。尋常小学校に上がる頃、昭和11年に板橋区志村清水町に転居。かつて地方紙の記者をしていた父・友次郎は病気で臥せており、家計は母・多津が内職をして支えており、暮らし向きは楽ではなかった。

 「学校での田所は、勉強を全然しなかった。体育の時間に雨が降ると、みんなが一人一人前に出て芸をやることがあった。田所は、あの頃から映画の『寅さん』と変わらない口調で落語をやるので、みんなはゲラゲラ笑った」(同級生・田伏昭二氏)。

 そうした時代に、小学校を卒業した田所少年は、卒業記念の寄せ書きに「がんばれ ふんばれ されどいばるな」と記した。三年、四年に長期病欠していたy康雄は、ラジオで徳川夢声の話芸や、古川緑波の芸談、落語などをじっと聞きながら、自分の身体の様子にじっと耳をそばだてていた。

 後年、大病をしたのち、人気タレントとして立ち上がった頃、渥美さんのキャッチフレーズは「じょうぶで長持ち」。身体をいたわりながら、元気ハツラツ、健康的なイメージで売り出した渥美さんの思いと、この「がんばれ ふんばれ されどいばるな」は通じる。12歳にして孤独を知っている少年の言葉のような気がする。

焼け跡で・・・
 敗戦後、田所康雄は、工場やアルバイト先を転々としながら、いつしか定職を持たず、焼け跡のマーケットや上野の路地で、テキ屋の口上に見惚れた。

 「テキ屋のおじさんたちが品物を売っているときの意気、あるいは覇気とでも申しますか、それにおじさんたちが仕事を終えた後、汗、拭いてスッと帰って行くときのあの身じまいの仕方」(渥美清 わがフーテン人生・1996年・毎日新聞社)に魅せられていたと語っている。

 上野の雑踏に身を置いた田所は、鮮やかな口上で物をさばく香具師のお兄いさんに憧れ、不良少年たちを束ねて、方で風を切っていた。
 昭和22年、中学生だった永六輔は、縁故疎開の長野県小諸市から、浅草の実家のお寺、最尊寺に帰京して、焼け跡が残る下町で、仲間と鉄屑や鉛管を掘り出しては、それを売って小遣い稼ぎをしていた。

 鉄屑を元締めのような人に持っていくと、その人は、相手が子供だからと決してピンハネはせずに、買い取ってくれる心やさしき兄貴分だった。永よりも五つ年上の19歳の、その元締めは、不良少年たちの間ではつとに知られた存在で、いつしか「田所組」の元締めと呼ばれていた。その元締めこそが、田所康雄だった。

役者への道

 上野、浅草で担ぎ屋をしていたころ、知り合いのお巡りさんから「お前の顔は、一度見たら忘れられない。顔を売りたいんだったら、役者にでもなったらどうだ」と言われたという。

 怖い顔をした警官とまだ二十歳になるかならないかの田所康雄。二人が向き合う情景は、後年の渥美の演技を思うと、映画的というか実に喜劇的である。

 同じころ、ある劇団の座長をしていた友人の親父さんから「お前さん、いつまでもヨタってばかりしていたら、いずれブタ箱行きということにもなりかねないよ。どうだい、一つ、この辺で足ィ洗って、オレの一座で幕引きをやってみる気はねぇか」(渥美清 わがフーテン人生・1996年・毎日新聞社)と言われた。

 やがて、田所康雄は手にした本に出て来た「渥美悦郎」という芸名を名乗り、知人の座長の誘いで初舞台を踏む。埼玉県大宮市日活館の「阿部定一代記」というコントの、泥棒を追いかける刑事C役だった。

 昭和27年、渥美は川崎の小さな劇団で「パンツの匂いを嗅ぐ男」というバラエティーショーに出演することになり、司会者を兼ねた座長が、呼び込みに「渥美悦郎」の「悦郎」に詰まってしまい、とっさに「清」と言ってしまった。

 名前を間違えられてはたまらないと、終演後に座長に抗議したものの、座長に「悦郎なんて、語呂が良くないから通りが悪い。キヨシでいいだろう? お前は今日から渥美清、いいな」と言われ、妙に納得。ここに役者・渥美清が誕生した。

 浅草のストリップ劇場「百万弗劇場」から「フランス座」に進出した渥美清は、そこで終生の友となる谷幹一、関敬六と出会い、幕間のコントで大人気となる。出番前に“気付け薬”の焼酎をキュッとひっかけて、舞台に飛び出る。「ある土曜日の夜なんかワンワンワンワンと割れっかえるほどの満員、そんな夜ってのは、劇場の中が決まったように熱狂するのでございます(「渥美清 わがフーテン人生」1996年・毎日新聞社)。

結核、そして・・・
 昭和29年春、渥美清は肺結核と診断され入院、右肺を摘出する大手術を受けた。それから、昭和31年まで約二年間休業を余儀なくされる。二年ぶりに、浅草フランス座に復帰したとき体重は51キロそこそこ。長期にわたる結核との闘いで、片肺を失った渥美は、タバコと酒を断ち、健康であることの大切さを感じて、舞台に立って、お客様の前で芝居ができることの喜びを噛み締めていました。のちに「丈夫で長持ち」のキャッチフレーズで、テレビで人気者となる。



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