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【英国法】コモンローと衡平法 ー10分で読める英国法の歴史ー

こんにちは。
お読みいただきありがとうございます。

今回は、法律実務の話からはちょっと離れ、コモン・ローと衡平法(equity)の歴史についてご紹介します。「10分で読める」というのタイトルが詐欺にならないよう、分かりやすく説明したいと思います!

なお、法律事務所のニューズレターとは異なり、分かりやすさを重視して、正確性を犠牲にしているところがありますので、ご了承ください。


コモン・ローとは何か?

コモン・ローとは、多義的な概念ではあるものの、今回のエントリーとの関係では、次のように定義します。

中世以降、イングランドの国王の裁判所における先例
を基礎に発展してきた法体系

ざっくり言うと、過去の裁判事例の束ですね。

例えば、日本であれば、殺人犯は、刑法199条の「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」という定めに基づき裁かれますが、イギリスでは、過去にある殺人を犯した者がある罰を受けたという先例に基づき、裁かれることになります(*1)。

「コモン」ってどういう意味?

コモン・ローの起源は11世紀、ウイリアム1世によるノルマン朝イングランドの建国の時代までさかのぼります。彼は、アングロ・サクソン貴族の土地を没収し、徹底的な検地をおこなうことで、極めて中央集権的な封建国家を確立します。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Odo_bayeux_tapestry.png

このような体制の下で、地方貴族が管轄する各地の荘園裁判所は、国王の裁判所で出された先例に従うことになります。国王の領土において共通して適用されるルールであるが故に、国王の裁判所の先例は、コモン・ローと呼ばれるようになったのです。

コモン・ローの運用の硬直化

14世紀半ばになると、国王の裁判所での審理は杓子定規なものになっていきます。新たな種類の令状や、訴訟の形式を認めず、弁論や証拠の手続も固定化されていました。

その不都合の例としてよく挙げられるのが、債務者が、債務を支払った後に借用書を適式に消印することを失念していた場合です。

当時のコモン・ローでは、消印されていない借用書は債務の存在の動かぬ証拠とされており、たとえ一度支払いを済ませていたとしても、そのことを主張することが許されていませんでした。そのため、債務者は再び支払い行わなければなりません。

債務者に借用書の消印を忘れるという落ち度があったとはいえ、ちょっとかわいそうですよね。このように、コモン・ローの運用の硬直化とともに、救済を受けられない当事者が増えていきます。

衡平法の確立

このような背景から、15世紀、コモン・ローに従うと適切な救済を受けられない当事者は、国王に対して直接請願できるという慣習が確立します(*2)。

実際には、国王の任命を受けた大法官(Chancellor)が、コモン・ローの訴訟手続と、当事者からの請願手続の両方を所管していたのですが、前者はラテン語、後者は英語で手続が行われていため、それぞれ「Latin side」、「English side」と呼ばれていたようです。

大法官は、当事者から請願を受けた場合、自己の良心に基づき、事実上、コモン・ローの規則を、その個別的な事例において覆すことができました。こうすることで、硬直的なコモン・ローの運用の中にあっても、当事者の権利救済を果たすことができたというわけです。

しかし、考えてみてください。
コモン・ローによって不当に扱われたAさんに救済を与えながら、他方で実質的に同じ事情に苦しむBさんに救済を与えないことって、あり得るでしょうか。大法官の良心に反する気がしますよね。

大法官の良心に基づく個別具体的なものであるはずだった「English side」の判断の数々は、過去の先例を参照するようになります。
このような先例の集積が、もう一つの法体系を形作ることになります。

これが衡平法(equity)です。

二つの裁判所の統合

笑っちゃう話ですが、18世紀末になると、衡平法は、コモン・ローにも劣らない厳格なルールとなっていました。まあ、先例法を突き詰めると、そうなりますよね。

こうして、イギリスでは、コモン・ローと衡平法という二つの先例法の法体系が併存することになってしまいます。同じ問題を異なるルールで裁定する二つの手続(=裁判所)があるなんて、不便極まりないことです。

そこで、1873~1875年、二つの裁判所が統合されることになり、一つの
事実に対して、コモン・ローと衡平法の両方を考慮の上で、一つの裁判所で手続が行われることになりました。

なお、両者が矛盾するときの優先関係については、長い間激論が交わされていたようですが、この統合に際して、衡平法が優先するということで決着が付いています。

英国法の法源について

コモン・ローと衡平法の説明からは少しそれますが、もし誤解があるといけないので、ここで補足します。英国法の法源は、次のとおり、コモン・ローと衡平法に限られるものではありません。

・ 制定法(statutory law)
・ コモン・ロー
・ 衡平法
・ 条約
・ 憲法上の慣行
・ (地域の)慣習

ここでは、特に、制定法が重要です。具体的には、議会が定立した法規範(Act)ですね。余談ですが、権利の章典(Bill of Rights)って、世界史の授業で聞いたことありませんか?実はこれも制定法の一つなんです。

そして、制定法は、コモン・ロー及び衡平法に優先します

イギリスはコモン・ローを基礎とした法体系と言われ、それは間違いないのですが、今日では、制定法がより重要になってきています。

例えば、冒頭で挙げた殺人罪(murder)は、コモン・ロー上の犯罪ですが、これはかなりレアケースで、ほぼ全ての犯罪は、コモン・ローではなく制定法によって要件と罰則が規定されています。

また、会社法、証券取引規制法、データ保護法などについても、詳細な規定を持つ制定法が整備されています。

ぼくの個人的な考えですが、実務で英国法に触れる機会があったとしても、日本法と同様に、まずは制定法を確認、その行間を埋めるものとしてコモン・ロー及び衡平法を頭の片隅に置いておく、という思考手順で大丈夫だと思います。

まとめ

10分で読めたでしょうか。
今回のお話をまとめると、次の三点です!

・ コモン・ローとは、裁判所の先例を基礎に発展してきた法体系
・ 衡平法とは、コモン・ローの不備を補うために登場した第二の法体系
・ 現在は、統合されて一つの裁判所で審理されている

ここまで読んで頂きありがとうございました。
このエントリーがどなたかの参考になれば、幸いです。


【注釈】
*1 murderに関する最初の先例は見つけられませんでした。後述のとおり、制定法に規定されていない主要な犯罪は、murderぐらいだと思います。
*2 あくまで確立したのがこの時期であって、色々な資料を総合するに、実際は12‐13世紀の十字軍の遠征の頃から発展し始めたものと整理できるんじゃないかというのが、ぼくの私見です。このあたりの話は、封建制度が関係しており、信託法の発展にも絡んでくるので結構面白いです。また機会があれば書きたいと思っています。


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