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鹿児島県警の不祥事に見る分断と進化:呪縛からの解放が成長の鍵


◎後を絶たない不祥事


「企業の不祥事が後を絶たないのと同様に警察の不祥事も時折話題になります。今回の鹿児島県警の内部不祥事は、国家権力の根幹に関わる問題です。 すでに多くの識者が指摘するように、国の権力機関が内部の不正を隠蔽し、公益通報を抑圧したとすれば、民主主義の根幹を揺るがす重大問題です。

◎森鴎外の「最後の一句」と分断


私が高校2年生のとき、国語教科書で学んだ森鴎外の「最後の一句」を思い出しました。父親への「お上」の処分に対し、娘の「いち」が「お上の事には間違いはございますまいから」と言い放ち、驚いた役人たちが父を赦免するというストーリーです。 実話に基づくこの小説で、鴎外は実際にはなかった「お上の事には間違いはございますまい」という一句を付け加えました。この一句は鴎外による『お上は絶対に正しい』という考え方への鋭い批判と解釈されています。「お上は間違わない」という慣習ともとれる考え方は、少なくとも今でも官僚はその態度で、国民は簡単には追及できないという形で、今も根強く残っています。為政者と国民の分断ともとれます。

◎見えてきた希望の光
しかし今回、県警内部から不正を指摘する声が上がったことは、日本社会の大きな進歩ではないでしょうか。 大きく時代の流れを俯瞰的に眺めれば、江戸時代には、このような不正を暴く媒体はほぼありませんでした。しかし今は、テレビ・新聞だけでなく広く国民にSNSなどの多様な投稿手段があります。今後、マスコミの追及により、『お上』も間違いを犯す人間であり、権力こそ市民による監視が必要だという認識がさらに広まるでしょう。

◎為政者や権力者側への期待、「呪縛からの解放」


また、『お上』の側にいる官僚、あるいは大企業などの組織のトップにいる方々に期待するのは、為政者と国民、経営者と労働者といった権力者と被支配者の考え方の根底にある、『お上は間違えない』という思い込みを捨てることです。さらに、権力者自身も『間違ってはいけない』、『間違っていると思われるだけでも指導力を失うのでいけない』という権威主義からくる二重の呪縛から自由になることが必要です

◎透明性には「誰しも間違いはありうる」という認識が必要


透明性と責任を求める国民の声は、健全な民主主義の証です。しかし、真の透明性を実現するには、ただ権力者を追及するだけでは不十分です。私たち一人一人が、「誰しも間違いはありうる」ことを認識する必要があります。今こそ、マスコミの追及を応援し、真実の解明を待つ時ですが「呪縛からの解放」という概念は、単に権力者だけでなく、私たち一人一人にも当てはまります。これからは「誰しも間違いはありうる」という時代にしましょう。

二重の呪縛から解放され、誰しも間違え得るということをすべての人が理解した時、私たちは他者の間違いや失敗にも寛容になれ、再挑戦を受け入れる風潮が醸成されます。そして初めて「透明性」を恐れず、事実を明らかにすることが始められます。

「誰しも間違える」ことを認め合える社会は、失敗を成長の機会と捉え、開かれた対話と相互理解を育み、新しいアイデアに心を開き、問題の解決に着手できるのです。

◎私たちの役割:「呪縛からの解放」


様々な経験を経て、酸いも甘いも嚙み分けてきたシニアの知恵は貴重です。しかし、この『お上といえども、誰しも間違いはありうる』という認識は、シニアに限らず、SNSを駆使する若者から、その間の全ての世代に求められます。
世代を超えた対話と相互理解による「呪縛からの解放」が、私たちの間にあった『分断』を埋める鍵となるでしょう。

まず、誰しも間違えるという基本認識を手始めとして、対話の場をつくり、失敗を共有し学ぶ文化を育てることで、私たちの間にあった『分断』を相互理解で埋めていきましょう。」


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