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「若大将シリーズ」クロニクル1961〜1981

 加山雄三の「若大将」シリーズは、『大学の若大将』(1961年・杉江敏男)から、『若大将対青大将』(1971年・岩内克己)まで製作された。東京・麻布にある老舗のすき焼き屋“田能久”の跡取り・田沼雄一(加山)のニックネームは若大将。典型的な街っ子で、スポーツ万能、頼まれたらイヤとはいえない性格。実家には、父・久太郎(有島一郎)、面倒見の良い祖母・りき(飯田蝶子)、兄想いの妹・照子(中真千子)がいる。

 大学では運動部に所属し、趣味では音楽も自作自演。女の子にMMK(モテてモテて困る)だが、本人は“全く興味がないような”顔をしている。ひょんなことからマドンナの澄子(星由里子)と出会い、さわやかな交際を続けるが、クラスメートの青大将こと石山新次郎(田中邦衛)が横恋慕する。運動部のマネージャーで照子と恋仲になる江口敏(江原達怡)たち、レギュラー陣が織りなすアンサンブルの妙もシリーズの魅力であった。

 昭和35(1960)年にデビューを果たし、アクション映画中心に活躍していた加山雄三。その個性を活かすべく、藤本眞澄は、敬愛する城戸四郎が戦前松竹で製作していた“若旦那もの”をヒントに企画。脚本の笠原良三と田波靖男は、加山から、おばあちゃん子だったこと、一日5食の大食漢であること、弁当はドカ弁であること、仲間と音楽を演奏していることなどを取材し、『大学の若大将』のプロットを作り上げたという。

 『大学の若大将』では京南大学水泳部のエース、第2作『銀座の若大将』(1962年・杉江敏男)ではスキー部と拳闘部を掛け持ち、続く『日本一の若大将』(1962年・福田純)ではマラソンに勝利する。第3作で若大将の就職が決まり、照子と江口の結婚が匂わされ、完結篇として作られるも、加山人気は上昇する一方でシリーズは続行。

 昭和38(1963)年には、初の海外ロケ『ハワイの若大将』(福田純)が夏休み映画として封切られた。京南大学ヨット部の若大将が、ワイキキの浜辺で唄う「DEDICATED」は加山の作詞作曲。以後シリーズでは、加山のオリジナル曲が次々と唄われることとなる。黒澤明監督の『赤ひげ』(1965年)の撮影に入ったために、1年ぶりに作られた『海の若大将』(1965年・古澤憲吾)は前作を上回るヒットを記録。主題歌『恋は紅いバラ』(弾厚作作曲・岩谷時子作詞)が、東芝レコードから発売され50万枚を超す大ヒットとなる。

 レコード歌手、加山雄三の人気を不動のものにし、シリーズをさらに大きく成長させたのが、エレキブームの台風の目となった、第6作『エレキの若大将』(1965年・岩内克巳)だった。資金繰りが悪化して破産してしまった田能久を救うこととなったのが、劇中、若大将がレコードに吹き込む『君といつまでも』という展開で、加山の主題歌がシリーズの最大の売りとなっていく。

 この頃、映画界のみならず、歌謡界にも、空前の加山雄三ブームが巻き起こった。ヨーロッパ・ロケの『アルプスの若大将』(1966年・古澤憲吾)と、香港ロケの『レッツゴー!若大将』(1967年・岩内克己)の合間には、リサイタルのライブ映画『歌う若大将』(1966年・長野卓)が公開されている。映画からヒット曲が生まれ、ヒット曲が映画で歌われる理想的な状況を呈した。昭和42(1967)年には、『レッツゴー!若大将』(岩内克己)、東宝35周年記念作『南太平洋の若大将』(古澤憲吾)、年末の『ゴー!ゴー!若大将』(岩内克己)の3本が公開されるほどだった。

 しかし加山の実年齢が30歳を超え、“いつまでも大学生役では”という藤本の意向で、人気がピークのうちに、有終の美を飾るべく最終作『リオの若大将』(1968年・岩内克己)が企画され、南米ブラジルに大々的にロケーションを敢行。京南大学卒業謝恩会のシーンの撮影時には、マスコミを集め「若大将の卒業式」を披露した。

 ところがシリーズ続行を望む声は高く、若大将がサラリーマンとなる「社会人篇」がスタートする。藤本が得意とした「サラリーマン映画」のパターンを導入することで、シリーズのリニューアルが成功。新ヒロインにアイドル的人気の酒井和歌子が抜擢され、『フレッシュマン若大将』(1969年・福田純)、その続篇『ニュージーランドの若大将』(1969年・福田純)と、シリーズはお盆と正月映画として続行。

 とはいえ「社長」シリーズ終焉の年、昭和45(1970)年の『ブラボー!若大将』(岩内克己)では、若大将は失恋し失業する、というこれまでにない展開を見せる。ここで二代目若大将として、『リオの若大将』から出演していたザ・ランチャーズの大矢茂が抜擢され、大人の若大将と二代目若大将による『俺の空だぜ!若大将』(1970年)は、新鋭・小谷承靖監督のフレッシュな感覚で、新しい息吹を感じさせるものになった。そして大矢をメインにした『若大将対青大将』(1971年)では、若大将は海外転勤というかたちで、物語でもサブに回ることとなる。

 ここでシリーズは終焉を迎えるが、1970年代後半、オールナイト上映を中心に若大将ブームが巻き起こり、新作待望論が持ち上がる。そこで藤本は、草刈正雄を主演に『がんばれ!若大将』、『激突!若大将』の2作(ともに1976年・小谷承靖)を製作。

 それから5年後の昭和56(1981)年には、芸能生活20周年記念作品として『帰ってきた若大将』(小谷承靖)を加山自らがプロデュース。マドンナは坂口良子、青大将も健在で、配収10億を越える大ヒットとなり、加山=永遠の若大将のイメージをさらに堅固なものとした。




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