見出し画像

ドイツと日本の比較から見えてくること 信仰 編

前書き

ヨーロッパ諸国、私の住む南ドイツでは特にキリスト教、特にカトリック信仰が未だに盛んです

ある友達の家では、日曜の家族みんなで囲む食事の際にお祈りを捧げるしきたりを体験しました
これはキリストという神に対してこの食事をいただけることを感謝しているのですが、 日本語の「いただきます」という食物自体への感謝を含む表現と、少し似ているような気もしました


「あなたは宗教を信じますか?」

という問いを投げかけられ、よく回答に困ることがありました

日本について語る際、信心深い人はもちろん日本での信仰がどのようになっているのか

私は母の実家は浄土真宗だといことは、子供の頃からうっすらとは知っていましたが、自分の宗教はこれですってものはありませんでした

18歳ごろまでには、学校教育、ボーイスカウトではたしかに宗教について一般的なことを学びました 日本には神道と仏教があり、どのような人が開祖で、どこで開かれた、どのように伝わってきたのかなど一般知識は学ぶことができましたが…

それぞれの教えで何が重要とされているかなどは教えてもらった記憶がありません… 今日新しく見つけたある考え方をご紹介しますね

親鸞聖人と信心

現在、あるコンペ用に、お墓の中に建築をデザインしています
その背景を調べる中で親鸞聖人のといた『信心』という考え方に出会いました

本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし 
(高僧和讃-天親菩薩の和讃-)
「本願力にあいぬれば」ということは、「阿弥陀様の救済の願いに遇えたならば」という意味です。それは、別の言葉で表現すれば、「阿弥陀様の願いを受けとめる信心が獲得できたならば」と同じ意味なのです。信心が獲得できたならば、「むなしくすぐるひとぞなき」と続きます。ここに信心が、私たち人間にどのようなはたらき方をするかが述べられています。それは、「むなしさ」を超えるというはたらきです。(親鸞聖人と真宗のおしえ https://shinshu-kaikan.jp/learn/shinran)

6年前に母を亡くし、お葬式は浄土真宗のお寺さんに執り行っていただきました それ以降、浄土真宗とはなにかと縁があり京都でもよくお寺を巡ったりしていたものです

母の死という人生でもおそらく最大の悲しみを大学入学直後の18歳の夏に迎えてしまいました その現実から逃れるかのように、6年間旅をしていました

宗像―京都―ヨーロッパ―京都―南米―京都―東ヨーロッパ―ミュンヘン―東京―京都―バルセロナ―東京―ミュンヘン

想像していただければ容易に分かるように壮絶な日々でした笑 初めのころは、信じられるものがサッカーフィールドでの自分と、机にかじりつく自分だけでしたが、それが時の流れとともに成長し、いまではいろいろなことを、自信を持って楽しむ自分を見つけることができます ― 料理、写真、スケッチ、建築設計 …

自分の中からだけの成長だけでなく、いろいろな場所でいろいろな人々、文化と触れ合う中でいろいろなことを学びました

最近になって、6年間の旅の中で学び、育んだ哲学というものが、仏教で説かれている教えにも共通することも多く、不思議に思うことも多くあります

ただいまだに、宗教として仏教を信じているかと言われると…やはり信じていません… とりあえず、哲学のひとつとして日々の学びに宗教の教えも取り入れてみています


ミュンヘン工科大学で建築を学びながら、写真家として活動中です!現在本を執筆中です… 温かい応援をいただけますと大変励みになります!