今と一昔前。

令和4年3月17日ゼロ円ハウス171日目。

アラームで目が覚める。ご飯を食べてバイトの準備をして出発する。コンビニでひと息。

倉庫に到着する。本日は出荷の準備から。デコポンだけに関して言えば少しピークは過ぎ去ったような雰囲気が漂っていた。

シールを貼り、箱を折る。1時間ほどやって、ハウスに向かう。デコポンを収穫する。今日中には終わる算段が立てられる程にハウス内のデコポンの数は限られてきていた。オレンジと緑の配色が広がっていたのにいつの間にか緑しか見えない場所になっている。あと少しのデコポンを収穫していく。

バイトをするようになってから色々な方から一昔前のお話を聞くことが増えた。そう言う時代があったんだなと思う反面、その時代を生きる人達は超人だなとも思った。

今の世の中と違い、性別による役割などが強く根づいていたように思う。それに例えば冠婚葬祭とかのやり方や価値観、それら1つ取っても今とは大違いだ。葬式も大きく行い、そこで出される料理は奥さん、女性たちが自分達で何十人、何百人分も作ったりしていたそうだ。良いのか悪いのかはさておき、そのどれもが自身のステータスのアピールする所でもあったように思う。これだけ大きなものを行うことが出来る。それを人の徳と言っていただろうし、そう捉えていたであろう価値観があったと思う。車も家も結婚の有無も仕事もその全てと言っても良い範囲が評価される物だったのかなと話を少しばかり聞いていて思う。

役割が決められている故にそこには個人の資質はあまり加味されない感じがある。苦手や嫌いなどと言う余白はそこには無く、男の自分が、女の私が、それをやらなければやる人がいない。苦手や嫌いなんて言っても何も始まらないし目の前の事がどうにかなるわけでもない。だからその有無は関係無く、男は男の価値観を、女は女の価値観を全うするのが当たり前の時代。生活の上で自身の資質は加味されないけど確かに自身の中にはその資質のバロメーターは存在しているわけでやはりある程度決められた価値観の中では生きづらい人も確かにいたと思うがそれはそれでゼロには出来ない。しかしある程度の決められた価値観があって、それが漂っていると言うことは自身の事も相対的には表面上、理解しやすい事にも繋がる気がする。今は色々な事が受容されて、されていないとしても受容しようとする動きはあるハズだ。確かに心無い言葉や推測の足りぬ浅はかな言葉に、その人間性に傷付く人もまだまだ多いと思う。しかし多様化し過ぎた故に何でも認められようとしているが故にどんな事もそこに明確な基準が立てられずにほぼ皆無になっている。どんな生き方しようが別に前ほどはとやかく言われなくなった事によって自身がどの方向にどのぐらいのスピードでどこの辺りに現在はいるのか?それがとても分かりづらい。迷子の感覚に近いと思う。情報も気軽に触れれる時代、自身の抱えてる要素が少しずつの割合でどこにでも転がっている。その要素1つを切り取って大きくしたものが蔓延っていたりもするし、そんな情報に触れて、ここまでじゃないと思ったり、これで悩んでいたのかも!?って思ったり。もっと自身より大きく抱えている人はいるハズだと思う人と、これが自身その物だと思う人。もっと細分化したら違うのだろうけど大まかにはこの2つのパターンになるんじゃないだろうか。そしてこの2つのパターンのどちらにも勘違いと正確な答えにたどり着いている人がいる。なので4パターンだろうか。この中のパターンで違うパターンを持つ者同士が関わって更なる勘違いを生むこともあるし、正確な答えにたどり着くこともある。一昔前はそんな事は恐らく無かった。それは時代からの解答なのでそれが正しいのかは分からないが少なくとも分かりやすい基準は確かにあったし、そこからどのぐらいズレているかは明確だったと思う。だからズレが明確なのなら、そこに割りと早めに何故ズレているのか?ズレるのか?その問いを自身に出すことが出来ると思う。だけど今は自身に問いを出すことがそもそも難しいのかもしれない。形だけの正しさや正解は転がっているし誰でも拾える。そして色々な事が受容されてきている。だから自身がはみ出ているとかズレているとはしっかりと感じにくいと思う。だけども確かにある違和感。それをどうしたら良いかがとても分かりづらい気がする。しかし何でもかんでも社会が人が周りが自身をパーフェクトに生きやすくなんかしてくれるわけが無い。理解されないとか、分かってもらえないとか、そんな事はそもそも前提に持っておかないとその度その度に傷付く事になる。それでも声をあげることは勇気と呼べると思う。だけどその前提無しに声をあげるのは自分的には甘えに他ならないと思う。ただ色々な事を言える思える感じれるのは平和で余白のある事のなのかもしれない。色々な事を言う前に責務がついて回って、ある程度の基準があった世代の人から見た今は、何を言ってるのか?そんな事を言って騒いで何になる。自身でしか見るものは変えていけないだろ。誰かが、あるいは魔法なんかある訳じゃない。自身で折り合いを付けていくしかないだろ。みたいな。これは個人的な推測なので分からないが。そう言う事を仮に思っていたとして、そう言う物だからと色々な理解をすっ飛ばして何の吟味もなされない言葉や態度やそのシステムがあるのも辻褄が合うなとも思う。

責務と役割と基準の中で起こることで自身が出来ない事は出来るようになるしかない。その中で生きてきた強さは確かにあるし凄いなと思う。だけどそんな中で気質的に向いていなくて強い努力や我慢を強いられた人はやはり満たされない何かはそこにはあって、自身の昔話等をしたくなるのも分かる気がする。それはその時、当たり前とされた基準だったしそれを達成して越えていたからと言っても誰が誉めてくれる訳でも無かったと思う。だけど自身には相当な我慢と努力を強いてその基準に必死にしがみついていたとしたらそれは誉めて欲しいよなと思う。だがアプローチを間違うから人に嫌われるのだ。自身の努力と我慢と頑張りを語る人は誉めてと言えば大抵は解決だろう。それを言えぬのは何の役にも立たないプライド故か...向き合うことは山のように出てくる。そこからが自身への入口なんだろうなと思う。

一緒に収穫しているおばちゃんと話をしていて、先に書いた通り、そう言えば一昔前の話を聞く機会が増えたなと思った次第だ。

お昼休憩の時間になった。スーパーの休憩スペースでご飯を食べる。

午後からもデコポンの収穫。そろそろラストスパート。終わりも確実に見えてきた。終わりに向けてやり続ける。

1時間ほど経った時、ハウスの入口付近から男性の声がした。???と思っていたらKさんが苗の隙間から現れた。更に???ってなった。しかしすぐに繋がった。そうか、こうた君に密着していて、男性の声はこうた君のバイト先の農家さんかと気が付いた。そして連れてきてもらったのだろう。その後はバイトが終わるまでKさんは居た。

デコポンも終わり、次はレモンに取りかかる。苗や枝がとても鋭利で油断すると刺さったり擦れて引っ掛かれたような感じになる。しかしこれは嬉しい。体にキズがつく。治そうとする機能が刺激される。新陳代謝も良くなるような感覚がある。

レモンの収穫に合流して程なくしてバイトは終了した。お給料をいただいて買い物をしてゼロ円ハウスに帰る。

帰ってきてから少しばかりグダグダしていたら、こうた君とKさんが一緒に帰ってきた。

そしてそのままインタビューに突入していた。リビングで。自分はご飯を作り、食べてながらその話を聞いていた。

話を聞いていて、まぁその誠実さがあれば多少の甘さと都合の良さは、良い塩梅に繋がるんじゃないかと思った次第だ。

Kさんはまた近日中に来るそうだ。もう撮るもの無くない?てか体力どうなってるの?ってマジで思った。

Kさん曰く、心が動く瞬間を撮りたいらしい。心が動く瞬間?とは思ったがそれって狙って撮れる物じゃない気もするなと思った。もうこればかりはKさんにその素質があるかにかかってる気がする。

そんなこんなでKさんが帰られた後は部屋で日記を書いたりしてゆっくりした。明日と明後日は休みであるが明日は雨。実質的に引きこもりは確定している。とりあえずは日記を書くことに時間を当てようかなと思う。

寝る準備をして布団に入り眠りにつく。

ゼロ円ハウス171日目終了。

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