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玉木直季(英国王立国際問題研究所フェロー)のストーリー

日本で生まれ育ちながらも、グローバルな仕事環境で大活躍するリーダーのストーリーを発信する「グローバルリーダー・ストーリー」。

 ご紹介するグローバルリーダーは、英国王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)で研究員として循環型社会への回帰を訴える玉木直季氏。1994年慶應義塾大学卒業後に東京銀行(現三菱UFJ銀行)に入行。名古屋勤務を経てカイロアメリカン大学に留学。バハレーン勤務の後、国際協力銀行(JBIC)に転職し東京およびドバイに勤務。ドバイ首席駐在員や電力・新エネルギーファイナンス部 部長を経て現職。渡英前の通算12年に亘る中東在住経験を通じ、ひとりひとりの精神的な「豊かさ」の重要性に気付き、その実現を追求する開発金融のスペシャリスト。その他、ビジネスブレークスルー大学 准教授として教鞭を執りつつ、ヘリカルフュージョン社(核融合)、アーク社(陸上養殖)、セルファクター社(再生可能医療)といった循環型社会回帰に資するスタートアップ企業を顧問としてサポート。また、サステナブル食材の拡散、安心安全なコミュニティ拡大のため、共同オーナーとして、日本で唯一の活ムール貝の量り売り専門店「5108」や世界初のラクロスバー「L's Bar」、ロンドンメイフェアでは、本格抹茶専門バー「Matcha Metropolitano」や立喰いスタイルの鮨「TONARI」を手がける。ロンドンビジネススクール経営学修士。元ラクロス日本代表

 中東での経験から得た中東独特のものの考え方、そしてこれらからのビジネスマンがどう仕事に向き合って世界を相手に仕事をするべきか、その心構えを伺った。


 中東への憧れを抱いたのを思い起こすと子供の時代まで遡る。初めてピラミッドの写真を見た時から「いつかこの目でピラミッドやスフィンクスを見てみたい」という強い興味を覚えた。大学の卒業旅行で初めて訪れたカイロの街は埃っぽくて混沌としていたが、その空気が自分の肌に馴染むと感じたのを思い出す。

 「ナイルの水を飲んだ者はナイルに戻るという」というエジプトの古い諺があるように、大学卒業後に入行した東京銀行では語学研修先としてカイロアメリカン大学でアラビア語を学ぶことを迷わず選択。エジプトで暮らした1年6ヶ月の中で、人生の価値観が覆されるような経験を数多くした。

異文化の中で暮らして気がついた、
常識と価値観の違い

 カイロには当時スーパーマーケットが殆どなく、肉も野菜も市場(スーク)で購入する必要があった。英語や習い立てのアラビア語で「How much?」と値段を尋ねると、向こうから「You say how much」とすかさず言い返される。そこから価格交渉が始まって「それじゃ高い」、「いや安い」などと言い合いながら買うべき値段が決まる。モノの価値、すなわち価格は普遍ではなく、欲しい人と与える人の間で決めるものという考え方が行き渡っているのだ。価格がすでに決まっていて、そこに疑問の余地がない日本とは大きな違いだ。

 また時間の感覚の違いにも大きな衝撃を受けた。エジプト人と待ち合わせ時間を決めると、決まって最後に「インシャッラー」という言葉を付け加えるのだが、このインシャッラーが曲者。日本語に訳すと「神が望むのであれば」という意味で、この最後の一言がついた時に相手は約束の時間に現れない。遅れてやって来た(時に約束をすっぽかした)相手に「なぜ時間通りに来なかったのか?」と問い詰めると「未来のことは人間が決めるものではない。“神が望むのであれば”と言ったよね、神が望まなかったから、その時間に行かなかったまでだ」と真顔で言い返される始末。エジプトではイスラム教を信仰しアッラーが唯一の神であると同時に、歴史の分母が5000年。だから彼らにとって神が望まないがために遅れることなどたいしたことではない。国家規模のプロジェクトでも平気で何年と遅れるのは、ここにも理由があるように感じている。

 そんな環境の中で暮らして気がついたのは、常識、そしてモノや時間の価値というのは人の数だけあるということ。この気づきがその後の人生に大きく影響を与えた。 

久々の社会人復帰
バハレーンでの研修生生活

 カイロで過ごした後、当時の東京三菱銀行の慣習に従って、同じく中東エリアにあるバハレーンの事務所で研修生として働く。エジプトなんて大嫌いだと思うことも幾度となくあったのだが、慣れ親しんだカイロから外に出ると、なんとなく懐かしさが込み上げてくる。

 日本では「中東」とまとめて表現するけれど、カイロのある北アフリカと、ドバイやバハレーンのある湾岸諸国というのは言葉も気候もだいぶ違う。だからバハレーンがカイロの延長上にある気はあまりしなかった。また学生生活から社会人生活に戻るというのも、それなりの高いハードルであったし、実際にドレーニー(最若手の日本人スタッフとして奴隷のように働くトレーニー)として、あらゆる仕事が降ってきた。

 当時のバハレーンは中東における金融の中心地で、邦銀で唯一フルバキングを行なっていた支店は比較的大きく、スタッフは30名ほど。内バハレーン人は22名、パキスタン人が2名と所謂ローカルスタッフの比率が多かった。彼らの中に入り込もうと特段意識した覚えはないけれど、湾岸のアラビア語を習得したいのと、年の離れた日本人スタッフの中でヒエラルキーに従いながら過ごすのが性に合わず、休憩時間などはローカルスタッフと過ごす時間が増えていった。

 当然だが彼らと過ごすと、色々なものが見えてくる。ローカルスタッフが日本企業の独特の文化に邪魔されて、日本人マネージャーに面と向かって言えないことも聞こえてくる。彼らの主張を聞き「筋が通っている」と思ったら、自分が間に入って彼らに寄り添い解決をめざす。ローカルスタッフと日本人スタッフの言語ではない通訳者になれるように行動した。

歴史の分母は5000年。
その大きな流れの中で物事を考える

 ローカルスタッフに限ったことではないが、中東の人々は、日本人に特別な思いを寄せていることがわかってくる。日本は一度も中東を侵略したことがなく、G7唯一のノンクリスチャン国。かつ自分たちを苦しめてきた欧米を相手に、第二次世界大戦を戦い敗戦。にもかかわらず、彼らが大好きな高性能な車や電化製品を製造し、世界第二位の経済大国にまで上り詰める、という歴史と経済についての特別な思いがある。更に、日本人の持つdisciplineこそイスラム教徒に求められるそれと同様であると感じているのである。その思いに応えようと意識することもなく、自然と中東の歴史と文化に敬意を持って彼らに接するようになった。

 今ではドバイやドーハといった未来都市のような街が興隆し、日本人が中東を見る目も大きく変わったが、自分がバハレーンにいた2000年あたりは、中東というと日本から大きく遅れをとった国のように捉えられていた。でも大きな歴史の中で考えれば、世界4大文明のうちの3つ——メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明は中東エリアで興ったし、産業革命が起こるまで世界の中心地は中東だったと言っても過言ではない。ワイン、ビール、コーヒー、ヨーロッパの名産と信じられている文化の多くは中東で生まれ、ヨーロッパにもたらされている。化学や代数や天文学といった学問もしかりである。中東エリアの歴史の分母は5000年、一方日本の歴史の分母が2600年。文化、技術、学術レベル、どれをとっても中東は長らく世界を先取っており、日本の大先輩。尊敬の念を抱かずにおれるだろうか。

 このように歴史の分母を意識するきっかけも中東が与えてくれた。自分が生まれてからという短い時間の流れでなく、明治維新や産業革命、時には紀元前やホモサピエンス誕生、さらには生命誕生のカンブリア爆発の5.4億年といった具合に遡る思考法は、世界中の人々と良い関係を築く秘訣であるように感じる。

日本に帰国し、JBIC(国際協力銀行)へ。
中東とプロジェクトファイナンスを2軸に据える

 2001年、バハレーンでのドレーニー生活から解放され日本に戻る。日本を離れた3年半の間に、行内は三菱色が強くなっており正直、居心地が悪かった。この居心地の悪さは、社会に出て初めての東京勤務ということから来ていたのかもしれない。突き詰めたいと思っていたプロジェクトファイナンスの部署ではあったが、再び、中東に戻りたいと願ったとしても、当時の東京三菱銀行にいたのでは次の駐在がいつになるかが読めない。

 ちょうど外資系バブルの真っ最中で、転職活動など何一つせず、むしろ退職を前提とした留学準備を始めていた自分のところにも外資系金融機関の引き合いが多数くる。外資系金融に興味はなかったが、あるヘッドハンターが持ってきたJBICの求人に目が止まった。

 ラクロスの日本代表だった大学時代。国を代表して戦っている感覚は自分にとって気持ちの良いものだった。自分もチームももっと高いところに手が届くのではないかという高揚感。政府系金融機関であるJBICなら、まさに「日の丸を背負う感覚」で仕事ができ、ラクロスの国際試合で得た「あの高揚感」を再び得られるだろうという確信があった。

 JBICでは中東とプロジェクトファイナンスの2軸を自分の中にセット。911でマイナスイメージがついた中東だが、原油価格が持ち直し、オイルマネーの増加で注目が集まる中、イランへの貸付の再開や、サウジアラビアの国営石油会社アラムコと住友化学の石油化学プロジェクト、オマーンの石油精製プロジェクトなど、巨額な案件の主担当として日本と中東を反復横跳びしながら、里帰りの日々を過ごす。中東ビジネスの目まぐるしい進展を背景に、現場の拠点として中東に事務所をオープンする話が持ち上がる。2005年にはドバイ事務所設立準備専任となり、立ち上げのためにドバイに生活拠点を移した。

 当時の中東の金融センターはまだバハレーンで、ちょうどドバイがその地位を奪う直前のタイミング。ドバイは政府肝入りの金融センターのために立派なビルを作ったものの、まだ中身がスカスカという状態。そんな中、日本の金融機関として初めてドバイに進出を決めたことでドバイ政府も喜んで全面的にバックアップをしてくれた。オープニングセレモニーでは、ドバイのモハンマド首長のパトロネージュを取り付け、湾岸各国から大臣クラスを呼んで開催した。当時、カタールの首都ドーハも中東の金融センターの地位を狙っていたこともあり、カタールから大臣クラスの参加がなかったのも懐かしく思い出す。

 当初は、地盤もコネもないところにゼロから事務所を立ち上げるというプロジェクトのように見えたが、それまでに築いた個人的ネットワークや、プロジェクトを通じて醸成された信頼関係を総動員することで、仲間と「デカい花火をあげようぜ」と励まし合いながら執り進めた。

 ゼロから何かを創り上げることに加わることができるのはスリリングだ。そこに好奇心や興奮と同時に恐怖心があったのも事実。しかし何を始めるにも、誰かがどこかで前例がないところから始めている、前例は作り上げるものであり、自分がその前例に携われるのならば、それは最高の喜びだ。実際には、あちこち奔走し、苦労や悩みもいっぱいあったのだろうが、そんな想いをもって事務所開設を前に前にと進めた。モチベーションは何かといえば、中東と日本の架け橋になりたい、というヴィジョンの実現であったし、そのために、拠点を機能させれば、中東向けのファイナンスを加速することができ、中東と日本の関係強化につながるという希望だったのだと思う。振り返ってみれば、そんなことをやっている自分がかっこいいじゃない、という自己顕示や承認欲求があったのも否定はできない。だいたい、今このインタビューに応えているのも、少しでも誰かのお役に立ちたい気持ちに加え、そうした自分が今でも多少は存在していることを告白しておきたい。

MBAをドバイでスタート、英国で取得。
非欧米国にある欧米のビジネススクールで得たこと

 ドバイに出店し一息ついた後、長年取りたいと願っていたMBAに挑戦することを決めた。JBICの事務所と同じ金融センターの中にできたLBS(London Business School)のドバイ校一期生。初の海外進出校ということで、イギリス本国の気合いも入った素晴らしい学校だった。1年目はドバイキャンパスで受講、2年目からはロンドンキャンパスの講義を受講という、合計2年弱のプログラム中は、仕事と休暇をやりくりしながら夢中で勉強。

 なぜドバイでMBAなのか? 中東での経験が長いからか、自分にはこの世の中が欧米的なシステムでコントロールされていることへの疑問があって、本当にそれでいいのかという問題意識をもっていた。であればLBSのような欧米の価値観を凝縮した「1丁目1番地」でそれを体験しないと実際に何が語られているかわからないし、欧米の価値観をよく知らなければ、中東や日本に新しい風を吹き込むことができないと考えたからだ。

 MBAで得たことは4つ。1つ目は入学から卒業までをやりきったという内的な自信。2つ目は仕事しながら「難しそうに見える」MBAをやり遂げた人という周りからの評価。3つ目はプログラムで学んだ欧米的なセオリーそのもの。プロジェクトをマネージする実践の場で活かすことができた。そして4つ目は、何より一番の果実であるネットワーク。湾岸経済の中心的存在となっていくUAE人やサウジ人、カタールやオマーンの王族ファミリー、アフリカにビジネスを展開するインド系英国人やレバノン人、ガテマラの水泳代表選手、などと親交を深めることで、多様な考え方を知ることができたし、ビジネスにも役立った。彼らとのつながりは今でも宝物だ。

やりたいことに向かいドライビングシートに座って1ミリだけ向こう側へ
会社はそれを実現させる乗り物でしかない

 今年、社会に出て28年、JBICに勤務して丸20年となる。最近では、研究の仕事の間にインタビューや取材に応じたり、大学で教鞭をとったり、経済誌に寄稿したり、スタートアップ企業のサポートをしたり、高校ラクロス部のOB会の運営やラクロスソサエティの活性化に携わったりと幅広い分野で積極的に活動している。時に睡眠時間を削っても依頼を受け入れるのは「断らない先に何かが必ずある」ことを知っているから。これらの依頼は自分がやりたいから受けているのであって、「やらされ仕事」ではない。面倒だと感じることはあっても楽しんでいる自分がいる。さらに、断らないでいるのが理由なのか、自らが動かすプロジェクトに人を巻き込もうとすると、断られることもあまりない。これも、「自然の法」なのだろうと感じている。

 結局、人々が何に嫌な感覚を持ち合わせているかといえば、隷属している感覚が一番辛いのではないだろうか。会社で上司から一方的に頼まれる仕事、それが一番、つまらない。

 自分は会社を「やりたいことを実現するための乗り物」だと思っている。もし、やりたいことができず、仕事を楽しめないのであれば、乗り方を変えたり、性能をアップしてみるといい。すなわち会社の中で自分ができることを働きかけて、仕事の効率をアップさせたり、体制を変える。最初から決まっていることなど何もない筈だし、自分の経験から言えば部署レベルでもできることは意外とある。

 それでも難しいのであれば異動を申し出る。それが叶わないなら、乗り物を変える、つまり転職する。または別の乗り物を作って——起業したり、副業したり——本業と一緒に並走するのも今の時代であればありかもしれない。人生の幸福とは、自分がハンドルを握りドライブをしている状況から得られるものであり、それは、たった1ミリだけでもよいので向こう側ヘ行く感覚だ。

 社会人経験が長い自分の場合は、これからは本業という乗り物のほかに色々な乗り物を作って並走させながら、やりたいことはなんでもやろうと考えている。自分の培ってきた経験、ネットワーク、知識を必要な人のところに注いでいくことによって生じる化学反応をとても楽しみにしている。

海外ビジネスに携わっている人へ
日本と海外を隔てている国境とはなんだろう?

最後に海外ビジネスとの関わりの中で感じたことを伝えたい。

 島国である日本では海の向こうが海外で、海がそのまま国境になっている。一方、中東は第一次世界大戦後に列強が勝手に引いた線が国境になってしまっている。そんな特殊な国境を持つ地域と深く関わり合いをもってきたからか、自分は国境で国内と国外を分ける考え方に疑問を感じている。大体、宇宙から見たら国境など存在していないのだし、国内外で大きな違いがあるというのは、私たちが、生まれてから受けた教育に基づく価値観の違いから勝手に築き上げた幻想なのではないか?日本では国際感覚をもつこと=英語を話しながら、欧米主導の考え方でビジネスを行うことのように考えられている部分が見て取れるが、果たしてそれは本当の国際感覚と言えるのだろうか?

 今一度、自分らしさや日本人らしさをしっかりと据えた上で、国境に関係なく地球の上で暮らす人々のお役に立っていこうという感覚があれば、何にも怯むことなく自分が満足いく成果が出せるのではないかと思う。日本もそれ以外の国も、世界の一部なのだから、何をしていても、国際的な舞台で仕事をしていると言えるだろう。あるいは、地球は宇宙の一部なのだから、誰も皆、宇宙的な「志事」をしているとも言えるのかも知れない。

【文】黒田順子(2022年7月執筆)

Aun Communication のコメント:

 尊敬の念を持ちながら中東諸国やその国民に接してきた玉木氏。その思いや態度は相手に伝わり、彼らと信頼関係を構築できたのは想像に容易い。海外では「以心伝心」や「あうんの呼吸」がなく、言葉にしないと伝わらないことが多いため、強く自己主張する必要はあるだろう。しかし、もっと大事なことは、赴任国や現地の人々に対して「興味をもつこと」「知ること」「聞くこと」で、それがないとどんなに強く主張したとしても、自分の意見や考えは受け入れられないだろう。

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