北海道「静養滞在の旅」 エピソード3 三つの再会 友ありてこその人生
良き友は人生を豊かにしてくれる。
友とは、「この地球上のどこかで時代を共にして生まれ、何らかのことで出会い、心が通じ合った者同士」と、私は思っている。
友のいない人生は淋しくて味気ないだろう。だから「友ありてこその人生」と思う。
今回の北海道の静養旅で、3つの良き友との再会があった。
再会その1 50年の時と世代を超えての再会
一つ目は、永瀬和樹さんとの再会である。と書き始めたが、実は彼とは初対面に等しい。私のよく知っているのは彼のお父さんの永瀬紀好さんで、彼の家に行ったとき、まだ幼かった和樹さんを両親が「カズキ、かずき」と呼んでいたのが印象にある程度だった。
私は富山に住んでいた20代の頃、自動車のラリーに熱中していた。ラリーはドライバーとナビゲーターの2人が組んで参加する。その時のドライバーが同郷の永瀬紀好氏だった。私はナビゲーター役だった。
彼は2輪のモトクロスもしていた経緯があり、4輪の運転も卓越していた。当時、日本のラリーの頂点と言われた第13回日本アルペンラリーで、我々は三菱や各メーカーのチームに伍して、全国から集まった精鋭115台中15位となり、入賞も果たした。
残念ながら紀好氏は数年前に亡くなられた。紀好氏とはおよそ15年前に電話で話したのが最後になった。
しかし、50年の時を経て突然に、その息子さんである永瀬和樹さんが子供を連れて、私の北海道の滞在先である“かもいホッフ”を訪ねて来られた。
50年前の富山での接点なのに、何故北海道のかもい岳で息子さんと繋がったのか?
再接点の始まりは、私がアルペンスキー選手養成の名門“かもい岳レーシング”主宰者の「アルペンスキーに人生を懸けた男 斉藤博物語」を書いたことだった。その記事が写真入りで北海道新聞に載った。
北海道に住み、スキーもされていた和樹さんは、それを見た。そして「本の著者の茶木さんは、父とラリーをしていたあの茶木さんに間違いない」とピンと来たそうだ。
そしてかもい岳でスキーをされ、モトクロスをする永瀬さんは、かもい岳の面々と接点も深かった。
それで私が北海道へ行くとの情報が伝わり、斉藤君を介して会いたいとの連絡が入ったのである。
かもいホッフの入り口ドアを開けて入ってこられた人を一目見て、「あっ、永瀬さんだ」と分かった。顔も体型も、お父さんそっくりだったからである。こうして世代を超えての再会となったのである。
再会その2 木村夫妻との再会
木村夫妻とは、7年前に地中海のヨットの上で知り合った。
或る時、ヨット先達の松﨑さんから、地中海にヨットに乗りに来ないかと誘われた。魅力的なお誘いである。滅多に出来ないことなので、いそいそと地中海に浮かぶイタリアのサルデーニャ島に行った。
その時、同じく誘われて来られたのが木村夫妻であった。
年代も同じで、スキーも好きな夫妻とは気も会い、以後親しいつき合いとなった。
北海道かもい岳での滞在は、私の友人と言うことで、かもいホッフの管理人である斉藤君から了解を貰い、一緒に滞在することになったのである。
木村夫妻は、私より3日遅れでかもい岳に入ることになった。
再会その2 爽やかな好青年、染谷昇氏との再会
フランスのエルメス、日本のソメスと私が呼んでいるソメスサドル社の現会長が染谷昇さんである。ソメスサドル社は日本で唯一の馬具メーカーである。
彼との出会いは、かもい岳レーシング主宰の斉藤博君の紹介からだった。
出会ったころはお互い若かった。それはおよそ40年前だった。当時彼は東京の浅草にあるソメス東京営業所の所長だった。
トヨタ・ハイエースで近くの駅まで迎えてきた彼は、助手席のドアを開けて「染谷です」と挨拶された。その時「素敵で爽やかな好青年」の印象が強力に私の脳裏に焼き付いた。世の中には、こんな感じの良い素敵な青年もいるのだと思った。
彼は、アルペンスキー選手をしていた時、日本のナショナルチームの選手にもなったスキーのエキスパートでもある。
以後、スキー、馬術、カバンなどのことで接点が深まり、一緒に色んな処にも行った。
今はソメスの会長としてテキパキ采配を振るっておられるが、爽やか好青年のイメージは今でも健在だ。
会うだけで人生が楽しくなる・・・そんな気にさせてくれる人である。
同時の3つの再会
その3つの再会は、8月10日に同時に果たされた。
遠き離れた北海道の地で、このような再会は本当に嬉しい。
「友ありてこそ、楽しき哉の人生」を実感した。
次の「北海道 静養滞在の旅」エピソードに続く
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