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徳川家康と福島正則|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか? 【戦国三英傑の採用力】

人手不足と人材不足は違う。

“人手”不足は単に働き手が足りない状態をいい、“人材”不足はスキル(能力・技能・資格)が必要な状況にもかかわらず、それらを持つ者がいない状態を指した。前者は量的な問題で、後者は質的な問題だ。

コロナ禍以前は全国的に“人手”不足が注目されていたが、コロナ禍以降、激動する経営環境の中、“人手”は足りているものの、思い切った事業再構築などに挑戦する“人材”不足も深刻な課題となっている。

戦国という激動の時代、武将たちは権謀術数の限りを尽くして覇権を争ったが、この激戦を制するカギは武勇のみならず知略に通じた“有能な武士”たちをいかに確保し、定着させ、起用するかだった。

人材こそがすべて――これは現代ビジネスでも変わらない。

戦国三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとに、なぜ“優秀な人材”が集まったのか?
彼らを支えた重臣を中心にみていきたい。


宝物は命懸けで戦場を駆ける五百騎

晩年の天下人・豊臣秀吉(1537~98)が、自らの名物茶器などの宝物を披露しながら問うた。

「そのほうは、どんな宝を所持しておるのか」
臣下の徳川家康(1542~1616)は答える。

「私は殿下にお見せできるような品を持ち合わせおりませぬ」

(そんなことはなかろう)

疑いの目を向ける秀吉に対して家康は「ただ、私には――」と続けた。
「私のためなら火水を厭わず、命懸けで戦場を駆けてくれる五百騎があります。これが私の宝でしょうか」

確かに三河の小大名の長男に生まれた家康には、生来、彼のために命を投げ出す忠臣はいた。

家康の生涯最大の危機といわれる武田信玄との三方ヶ原の戦いのおり、周囲の反対を押し切って出陣した家康は信玄に完敗。命からがらに敗走する家康の身代わりとなり、敵中に飛び込んでいった“三河武士”がいた。
また、本能寺の変の急報に接したおりのこと。僅かな供廻りで堺見物中だった家康は取り乱した。

「信長公のご恩に報いるべく、手勢をもって光秀(明智)と一戦交え、正々堂々と斬り死にする」

四面楚歌のなか、家康を諫止し、伊賀越えを成功させ、無事に岡崎へ帰国させたのも酒井忠次(1527~1596)、本多忠勝(1548~1610)ら譜代の家臣たちだった。

そんな家臣たちに対して、家康は日々、感謝や労いの気持ちを言葉や態度で伝えることを忘れなかった。彼は側近の老臣には敬愛の念を込めて「殿」づけで呼び、矢弾が雨と降りそそぐ戦場では傷を負った家臣に自分の馬を与え、自らは徒立ち(かちだち、徒歩)となることも少なくなかったという。

家康は生涯、苦労ともにした三河以来の譜代の家臣たちを重用した。

それにしても、と思う。
なぜ、彼らは家康を命懸けで守ることができたのか?

おそらく家康は、常に自らの夢や志、徳川家が目指すべき将来のビジョンを家臣たちに示していたのだろう。そんな家康のビジョンを共有できていたからこそ、彼らは時に主君を叱咤激励し、諫めることもできたのではないか。

「もはや、私以外に天下を治められまい」

第二次世界大戦後に確立された、終身雇用制度が1990年代の経済不況により崩壊を始めるまで、転職はお世話になった会社への〝裏切り〟行為という風潮があった。

雇用の流動化が進む現在も、その風潮は決してなくなったわけではない。

ただ昨今は、ずいぶんと仕事に対する価値観、転職の捉え方も変わってきてきた。

(自分の生活を守るため、自分の価値をより高く買ってくれるところを選ぶのは当然だ)

世は乱世、殺るか殺られるかの〝弱肉強食〟の時代――戦国の武士は、自らの〝家〟を存続させるため、よりよい生活をするために、武力も財力もある強い戦国大名を求めた。
現在でいうところの転職だ。

そして彼らを抱えた戦国大名は、常に数年先の将来を見越したうえで、どの大名と組めば〝家〟が安泰かを模索した。彼らも皆、それぞれの局面で自分の身の振り方を選択し、決断していた。

慶長3年(1598)8月18日、天下人・秀吉がこの世を去った。享年は62。

世は再び乱世の兆しが現れる。全国各地の諸大名は、自らの〝家〟を守るため、決断を迫られる。

ただ、秀吉は徒手空拳から天下人になった稀代の苦労人だ。自らの死後、無策のまま、側室・淀殿の間に生まれた愛児・秀頼(6歳)を残して逝ったわけではなかった。彼は死ぬ間際まで家康を〝律儀な御仁〟と称賛しつつ、誰にも天下取りの野心をおこさせないように「五大老」や「五奉行」の制度を設けるなど、様々な政治・外交工作を施していた。

そんななか、豊臣政権五大老筆頭の家康が動く。彼は有力大名と縁戚関係を結ぶことで勢力の拡大を図った。

よく誤解されるが、この時期、来たる将来を見越して準備を始めたのは、決して家康だけではない。

家康が縁戚関係を結んだ一人に福島正則(1561~1624)がいた。このとき正則は自ら進んで家康に近づき、家康の養女(家康の異父弟・松平康元の娘)を養嗣子の正之に娶せたともいわれる。

正則は秀吉の叔母の子で、少年の頃から秀吉の小姓として仕えた。賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどで活躍し、文禄4年(1595)に尾張清洲城主となっている。彼は豊臣恩顧を代表する武闘派武将だ。

この家康と正則の縁戚関係は、諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反する〝裏切り〟行為として、周囲から抗議を受ける。
このとき正則は、この縁組は秀頼公の将来を考えてのことだと弁明したという。
この時点で、正則は家康と組むことが豊臣家のため、ひいては福島家のためになる、と信じて疑わなかったようだ。

慶長4年閏3月3日、秀頼の後見役となっていた前田利家(1538~99)が病死する。

「あと5年あれば、秀頼さまを奉じ、わしの力で諸大名をまとめてみせたものを・・・」

当時、家康は信長、秀吉亡きあと、利家であれば豊臣恩顧の大名たちをまとめ、天下を治めることができるとみていた。信長の小姓からはじまった利家の戦国キャリアを考えれば妥当だ。その利家が死んだ。

やがて豊臣家の行く末を巡り、秀吉が北近江の長浜城時代に召し抱えた石田三成(1560~1600)ら「近江閥」と、秀吉と正室・北政所が親戚から若者を募って取り立てた正則、加藤清正(1562~1611)ら「尾張閥」の軋轢が表面化する。

(もはや、私以外に天下を治めることはできまい)

同年、北政所が大坂城西の丸から京都三本木の屋敷へ移り、家康が大坂城西の丸へ入った。

「豊臣家中で2つに割れた派閥の一方に乗る――」

これが天下取りという大プロジェクトを前に、家康が策定した基本戦略だった。

「わしは内府殿に進んで荷担する!」

慶長5年(1600)7月24日、会津上杉征伐のため下野小山に着陣した家康のもとに、石田三成挙兵の詳細が報告された。家康は愕然とする。三成方の軍勢――総勢10万は想定外だったからだ。

不安に駆られた家康はどうしたか。すでに小山周辺には正則ら豊臣恩顧の諸将も多く着陣していたが、彼はまず、三河以来の譜代の家臣、あるいは直臣だけを招集した。このあたり、いかにも家康らしい。

軍議の席上、当時、家康の側近だった参謀格の本多正信(1538~1616)は、箱根の嶮を固く守り、東上する西軍を迎え撃つよう献策。一方、その場にいた井伊直政(1561~1602)は正反対の積極策を進言する。

「物事には勢いというものがあります。いま、勢いに乗って西上すれば、決して我らは敗れませぬ」

家康は肩に重くのしかかる徳川家の命運を意識しながら、直政の積極策を採用しつつ、正信の意見も心に留めた。

そして翌7月25日、緊急の軍議が開かれる。これを“小山評定”という。
冒頭、上杉征伐に従った諸将の妻子を人質にとり、三成が上方で挙兵したことが伝えられた。

家康は言う。
「妻子の安全を第一に考えるのは当然のこと。三成に荷担するのであれば、遠慮せず陣を引き払われよ」

ぽつりぽつりと家康支持の声があがるなか、大声が響き渡った。

「妻子を上方に残したのは秀頼さまへの忠義の証、三成の人質にするためではございませぬ!」

諸将の間にどよめきが起こる。無理もない。豊臣恩顧を代表する正則が、そう声をあげたのだ。

「わしは内府(家康)殿に進んで荷担する!」

このときの正則の発言は事前に家康から依頼されていたとも、数年後の豊臣家――豊臣家を徳川幕府下の一大名として残すことを見越して自ら積極的に発言した、ともいわれている。いずれにせよ、彼の決断によって、その場にいた豊臣恩顧の諸将たちが家康荷担を表明した。

場の雰囲気が高まるなか、家康は自らの立場、正当性を強調することも忘れていない。

「この戦は、われが豊臣政権の五大老筆頭として、逆臣、石田三成を討つものである」

約2カ月後の、関ヶ原の戦いの結果は周知のとおりだ。

家康にあって正則になかったもの

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、徹底した戦後処理をおこなう。彼は敵対した大名の領地を大部分没収し、大々的な配置転換を断行。中国地方以西へ豊臣恩顧の大名を移したのとは対照的に、京都から関東にかけては一族や譜代の家臣を中心に固めた。

このとき豊臣家は220万石から摂津・河内・和泉3カ国65万石の一大名となり、正則は清洲24万石から安芸広島49万8千石となった。広島移転に際し、正則は京都三本木の北政所を訪ねた。彼は言う。

「世間ではそれがしを忘恩の徒と申しておりますとか。何といわれましょうとも、太閤殿下のご遺児・秀頼公が再び、三成のようなものに担がれ、天下を乱すことのないよう、内府殿のもとで立ち行くようになれば、それでいいのでございます」

正則は“裏切り者”の汚名を着てでも、主家である豊臣家を残そうとした。

繰り返すが、殺るか殺られるかの〝弱肉強食〟の時代――周囲に“裏切り”だなんだと後ろ指をさされても、“家”の存続を第一に考えるのは当然のことだ。決して彼を責めることはできない。

ただ、豊臣恩顧を代表した正則には次代のビジョンがなかった。

一方、家康は慶長8年(1603)2月に征夷大将軍となり、2年後に、それを嗣子秀忠に譲ることによって天下に徳川幕府の世襲制を宣言している。その後も彼は大御所として実権を握り、一族・譜代を重用しつつ、優秀な人材であれば武士のみならず僧・商人・学者なども登用し、江戸幕府の礎を築いていった。

そして慶長19年から翌慶長20年にかけての大坂の陣で、家康は秀頼を総大将に担いだ豊臣家を滅亡へと追い込む。このとき彼は正則の大坂方への寝返りを警戒し、江戸城留守居役として彼の行動を封じ込めてもいた。翌元和2年(1616)4月17日、家康はこの世を去る。享年75。

家康の跡を継いだ秀忠によって正則の福島家が改易となったのは、この3年後のことだ。

小山評定の時点で、家康には徳川家が目指すべき次代のビジョン、それが失敗したときの次善の策がいくつもあった。そして、それらは秀忠ほか一族・譜代の家臣、その配下の者たちに遺漏なく伝えられていた。

家康にあって正則になかったもの――次代のビジョンと失敗したときの次善の策。

雇用の流動化により、社員の入れ替わりが頻繁になる今こそ、自社の歴史や将来のビジョン、中長期経営計画など、常に全ての社員と共有しておくことが重要だと、家康は教えてくれる。(了)

※この記事は2019年1月に【日経ビジネスオンラインSpecial】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。

【イラスト】:月岡エイタ

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