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#175C|やさしい環境と高い基準値を両立させるには

今日は久しぶりに深い発見があり、内省的な効果が得られたnote執筆だった。パラダイムシフトがあったので、今後の変化が期待できる。書いてよかったnote365日連続投稿チャレンジ175日目。30分以内で書くチャレンジはおやすみ。


求める成果の基準値を知る

どんなことであれ、「求める成果」を得るためには、それに必要なだけの「基準値」というものがある。それを求めるのならこれくらいのことをやる・こういうものを用意するのは基本だよ、というもの。

私のように「身体のサイズをアップすることが目標」と言いながら、1日1食しか食べず、筋トレは自重でしかやらず、トレーニングはHIITがメイン、なんてのは気が狂っている。1日5食喰ってベンチを上げろ。それを当たり前にやっているところがこの場合の「基準値」だ。

もし結果に対して必要な値がわからない時は、調べたり聞いたり、求めるような結果を出している人が「基本」としている行動の質・量を知ることが最初にやることだ。できれば肌感覚で体感する方がいい。


やさしさと甘さ

私は「やさしい人でありたい」とか「やさしい環境をつくりたい」という想いを強めに持っているが、やさしさはどうしても「甘さ」と繋がる感覚がある。

本当のやさしさは甘さでは成立させられないとわかっていても、自分によくない意味での甘さが出ることが多い。

「自分にも、人にもやさしくあろう」と考える時のそれは、文字通りの表現としての「やさしさ」であり、現象としての「癒やし」であり、存在としての「ゆるし」であり、肉体としての「脱力」であり、対象への「甘やかし」だ。それはそれで必要な時と場があり、そのような接し方ができることも大切なことだと考えている。


今むずかしいと感じていること

今むずかしいと感じているのは、そういった「やさしい姿勢」を保持しながらも、「高い基準値」を目指したい、というところにある。

よく言われるような「とにかく無理やりにでもすぐにやれ」「やり終わるまで寝るな」といった体育会系の強制感が嫌いで、そう言われたら意地でもやりたくなくなる。やさしさとは真逆の言動だと感じる。

しかし、そういった強い縛りがなければ、なかなか自分の常識を超える基準の行動は難しい事実もある。

「自分にやさしくありつつも、自分に追い込みをかける」これが今やりたいことなのだが、さてどうやって実現させるか。

そもそもそれができない理由はなぜか?と考えてみると、結論はやはり「習慣」であり、対策としては「環境を変える」ことという、いつも思いつくような事柄が最初に浮かんだのだけど、しかし。

今日はそれとは別の切り口で、私にとって素晴らしい発見があった。


「厳しさ=自己否定」という誤った認識

どうやら私は、「自分にとって厳しいこと」を、イコール「自分を攻撃する(否定する)こと」と結びつけて認識している。

だから、ナニカを頑張る時というのは、自分に鞭を打っていくような仕方になる。自分を責めるようにがんばる。自分を嫌うことで、自分をダメだと否定することで、それを原動力に行動する。(これ、今思えば完全に母から継いでいる)

もちろんそんな仕方ばかりということはない。健全な成長欲求に基づいて努力していることだってたくさんある。

しかし、自己否定の思考回路があることも事実で、今はこれを「完全にクリア」しようとしてどんどん「自分にやさしく」なっているが、すると行動力が落ちるという、あちらをたてればこちらが立たず、という状態になっていた。


健全な「愛のムチ」を打てるか

これは子供の頃からずっと疑いなく保持してきた考え方の癖だ。

他者からの「愛のムチ」を本当に「愛だ」と感じたことがなかった私は、「ムチとはただの攻撃だ」という認識で育った。そこで言われる「愛」とは詭弁であり、けして「私のため」ではない。

実際に私に「愛のムチ」を打ってくれた方々は、今でも本当にただの詭弁だったと思っているが、「鞭を打つ人が全員そういうわけではない」と、思えるようになった。

ようは「本当に愛のムチを打てる人もいる」ということを信じられるようになったのだ。(この視点の変化は素晴らしいことで、新しい世界が拓けそうだ)

しかし本当に「愛のムチ」があるのなら、早いうちにそれを打たれる経験をしたかったものだ。

ムチ=キツイこと=攻撃(否定)、と考えるようになった私は、「キツイ物事を強いられると反発心が湧いて関係を拒絶する」という癖がつき、おかげで生き方がかなり歪になった。

結果的にはそれによって「やさしさ」を発見できたが、それは甘えや弱さにも繋がった。甘えや弱さに繋がるような「やさしさ」は、まだ未熟なものだけれど。

そうして自分自身が自分に課すような厳しさも、攻撃のムチと受け取りダブルバインド状態になっていたのだった。


優しさと厳しさを両立させるには

けっきょく、「自分にやさしくありながらもハードな基準値をクリアする」ためには、、言い換えると「持続可能な形で今の自分よりも上のハードルの事柄に挑戦しつづける」ためには、「キツさ・厳しさ」への認識を変えることが必要そうだ、というのが今日の大発見だ。

仮に認識を変えないまま「環境」だけを変えて、地獄の特訓部屋みたいなところで心を殺して行動の基準値をあげたとして、そうして目標を達成できたとしても、その先には廃人化する未来が見える。


「長期的に高い成果を出し続ける」には、やさしさと厳しさを両立させること。そのためには「それらは(実は)同じものだ」という視点が必要で、そうすれば、自分にやさしくありながら高い基準値を課せるようになりそうだ。

実際にそれらが「同じもの」として扱われるような環境が用意できれば(それを他者にも用意することは成熟した精神の持ち主にのみ成し得そうな仕事だが)、そうすると「やさしくも成果が出る場」が作れるかもしれない。


私は今日のこの発見でイケるかもしれない。

これまでの人生で「キツイこと・厳しいこと」は、イコール「自分を否定する嫌なこと」だった。しかし、「嫌なこと」ではない「厳しさ」があるとわかった。それによって、「我慢して取り組む」のでなく「積極的に取り組む」という姿勢に変化できそうだ。これで必要な基準値に向かうための精神的な土壌が整う気がする。

強い負荷がかかることであってもきっちりやり抜くことができる人は、こういう認識を持っているのかもしれない。

私は「否定するために鞭を打つ人」でなく、「愛するゆえに鞭を打てる人」になる。


✑105分|2700文字

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