#376C|理想VSありのまま

どれだけの運動量を基準としているのかはわからなかったが、統計によると「1年間で週2回以上運動を続けることができる人は3.7%」らしい。

私の周りはやっている人がわりと多いし当たり前になっていたけれど、そう聞くと「毎日」やってる私すごくね?と思える不思議。これが「比較」の力だ。人は「差分」に反応する。


今日は100チャレ7期の参加者さん全員の書き込み内容の確認と記録とスタンプ作業をひたすら6時間。ようやく最新まで追いついた。6時間。何かが間違っている気がするがもう終わったことだ。前を向こう。

普段こういう作業をしないのでとても疲れる。これも差分だ。慣れていないから心が反応するしクソ時間もかかる。運動習慣ゼロの人が私の量の運動をするのはちょっと大変だろうが、その逆のことが起こっているのだと無理やり想像してみると、さらに逆に「続けられるのは3.7%」にも共感が生まれたり。。うん、なんか違う気がする。


昨日書いた「スケール感」の話を今日も。

けっきょく私の感覚を表すための言葉がソレで適切なのかは疑問なままだが、予想外に「いいね」をいつもよりも多めにいただいたので、みなさん思い当たるところがあるのかしらなどと。

すがまりさんからコメントで「佐々木さんなんかは全然気にしていなさそう」とあったが「まさに」で、昨日書いた後に思ったのだが、私はモノゴトに「"理想"を必要としている」のかもしれない。佐々木さんは必要としないだろう。

その作業や行動が、「なんらかの理想」に、それは「なんらかの豊かさに」と言い換えてもいいかもしれないが、そこにつながっていることを感じられない作業をするのは、いくら集中できて生産的にこなせたとしてもどこか空虚だ。

私は倉園さんの情報を存じ上げないので、佐々木さんのよくおっしゃる「イリュージョン」の正確な意味をわかっていないかもしれないけど、「理想を必要としている」ということは「イリュージョンの中で生きていたい」ということなのかなあとか、それだとしたら私は現実逃避したいのだろうかとか、べつに人は誰でもイリュージョンの中にいるのがデフォだろうから気にしなくていいよななど、あれこれをぼんやり思う。(ここ、理解が全然違うかもしれない)


ごはんを食べる時。ただ目の前のごはんに集中して味わうのもいい。それも豊かな時間だとも思う。しかし、私はこのご飯を作ってくれた人、食材、食器、今ご飯を食べられること自体の平和、などに思いを馳せたり、勝手にそれらと関連するいろいろな情報や想像を描き感じながらいただく方が、私にとってはより美味しく食べられてより豊かな時間になる「気がする」。

人と話す時。ただただその人の話に集中するのもいいが、加えてその人をほわーっと包み込むようなイメージとか、自分の心が開いて相手と握手できているようなイメージとか、話すことで相手がよくなるといいなあ、といった想いを持って話を聞くほうが、より双方にとって心地よく話が聞ける「気がする」。

タスクシュートは人の生活を豊かにすると思っているが、例えばツールの質問に答える時、真剣に答えるのは素晴らしいが、「人の生活を豊かにしようとして答える」という前提の感覚を忘れて、ただ「聞かれているツールの使い方について答える」という仕方だとなんだか無機質みが増すし、回答の質は絶対に変わる「気がする」。


余計な空想を入れ込まない「ありのままの現実の豊かさ」ってのも圧倒的に「アリ」だが、理想を持たないで行う作業は心が枯れるような感じがあり、私はやっぱり理想がほしいなと思う。

しかしこれはゆくゆく「辛くなる」道なのだろうか。たとえばjさんが「追求した結果行き止まりだとわかった道」なのかもしれないな、などとも。

まあ、やって確かめればいいし、自分なりのベストをつくればいい。理想とありのままがVS構造にならないのが1番だが、仲間になる前にはバトルがある。比較してこそお互いがわかり、お互いがわかるから一体化できる。うん、そんな感じで(てきとう)

今日も1日よくやった。おつかれさまでした。


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