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タクさん、ユカさんとの1日。

令和4年1月30日ゼロ円ハウス125日目。

アラームよりも先に目が覚める。今はドラえもんのような状態で寝ている。ドミトリーみたいな2段あるところの2段目に寝ている。夜中に毛布が1枚、下に脱落して寝ていたので寒かった。少しばかり縮こまって寝ていたので起きるにあたって、体を反るように伸ばしたら、ふくらはぎがつった。いてぇ...ってなりながらもゆっくり脚を伸ばす。つる感覚は無くなったものの、つった痛みがふくらはぎに尾を引いていた。優しく擦って、痛かったな~と心の中で声をかける。尾を引いていた違和感は無くなっていた。

朝ご飯を作り、しっかり食べてゆっくり準備してタクさんの家を目指して出発した。タクさんの家は弓削島にあるそうなので弓削島を目指す。フェリーに迷うだろうなと思い、余裕を持って向かう。フェリー乗り場で券を買う。その時に時刻表を見ても、タクさんが教えてくれた指定の時刻に出るフェリーが見当たらない。だけど弓削島行きとは書いてあるし、券売機横に居たおばちゃんに弓削島に行きたいんだけどと伝えたら、次来るフェリーに乗って2個目だよと言われた。

何か府に落ちぬ疑惑を抱えつつもフェリーを待つ。

そういえば、車で来てくれるとか言ってた気がするが原付きで来てる...ん?とか色々な要素が膨らんできたけどフェリーが来てしまったので乗り込む。

完全にフェリー慣れしてない感じが自分から出ていて完全に挙動不審だった。

ったく、これだから田舎者はと思われていそうだと言う被害妄想を爆発させていた笑

フェリーが着く。おばちゃんに2個目だよと言われたので降りる気も無く待っていた。でも他の車もバイクも降りていく。???ってなって、ここでみんな降りるんだな~とか呑気に構えていたら、お前も降りろと係の人に手招きされた。

更なる???を自分の脳内が包んだ。おばちゃんの言う2個目とはなんぞや?意味も分からず、そして確実にフェリーを間違えたことだけは分かったのでタクさんに連絡した。

結果的に乗るフェリーを間違えた事、そもそも乗り場が違うこと。原付きで来たんですか!?と驚かれたこと。トリプルボギーである。

会う前から、どんくさい自分が発揮されていて今日も平和である。そんな自分の平和がお手数をおかけしてしまって、長い距離を車で迎えに来てもらうと言う醜態を晒した。

結果的に間違えて着いた港に原付きを停めて、迎えに来てもらった車に乗り込む。

運転手はタクさんの彼女さんのユカさん。その助手席にタクさんが座っていた。すみませんと謝りつつそそくさ車に乗った。ユカさんに軽い挨拶を済ませてタクさんのお家へ向かう。

祥子さんと一緒にNancyに会いに行くために佐島に行った時に走ってたな、この道みたいなのを思いながら揺られていた。

15分程?車に揺られてタクさんのお家に到着した。

Facebookの投稿を見ていたから、どんな家なのかと思っていたが普通に家だった。(失礼)所々に人が後からやった感があるのを感じるが、家だった。

玄関のドアが横スライドなのだが油圧式のハンドルのような重さがあった。中に入るとこれまた普通に家で広かった。中央に和室が2部屋。玄関から見て左手奥に寝室。右手に台所とその奥にお風呂場があった。

まぁ人の家なので探検もそこそこに和室にお邪魔させていただいた。時間的にはお昼手前。卓球が出来る施設が13時かららしいのでそれまで時間はある。

なので施設に向かう前にお2人にご飯をご馳走していただいた。スープパスタに高菜パスタに自分用にお米とスクランブルエッグと高菜を乗せたプレートを別で作ってくださった。後は自家製のピクルスもあった。

高菜も手作りでしっかりとした味付けでお米も和えられたパスタも進む。高菜なんてスーパーのお総菜で買ってでしか食べたこと無かった。何より米が進む。お米をおかわりしたいぐらいだった。ピクルスも売っている物みたく、噛んだ瞬間に過剰な甘さが出てくる訳でもなく、少しの甘味と野菜の歯応えとしっかりとした唐辛子の辛さが効いていてめちゃくちゃ美味しかった。そして毎回の如く、味もそうであるが、人に作っていただいたと言う事が何よりの美味しさである。

最初は自分が米の方が好きだと言って、パスタの茹でる量を減らすなど気を遣っていただいたのだが結果的に普通に自分もパスタをいただいて、トータルは1番食べていた気がする。

少し脱線する。ユカさんは港まで迎えにきてくださった時の第一印象は少し物静かな方なのかな?って思っていた。家に着いて気がついたのだが背が高くスラッとしていて手足も細かった。ルックスも相まって、美人や綺麗な人と言う印象が強かった。まぁここまでお話しもそんなにしていないので印象も外見だよりな所がある。そして家についてからタクさんと少しばかり話していて面白かった話がある。

タクさんは廊下?のフローリングの床をモップで掃除するのが好きらしい。ある時、掃除をしようとモップをかけようとしたらユカさんが洗面所を使い始めた。タクさんは、まぁ良いかと思い、洗面所とは場所的に反対側のトイレからスタートしてゴールを洗面所に設定して掃除を開始した。

そしてタクさんはユカさんから、トイレから始めたモップで掃除しないでと言われた。

いや、洗面所を使い始めたからと言うもののタクさんも、確かにトイレからやったモップで掃除するのは確かに気持ちの良いものではないなと思った。その後、ユカさんが言ったのかタクさんが自身で気が付いたのかは忘れてしまったが、何故、始まりが洗面所かトイレの2択なのだ?と言うことにタクさんはたどり着いた。だって台所から始めても良いしどこから始めても良いわけである。そしてユカさんが洗面所の使用を終えてから、洗面所をモップかければいい話。

なのに洗面所かトイレの2択である。あれ?ってなった結果、タクさんは自身の性質にそこで気が付いた。

タクさんは後でやれば良いとかの覚えておかなきゃいけないことを多くは抱えておけなかったり、優先順位を決めることが苦手な傾向にあるようだ。

掃除以外でも、同時多発的に物が壊れたりするとどちらの方が先に直したり対応したりすべきか?とか、あるいは対応方法を同時平行で進めていく事に難しさを感じて良く分からない状態になるらしい。こっちはこうでああで、あっちはこうで...無理。みたいな。

だから前にも少し聞いたのたがタクさん自身が物をあまり持たずにある種のミニマリスト的な感じで生活しているというそれは断捨離でも、シンプル(ここでのシンプルは単純としておこう)に生きたいとかではなくて、タクさん自身がそれをする事で余計な優先順位を付けたりする機会が生活する上で減らすことが出来るから結果的に物が減っただけでミニマリストを目指した訳でもない。タクさんの中では焦る事やストレスを避ける為におこなった情報の削減が結果的な物の削減に繋がった。と言うだけの話なのだ。

ある意味、タクさんがタクさん自身として生きていく本能的な戦略だなと思った。物が多ければ情報が多い事にも繋がるので例えばご飯を食べる時にどの食器を出すか等のある種の優先順位を決めることも減るだろう。食器が少なければそれしか無いのだから無いなら無いだけそれらの選択はどんどん削減される。掃除もやれるところからやると次はどこをやるかなどの場所の優先順位を決めなくてはならない。しかしそこにルールのようなトイレから洗面所。洗面所からトイレと言うようにスタートとゴールがあればそこには優先順位と言う物は存在せずに順番と言う概念になる。

まずそれに気が付くことが凄いなと思う。別にそれって指摘された時点でケンカで終わってもおかしくない物だし、そこに対して、何故他の場所から融通利かせて掃除を出来ないのだろうか?と自身で問いが出ることも凄いし、それに繋がってタクさんが物を少なくしていたいと言う世間で言うミニマリストになっている理由も明確だし、そこにはタクさんが日々の中で自身がどう過ごしていくか?どうしたら心地好く過ごせるか?が詰まっている。

なんかタクさんからミニマリストと世間で呼ばれている事の根本に見て、触れた気がした。ミニマリストとはどうやら必要以上の物を持たないとか最低限で生活する事ではなくて情報の削減なんじゃないかと。全てはその情報の削減の結果であり、物の削減という、その結果が及ぶかは人それぞれなのでは?と思う。

分からないけど、最初にミニマリストをおこなった人はきっとタクさんのように情報の削減をおこなった結果が物が少なくなって過ごしやすいなと感じたんだと思う。しかしそれを物を減らすと楽に生きられるよとか過ごしやすくなるよとかの何か謳った結果だけが切り取られて何故物を減らすのか?減らすと何故良いのか?がそれぞれの個人の中で吟味されずに結果と言う形だけが1人歩きした結果が今言われているミニマリストなんじゃないかと勝手に思った。

情報の削減を根本とした場合に、それは紛れもなく生きる知恵だし素晴らしい物だなと思う。情報の削減が結果的にルールを決めたり、物を減らしたり、他にどんな影響があるかは分からないけど物を減らす=ミニマリストではないと自分の中では大きな気が付きだった。

そう言った観点でミニマリストを見れば、自分がどれだけの情報の削減をすれば楽なのかと自然と考えるし、自分と情報量との関係性も見ようと思える。案外減らす必要ないなとか、思ってるよりも自分って情報を捌けていないなとかの自分なりの基準が体感から出来上がるではないだろうか。それは紛れもなく揺るぎ無い、自分にとって確かな基準になるはずだ。それが総合的に見て、生きやすさの1つの要因に確実になるはずだ。

形が何かをもたらすのではないなと思った。

良い時間になったので卓球が出来る施設に向かう。到着して受付を済ませて(タクさんが前日に連絡してくださっていた)卓球上へ。結構大きな体育館みたいな感じで小規模の大会みたいなのなら普通に出来るレベルだなと思った。これから卓球をやるのにバスケのゴールを見ていたらバスケがやりたくなってしまった。次回はバスケで決まった。

とりあえず卓球が始まった。少しばかり試し打ちをして試合を3人で回していく。

総当たりをトータルで3周ほどしたのかな?全員4勝4敗で終了した笑

タクさんは結構トリッキーな感じだった。全く卓球のセオリーが無かった。卓球と言うよりも別の競技にも見えるし、だけどそれがふざけているようにも見えない。タクさんの中でやれることをやっている。ここにも情報の削減が影響しているのだろう。返ってきた玉を返す。どう打とうとか、コースを狙ったりとかは一切無い。来た玉を返せる形で返す事すら思うことも意識することもなく来た玉を返している。玉がとにかく返ってくると言うのは相手に徐々にプレッシャーを与える。その積もりに積もったプレッシャーはチャンスに力みを与えて欲をあぶり出しミスを誘う。だからタクさんの玉は何のリズムも帯びていない。玉が高かったり普通だったり落ちる場所も予想が付かない。それでいて、ボールが100均のだったのでイレギュラーバウンドする。(1度、まっぷたつにした玉を再度着けたような接着面がある。その接着面が台に触れるとイレギュラーバウンドを起こしていると思われる)条件は皆、同じなので何の問題も無いのだがそれがタクさんのプレイスタイルには好転的に働いていた気がする。

ユカさんは運動が得意そうだなとすぐに分かる感じだった。リズムも卓球のそれだった。普通に卓球をしていた。ハイスタンダードみたいな感じで、大体の物事のお手本になれるような人だなって感じだった。動きに自身の個性が強く現れずクセが少ないので模範的な動き方をすぐに身に付けられるタイプだなって印象があった。細身ではあるものの、体の強さもあるのだと思う。少し無茶な体勢からラケットを振ったり、厳しいコースの玉も何度も拾っていた。その無茶を自身が楽な体勢に回り込みながら打てたらめちゃくちゃ強そうだなと思った。それと感情の起伏はそれなりにあるもののメンタルにはさほど影響は与えていないようにも見えた。点を取ったら喜び、点を取られたら悔しがる。しかしそれがメンタル、及び、プレーに影響が出てるかと言われるとその影響はとても少なかったように見えた。喜び、悔しがるという事が喜び、悔しがる以上の意味を持っていないということだろうか。因みにリズムも卓球だったしハイスタンダードだったので玉のイレギュラーを除いたら、ユカさんの方が断然、試合しやすかった。ある意味信頼して試合が出来た。ユカさん自体の動きにイレギュラーが少ないから想定することが少なくて済む感覚があった。スポーツも情報の削減は有効で、ただ自分の情報の削減をおこなうのではなくて相手の選択肢という可能性を自分の行動等で潰していって相手に対してこれしかないと思わせていく事で結果的な情報の削減をおこなうと言った感じになるだろうか。それでも言うのは簡単でやることはとんでもなく難しい。それが容易くおこなえるのは圧倒的なレベル差と相手にそもそもの選択肢と可能性が技術や経験の少なさからそれらがそもそも限られているとかではないと無理な話だ。

自分は最初に3連敗した。先に書いた、玉のイレギュラーと打った時の感覚の違いに戸惑って対応に追われていた。

イレギュラーするのでライジング気味で返してみたり、相手のコートに優しく落とすように返してみたりとか、とにかくこの玉でどう卓球をするのかを模索した。

そして自分は強打を打つことに切り替えた。イレギュラーによる事故を起こさない方向ではなく、甘い玉は全て強打で対応する方がお釣りが来そうな気がして、そちらに切り替えた。博打気味にやけくそ気味に何球か打っていくうちに、空ぶっている感覚に気がついた。と言うよりも、この玉に対して強すぎる力を与えていると言った方が合っている気がした。

なのでとりあえず、ただ腕振ると言うことに意識だけの切り替えをした。打つのだけど、振った腕の先のラケットが玉に当たると言ったイメージへ。そうしたことで玉の感触をラケットから感じるようになってきた。

よし!これならいけそう!ただ腕を振るだけだ!

そして次は失敗した。腕をただ振れば良いと、1点取ったさっきの場面からの自分を今に持ち込んで違う物となった。腕をただ振ろうとしてしまった。さっきのようにと。

あー違う違う。この現在の自分が今の試合の状況の中で腕をただ振るのだと。腕をただ振れば良い訳じゃない。

そのうち、試合のこの中にさえ居ればと言う風になっていった気がする。

失敗する時は明確だった。チャンスをチャンス!と思い打ち込んだり、高い玉に意識を煽られて待ち構えたり、コースを狙ったり、上手くいった時を今に持ち込んだり。やってミスした瞬間に「ですよね」って納得してる自分が現れだした。

もう後半はどれだけ試合の中でただ腕を振れるか。それに向かっていていた。決めてやりたい、チャンス、コースを狙う、その他作為的な自分の欲との折り合いを付け続ける時間になっていた気がする。

気が付けば3人が4勝4敗で幕をおろした。最後に適当な打ち合いをしたけど全く身が入らなかった。

肉体的な疲労は殆ど無いものの精神的にはゴリゴリ削られた笑 しかし良い気分でもある。久しぶりの感覚だった。

卓球を1時間程やって、タクさんの家に戻り15時前。海岸を少しばかり散歩した。

お2人は潮風の匂いや波の音を聴いて、いつもの日々との差を感じているようだった。自分はずっと潮風の冷たさや体に対する負荷などを気にしていた。潮風はちょっと重い気がする。通り抜けていくと言うよりは強くぶつかって来るイメージがある。

自分も嗅覚と聴覚は敏感だと思っていたがあまりこの日は感じられなかった。

そしてユカさんが空を見て、綺麗だと言っていた。自分は景色などで綺麗と感じられる、思える事って普通に才能だと思ってる。日常的な景色などでそれを味わえるのならそれは生きる才能とも言える。それを自身のケアに当てたりも出来る。それが日常と言うある意味、ハードル低くおこなえるのは才能以外の何物でもないと思う。

散歩を終えてタクさんの家に戻ると紅茶とおやつが出てきた。山盛りの大学イモと、名前不明のドライフルーツ等がテーブルに並んだ。紅茶も大きい箱から出てきて、色々な種類の物が所畝ましと並んでいた。地域や国?にちなんだ物になっている。自分は青森りんごの紅茶?をいただいた。

凄くりんごの良い香りがしている。だけど飲むと、りんごの甘さは一切無い。嗅覚と味覚がリンクしない感じがとても不思議で面白かった。その後、パックを使いまわして三番煎じまでおこなった。(こんな言い方無いと思う)

大学芋もめちゃくちゃ美味しくて暴走しそうになった。タクさんがポン酢を少し入れたらしく、香りはするけれど味はしないと言う絶妙な配合をしていた。

食べながら色々な話をした。

ユカさんに、負けず嫌いで勝負に厳しいよね?って言われた。そして卓球の時、怖かったと言われた。まぁ確かにここ最近ではあるが結構負けず嫌いなのは自覚し始めた。じゃんけん1つでも緊張する。勝ちたいと思う。勝てば喜び、負ければ悔しい。じゃんけん1つで。勝ち負けなんかこだわり無いと思ってた。どうでも良いと。でもやっぱり負けず嫌いで、勝負するなら勝ちたくない?って思ってしまう自分がいる。だけどユカさんにも指摘されたが、ゲーム感覚でそれらを楽しむことが自分には難しい。大抵は軽いノリでじゃんけんとかトランプなりが始まるのが普通だが自分はその軽いノリにふさわしくない熱さを持ち込んでいるのだと思う。そしてそれが分かってしまったのか、自分の中に被り物を用意した。勝ち負けなんか関係無いですよ、こだわり無いですよって。それでもきっと漏れていたのだと思う。負けず嫌いが。多分それを卓球にも持ち込んでいたのだろう。恐らく、自分が先に書いた試合での工夫している姿や雰囲気が卓球というゲームに対しては重すぎる物だったのだとおもう。それがユカさんに緊張感を与えて、ピリッとした空気を卓球の時に作り出していたのだと思う。

卓球も小学生の時にただ遊びでやっていた。誰に習うわけでもなく、大人とやったり同級生とやったり。その中にある経験、体感から得た身体記憶が自分なりの卓球という概念を作り出している。自分のレベルで自分なりの概念なのでそれが合っているかは別にしておきたい。それでもこうなったらこうなってしまうよなという物は無数に身体に刻まれている。それが先に書いたように卓球という概念を自分の中に作り出している。

しかし楽しむはずが緊張感を与えていたのかと、的外れな感覚であの場に自分は立っていたのかと思ったら恥ずかしくなった。

タクさんに、勝負ってハッキリするものですが答えが今すぐ出ないものやグレーな物について考えたりとかってどうなんですか?と問われた。

例えば死とか。正直、自分は何度か日記でも書いているが死を軽く見ていた時期と死にたくないと思った時期、そして現在はいつか必ず死ぬんだと言う絶対を少しばかり感じている時期にいる。でも生死についての感覚はとても甘く、考えても今の自分には生死を考えるには材料が少なすぎるなと言う結論になる。その話から生まれ変わりはあるか?と言う話になった。輪廻転生的な事だろうか。自分は何となくあるんじゃないかと思ってる。今、自分が自分だと思っている意識なのか何なのかが、それでも確かにあるそれはこの命尽きて終わりだと思うけど、魂?的なのは次もあるのではないかと何の根拠も無しに思っている。

そこからタクさんはとても面白い話を繰り広げた。タクさんは今、33歳だ。33年前にこの世に生まれた。じゃあ34年前は?恐らくお腹の中だろう。じゃあ35年前は?お腹にも居ない。だけど先に自分が書いたように、今の自分が自分だと思っている何かは確かにあって、それを持ち合わせてこの世に生まれてくる。じゃあこの自分は自分だとする何かは35年前はどこにあったのか?もしくは居たのか?

自分もそこが凄く気になっていた。その自分が自分だとする何かとは何なのか?どこにあったのか?肉体は分かる。何か医学的に証明されているだろう。細胞分裂によって出来上がるのがこの肉体。これは分かる。じゃあ自分が自分だとする何かは何なのか?どこに居たのか?

タクさんは、1つの概念を自身の中に作り出した。

恐らく35年前、タクさんだとする何かは神なのか仏なのか分からないが、そう言った何かの元に居た(以降、神とする)。そしてタクさんはお願いした。◯◯(これがこの世に来てやりたい何かだと推測される)を経験させてくれ!と。そしたら神に「辛いことも苦しいこともあるしお前の思い通りにはいかないこともあるよ?それでも良いの?後であーだこーだと文句言うなよ?」って言われてタクさんは縦に首を振った。どうする?オプションでトラウマとか付けとく?みたいな質問や要望をいくつか受けて、そしてタクさんとする何かと肉体は共にこの世に生を受けた。

ここでまず1つ。タクさんはこの世に生まれて、なにかを経験したいと神に言って生まれてきた。なので生まれた時点で願ったことの1つは既に叶っている。だから後は経験するだけ。それは何なのかは分からない。それは途中で気が付くのか?死ぬ間際に気が付くのか?分からぬまま一生を終えるのかは分からない。だけど自分は思う。とてつもない細かなヒントがこの日々の中に散りばめられているのではないかと。それを集約しても答えになるかは分からないけど、それでも細かなヒントは確かにあって、それを蓄積しているのかもしれない。そしてそれが刺激されるようなトリガー的な出来事に定期的に出会うのではないだろうか。

タクさんは更に続けて言った。この世に来る時に高性能なカメラを持ってきていてそれで人生をノンフィクションで撮って、死んで帰った時にそれをみんなで見て、それには心の声も字幕でついてみんなで和気藹々と見て楽しんで恥ずかしがったりしながらノンフィクションな自分の人生を楽しむと。

より良い映画と言うかノンフィクションを撮るために先に書いたようなオプションを要望したりして生を受けていると。そして、また映画が撮りたくなったらこの世に出向く。根本は一緒、だけどオプションが全く違う自分とするなにかで生を受ける。同じ映画はもう下位互換だ。だから自分という人生をちゃんと撮ることが面白い映画を作ることに繋がる。タクさんはそう言った概念からどこか独自性を求めている。

そしてそう思えてこそ、ハプニングも楽しめる。イラつくことや、嫌だなと思うことに遭遇しても、映画になると考えればそれは撮れ高に変わる。これもタクさん自身が編み出した生存的本能から来る、生きる知恵な気がする。

これが正しいとか正しくないとかはハッキリ言ってお門違いで、これによって人生が少しでも良く生きられるのなら本当に素晴らしいことだし、人生をこう捉えているタクさんの発想が素晴らしすぎる。

そんなタクさんの概念が爆発した、輪廻はあるのか?と言う議題とそんな事と人類の進化についてなどを行ったり来たりしていた。

そこから、ユカさんのセラピスト時代の話を聞いたり、瞑想やヨガの経験が自分の話した事と似ているという話題になったりとユカさんを言葉から知っていった。

ユカさんは恐らく自身の意思や決定に関係無く、その場に求められる物を自然と出来てしまう人だなと思った。バランスを取るのではなくて、ユカさん自身がバランスそのもの。なのでユカさんがやっていることは自然すぎて認識が非常にしづらい。そこに、本人のやったと言う想いや意識、意図が全く注がれていないので周りやその場はそれを自然に受け入れてしまうと言う構図に圧倒的になりやすい。受け入れているとすら気が付かないほどに受け入れてしまう。それによって周りやその場は何となくの心地よさは感じているものの何がそうさせているのかは全く分かっていないだろうし、無論それがユカさんが居るからだと言う事に何となくそんな気がすると言う程度の認識すらも生まれていないだろうけど(タクさんは別)本能的には心地よさを感じているので無自覚にユカさんを求めてくる。そして周りに重宝される存在であると同時にその場に求められた事を自然にこなしてしまうそれはオートマでおこなわれるので自身の体力が減ってこようが勝手に発動してハッキリと疲れが自覚できた頃には遅い事が多いと思う。そして体力が空になるまでそのクオリティーは落ちること無く維持され続けるから周りも恐らく気が付けない。気が付ける訳がない。無自覚にユカさんを求めてただ自然に受け入れてしまう事に何の認識も無いのだから。また感受性もとても強く、そして過去の記憶が感覚、感情と恐らく密接に繋がっているためにその時の事が良くも悪くもとてもリアルに感じられる。

ユカさんの情報量と体力関係無しのオートマ性質を他の人間が体感したとしたら情報過多で刺激が多すぎて即死だと思う。これはユカさんだから耐えられていると言っても過言じゃない気がする。ユカさんは凄くタフだと思うしめちゃくちゃ頑張っていると思う。本人はそんな気は一切無いだろうけど。

そしてユカさん自身も言っていたが、自身を責めてしまう所。何故に責めてしまうのか?自分は少し疑問に思った。とんでもない情報量を浴びながらも体力に関係無いオートマ機能の自然バランスとクオリティー維持機能。生きているだけで凄いことだし、存在が周りを支えているのにどうしてだろうと。こんなことは言うと語弊があるかもしれないが価値ある存在だと誰もが思っていると思う。自然過ぎて認識してるかは別だが。だがそうだよな。自然と言うことは自身もそれを認識することはとても難しいんだよな。体力は減るけどそこに労力はかかっていないんだよな。ある種の反発反動から来る、人が手応えと呼んでいるものは殆ど感じられていないだろうな。自然なのだから。周りに全て入っていってしまうのだから反って来るもの何かあるわけが無い。ここまでバランスその物になっている人に自分は人生で出会ったことが無かった。

他にも色々と話した気もするが自分ばかりが話していて何かちょっと帰って反省した。父親の話しとかしたけどまぁ個人的にはもう少し時間がかかるかな。この絡まった物は。でも少しずつやっていこう。

夜遅くまでお邪魔してしまって、港まで送っていただいた。その後、自分は大樹さんのアトリエに行って、日記などを書いた。帰る頃には日付けを跨いでいた。

いやースパークリングのように刺激的で充実した1日でした。なんか親戚のお兄ちゃんとお姉さんに遊んでもらった気分でした。

次はバスケします。

寝る準備をして布団に入って1日を終える。

ゼロ円ハウス125日目終了。

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