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エンタツ・アチャコの『あきれた連中』(1936年・岡田敬、伏水修)

 横山エンタツと花菱アチャコ。僕らの子供の頃、「しゃべくり漫才」の祖としてすでに伝説的な存在だった。今では「横山」と言えば伝統的な漫才師だが、兵庫県有馬郡三田町「横山」生まれだったことから「横山瓢(ひさご)」と名乗ったのがその始まり。朝鮮、満洲と数々の巡業劇団を転々としたのち「横山太郎」として、大正8(1919)年に、花菱アチャコと一座を組んで、幕間に始めたのが「しゃべくり漫才」。

 花菱アチャコは、大正2(1916)年、15歳の時に山田州男(山田五十鈴さんの父)の一座で初舞台。その翌年、漫才に転向。ここで「花菱アチャコ」と名乗った。「花菱」は藤木家(本妙は藤木俊男)の家紋に由来。「アチャコ」は、漫才を始めた頃のあだ名「アチョーン」から来ているとは、本人談。舞台で幕切れに「チョン」と拍子木を打つ、大民具がうまく取れず、先輩から「あっ」と掛け声をかけてもらった。で「アチョーン」が「アチャコ」になった。

 そして大正8年に一度だけ、エンタツ・アチャコが組んで漫才をするが、全く受けなかったという。その後、それぞれの道で活躍したのち、昭和5(1930)年に吉本興業の総支配人・林正之助さんの提案で、再びエンタツ・アチャコがコンビを組む。背広を着て「キミ」「ボク」と、当時の花形ホワイトカラーのスタイルでの「会話」は、それまでの音曲漫才とは一線を画して、そのモダンなスタイルは、ホワイトカラーを中心に大人気となる。

 中でも、東京六大学での「水原茂のリンゴ事件」で話題となった「早慶戦」は、エンタツ・アチャコの代名詞となり、一躍、時代の寵児となる。ラジオや演芸場で引っ張りだことなるが、昭和9(1934)年、アチャコが中耳炎となり入院。劇場に穴を開けるわけにはいかずに、エンタツは杉浦エノスケと組み、コンビは解消となる。アチャコは以前組んでいた千歳家今男と再び組んで、それぞれ「エンタツ・アチャコ」人気の余勢を買って多忙となる。

 舞台ではコンビを解消したが、レコードの売り上げはうなぎ上りで、吉本興業としてもこのコンビは大切にしたい。昭和11(1936)年、吉本は映画界に進出、東宝と提携して専属芸人を主演にしたコメディ映画を作り、映画というメディアを通じて、関西地区限定の笑芸人たちの人気を全国区にしようと目論む。同時に東京の吉本興業専属の柳家金語楼を映画を通して(すでにラジオでは大人気だったが)動く姿を全国(当時は朝鮮、満洲も含めて)津々浦々に届けようとした。のちの吉本のメディア戦略の最初は、「劇場から映画へ」だったのである。

 その、東宝=吉本興業提携の第一回作品が、その時点でコンビ解消後、三年経っていた「横山エンタツ・花菱アチャコ主演作」だった。それが昭和11(1936)年1月15日封切りのP.C.L.映画製作所『あきれた連中』である。原作は、二人の座付き作者で漫才作家の秋田實、脚色はエノケン一座の芝居やエノケン映画を手掛けていた永見隆二。音楽はP.C.L.管弦楽団を率いていたジャズバンドのリーダーで編曲家の紙恭輔。演出はこの後、エノケン映画を数々手掛ける岡田敬、『東京ラプソディ』(1936年)などP.C.L.音楽映画の傑作を生み出す伏水修。

 タイトルバックで、映画のライトの前に立つエンタツが、帽子を取って観客に一礼。続いてアチャコさんが他所行きの顔で挨拶。バックに流れるのはジャズソング「イエス・サー・ザッツ・マイ・ベイビー」。日本ではヘレン隅田の「可愛い瞳」として大ヒット。紙恭輔のアレンジがスイング時代を感じさせる。そして漫談家で俳優の徳川夢声さん、P.C.L.のトップ女優・堤真佐子、そしてバンドリーダーで歌手のリキー宮川、ベビー・ヴォイスの歌手でもある神田千鶴子、昭和初期から怖いおかみさん役を演っていた清川虹子、主なキャストが、それぞれワンショットずつ紹介される。遅れてきた世代にも「これ誰?」がわかる、親切なタイトルバックである。

 そして冒頭、公園のベンチ、失業者で正体不明の男・石田(エンタツ)が解雇通知をビリビリに破ってため息。そこへ給料がたんまり入って上機嫌の保険外交員・藤木(アチャコ)がやってくる。石田の狙いは、藤木の大金だというのがわかるショット。石田は「マッチ貸してください」と藤木からもらったマッチをポイポイと捨て始める。藤木「キミ、タバコ吸うんと違うか?」で、石田はタバコを受け取り、最後の一本に火をつける。ここで加害者=エンタツ、被害者=アチャコという、漫才の立ち位置が明確になる。

 石田は「吉岡婦人洋装店」の二階に間借りをしていて、一年も家賃をためている。大家の吉岡(徳川夢声)は鷹揚だが、店を切り盛りするキャリアウーマンである吉岡夫人(清川虹子)は、今日こそは追い出そうと鼻息が荒い。結局追い出されてしまう。その夜、一杯加減の藤木とバッタリ会った石田「やあ、しばらく」と100年の知己のように、畳みかけるように話しかけて、取り入る。まるで植木等の「無責任男」である。

 というかこの映画から31年後に作られた『ニッポン無責任時代』(1962年)の平均(たいら・ひとし)の「他人の思惑など一切関係なし」「自分の欲望のため」「手段を選ばない」無責任男のルーツは、エンタツ・アチャコ映画のエンタツさんがルーツである。クレージー映画の生みの親・田波靖男も、古澤憲吾監督ともにクレージー映画を充実させた坪島孝監督も、この頃のP.C.L.映画を(少し後になるが)夢中で観た世代。

藤木「親友だろ。キミ、ボクの名前を知ってるんだろ」
石田「嬉しいんだよ」
藤木「なにがいな」
石田「知ってるんだけどね。今ちょっと言えないんだよ」
藤木「そらキミ、遠慮せんと、言ったらどうなんだ」
石田「それがね」
藤木「いや、あのね、ボク藤木や」
石田「藤木!子供の時分と変えてないね?」
藤木「当たり前やキミ、藤木ずうっと通してるがな」
石田「愉快だな」
藤木「そうか」

ここから本題となる。

石田「キミ、景気はどうだ?」
藤木「おかげ様で」
石田「すまんがね、キミ、ボクに融通してくれないか」
藤木「で、キミ、いつ返す?」
石田「月給日に払うよ」
藤木「月給日に?」
石田「間違いなく払うよ」
藤木「で、キミ、なにか、月給日っていつや?」
石田「それがまだキミ、決まってないんだよ」
藤木「ああ、決まってないってキミ、会社、どこへつとめてはるの?」
石田「それね、まだボクは会社つとめてないんだよ」

 このオチ。エンタツのどこまでも悪びれない感じがおかしい。アチャコは常識人で、エンタツは非常識の極み。昭和11年で、この微妙なボケとツッコミが完成していたとは! 一時が万事で、アチャコは、エンタツのこのペースに乗せられていく。で、藤木行きつけのカフェー「T A N T A N」の前で石田「いっぱいやろうか?」「いいな」「奢れ」「奢れってキミ、厚かましすぎや」「遠慮すんな」と、ポンと藤木の肩を叩いて店に入る石田。この傍若無人ぶり!まさに「ルーツ・オブ・無責任男」である。

いつしか「親友」となっているのがおかしい。

藤木「キミ、何飲む?」
石田「ウイスキー二本」
藤木「二本も?」
石田「一本持って帰る」

 おいおい、と観客もここでツッコミ。この映画は「エンタツ・アチャコの漫才」のエッセンスをそのまま物語の中に入れ込んでいる。秋田實の脚本は、とにかくエンタツの「奇妙なおかしさ」を物語の中で成立させていく。この映画がすごいのは、このポイントである。で、ここでフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのR K O映画『空中レビュー時代』(1933年)の大ヒットナンバー「キャリオカ」がB G Mとして延々流れる。ダンス・ナンバーが漫才的会話のバックに流れる。

 石田の名刺を見て藤木「そうや、石田やった。ころっと忘れていた。ええ名前やな」と言われて石田、親指を突き出して「これがしっかりしているからな。かぞく」「華族か?」
「五人家族」というのもおかしい。この絶妙の会話が、この映画の最大の面白さである。

 やがて石田は、ボクシングジムに努めた吉岡の紹介でボクサーとなり、宿敵・黒川(リキー宮川)との決戦を目指してトレーニングを続ける。このあたりは、失業者がボクサーになって大男に挑む、チャップリン映画の展開そのままである。で、後半に、ボクシングジムで、いよいよ、藤木と石田の他愛ない会話から、伝説の漫才「早慶戦」が展開されてゆく。

 この映画は、この「早慶戦」がダイジェストとはいえ、再現されていることに、歴史的価値がある。エンタツさんのどこまでも続くボケに、アチャコさんのツッコミ。二人のやりとりの絶妙な間。80年経っても「エンタツ・アチャコ」の漫才が、たとえ片鱗だが、動く姿で記録されている。そのことに感謝!である。

 『あきれた連中』は大ヒット、P.C.L.=吉本興業提携による「エンタツ・アチャコ映画」は、『これは失礼』(1936年・岡田敬)、『心臓が強い』(1937年・大谷俊夫)、『僕は誰だ』(1937年・岡田敬)と、続々と作られ、戦後も『東京五人男』(1945年・齋藤寅次郎)、『俺もお前も』(1946年・成瀬巳喜男)と、スペシャル・イベント的にスクリーンでのコンビ作が続いていく。




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