見出し画像

Sun Raに学ぶ個人的体験談の聞き方

先日、吉祥寺のUplinkで『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレース』を観てきた。サン・ラーの音楽、ファッション、社会問題への意識、どれをとっても大好きなので、映像を通して彼の世界観に浸ることが出来て、とても幸せな時間だった。サン・ラーは土星からの使者で、こちらの世間では主にジャズミュージシャンとして認知されている。『スペース・イズ・ザ・プレース』は、サン・ラーが宇宙を旅している間に、理想の惑星、土星を発見するところから始まる。彼は宇宙での旅と土星での経験を経て、地球人に警告をならすため、土星からの大使として地球(アメリカ)にやってくる。ストーリーだけ書き起こすと、ありきたりなSF映画にしか聞こえないが、この映画が特別なのは、現実においても、サン・ラーは土星からやってきて、地球を救うために活動していたことだ。
もし、ある日突然目の前に自分が土星人だと言い張る人物が現れたらどう思うだろう。○○星からきたと言うコンセプトで売り出す「不思議系」芸能人は、日本でも存在する。周囲はそれを売り出す文句だと言い、冗談として扱い、嘲笑する。その表面的なやりとりで成り立つ世界なので、そこに対して意見を述べるつもりはないが、もしも、サン・ラーが周囲にそのように扱われたら、本人はどうするだろうか。まず、自ら進んで嘲笑される的になることはあり得ない。なぜなら、自分のことを土星人と確信しているからである。そこが、○○星からきた芸能人との根本的な違いである。後々、「不思議系」を演じてました、とカミングアウトする連中とは全く違う次元にいるのだ。サン・ラーは、とあるインタビューで、「自分は音も空気も色もない世界を見てきた。一般の地球人ができない体験をしたのだから、地球でその事実を理解されないことは仕方がない」と語っている。これは、宇宙人や幽霊を見た人と同じ感覚だろう。見た人はスーパーナチュラルな存在を信じるが、見たことのない人は、半信半疑か全く信じないかのどちらかである。サン・ラーは自身が体験したから、それを事実として語れることができるのだ。
そうなると、体験とはなにかという話になる。物質的なことだけが体験だろうか。見た、聞いた、触った、食べた、果たしてこのポイントでしか得られないものなのだろうか。「体」験という限り、五感を通す必要がある、という意見があるかもしれないが、特殊な脳活動によって何かを見たり聞いたりすることや、それによって感情、心境に影響がでることは体における変化の一種である。脳内で見たこと、心で感じたことからインスピレーションを受けること、または感化されることを非現実的で嘘くさいという人は、単純に想像力が欠けているだけである。自分が体験していないからという理由で物事を否定するのは、食べたことのないものは不味いはず、と決めつけるナルシストと同等である。ただ、嘘は別物だ。嘘をつく人は、体験から語っているわけではないし、そもそも語っている本人が自分の言葉を信じていないのだから、聞き手も信じられるわけがない(騙される、騙されないは語り部のテクニックの話であって、体験の有無とは別の話である)。
一般的には、物的証拠があると、話に信ぴょう性が増すとされている。裁判がその最たる例だろう。しかし、証拠がないからと言って、他人の話を否定することができるだろうか。女性の証言者の発言が男性の証言者の発言よりも証拠として取り扱われにくい、という法律がある国・地域が未だに存在する。信ぴょう性というものは、本来真実に近づくための物差しであるはずだが、このようにして捻じ曲げられて習慣化、制度化されることが多い。だとすると、「物的証拠がない話の信ぴょう性は低い」という認識も習慣化、制度化されただけのことで、必ずしも真実ではない。物的証拠として提示された品物がでっち上げの道具として使われることだってあることだ。そのことに気づくと、ユニークな個人的な体験談を自然に受け入れることが出来る。他人の体験談を自分が体験したことがないからという理由で否定するほど傲慢ではないし、色んな話を受け入れられる想像力は大事にしたい。サン・ラーの土星での体験は、その一つにしか過ぎない。ただそれだけのことである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?